あらゆる状況を楽しんで生きて行きたいと思います。昔の話も多いのですがぼちぼち更新中。Facebookからの友達申請もお待ちしています。 http://facebook.com/Kohsuke.OZAKI
土曜日, 9月 22, 2012
JALインフォテックの日々
先日9月19日、日本航空が見事に再上場を果たした。公的資金3500億円を国民負担無く返却し史上まれに見る短期間で黒字化を成し遂げたことは喜ばしいことだ。極限状態にあった企業がこうも急激に変わることができたのは稲森和夫さんという卓越した外からの経営者による徹底した経営哲学の啓蒙があったのは勿論だが、甘えを捨てた社員の一丸となった努力と忍耐の継続あるいは犠牲によるものが大きいのだろう。
昨年の6月まで4年3ヶ月という期間、JALインフォテック(JIT)というIBMとJALとの出資会社にいて出向役員を務めた。何もできなかった、という気持ちが残っている。もう離れて1年以上になりようやく振り返ることができるようになった。
僕が参加したのはIBMが51%の出資をしていた10年のうちの7年目からの約4年間でありJALがこの会社の株を買い戻すことで幕を引いた。会社のDNAとしては明らかにJALのものを持っていたJITにIBMのプロセスと文化を融合させようとした10年間であったが、特に意識という面で最後まで成功に辿りつけなかった。
出向した当初のことを思い出す。本当に自分で務まるのかという思いがよぎって通勤定期を買うかどうかを迷った。もちろん買ったのだが。しばらく空席になっていた企画ポジションで入ったのだが、現場ではどうも招かれざる客である雰囲気は間違いなかった。会議では僕の座る席の隣は必ず空いていた。
JALから出向していた人はIBM出資時代が終わることを望んでいるのは明らかで露骨な発言もあり辛い思いをしたことも何度かあった。目に見えない対立と微妙なバランスの時代が続き(恐らくその前からずっとだったのだろう)、もちろん色々なことが前に進んでいるのだが会社としては少しずつ無理をしながら協調して経営をしていた。
企画のポジションからもう少し大きな事業組織のラインのポジションに変わった。自分を理解してもらうことの不足により応援してくれる人も少ないため、そのポジションにいることが精一杯だった。やりにくかったのは僕にとっての本社であるIBMのやり方がこの会社の実情と乖離していたことだ。IBMの会社なので当然ながら同じ方針に従うと考えるIBMと現場中心には自分の子会社である意識を変えないJAL。この状況はJITの現場にも当然伝わり、バランスの取りにくさの一因となっていた。
僕にとってこの会社がやっと一体感を持ち始めたと感じたのは皮肉なことにJALが会社更生法を適用した2010年の1月頃からだ。本当に甘えを捨てて何とかしなければ、と気持ちが全社に浸透し動き出したのは最終局面であるこの時期のような気がする。社長や役員の交代もあり雰囲気が変わったことも大きい。サバイバル・タスクという一連の改革活動を実施した。それは需要促進でありコスト削減でありお客様との一体化であり組織変革と人材育成であった。初めて現場と一体となってこれらを企画し実行し、成果は徐々に現れてきた。
さらに一体感が強まり社内の議論や活動、お客様との連携が活性化したのはJALがこの会社の株を買い取ることが合意されJIT社員に通知された2011年1月だった。6月30日をもってIBMとの資本関係は解消ということになり方向性が明確になった。本当に会社というものがどう変化するのかというのは面白い。全社の事業部を超えた協業も盛んになされるようになった。
6月のゴールを迎えるためにはたいへんなことが多かった。4月の四半期の初には6月30日までの営業日を数えた。後何日で終わるという意識は後何日しかないという意識にすぐ変わった。濃密な時が流れていた。
僕にとってはこの最後の1年半が一番楽しかったという記憶が残っている。この最後の時期のプロパー社員のラインの皆さんやJALとIBMからのボードメンバーは僕にとって決して忘れることがないだろう。
JALとIBMによる出資会社でアプリケーション保守というサービス領域で国内最大の規模の仕事ができたことは大きな経験となった。また会社役員としての経験は必ずこの先の仕事に活かすことができるだろうと思う。
(写真は2011年6月にJITに最後に出社した日の朝にオフィスの近くで)
金曜日, 1月 26, 2007
仕事、冬の時代に学んだこと
どんな状況でも楽しみながら仕事をしているのですごく脳天気な人間と思われているが、そんな僕にとって仕事、冬の時代というべき時期があった。会社の仕事のことで泣いたことなどほとんどないのだがこの時は悔しくて涙が止まらなかった。やせ我慢する方なのでもちろん人前で泣くわけではないのだが、人知れず何時間も号泣した経験の一つ。
僕がぎりぎり20代の頃、まとまった仕事を任される機会があった。ある地方銀行のお客様で情報システムを構築する仕事。そのお客様は某メーカーのシステムを使い続けていて、うちの会社のシステムを初めて採用した新規顧客だ。こういうお客様はITに関する文化が違い理解いただくのに苦労するものだ。僕は構築提案から入った。うちの会社の価値を享受いただきコスト的にも見合うのはパッケージ開発しかない。いくつかの同業態のパッケージ化を検討した。この経験は初めてではなかったのでいくつかの評価観点を設けて比較を行った。結果、西南方面の銀行のパッケージが最適と思い提案した。提案は受け入れられ、僕はそのままプロジェクト・マネージャ(PM)をやることになった。やりがいのある仕事だと思った。
しばらく横浜の自宅から出張形式で仕事をしていたが、現場監督であるPMが現場にいなければ仕事にならない、と家族を連れて地方都市に転勤した。
プロジェクト計画を作った。期間は2年と3ヶ月。要員は平均約20名。完璧な計画ができたと思った。ただしそれをお客様が理解していただければ。僕は若くて未熟であった。パッケージの修正率を抑えることとプロジェクト工程の精緻さに気が入って、お客様のシステムに対する想いと業務を理解していなかったのだ。
お客様のカウンター・パートの人はOさんといって僕より一回り上の年齢の凄まじい人だった。その感情的なことと思い込みが激しく非条理なところはお客様の組織の中でも特異な存在のようだった。僕の業務理解不足と経験不足はすぐにOさんにはわかったに違いない。日々の攻防が始まった。何しろ人格を否定するような責め方をするのだ。しかも政治的にいやらしい感じではなくすごく純心な人で思ったことをそのまま口に出すタイプの人なのだ。僕にもくだらないプライドがあり、言い続けられることは精神的に耐えられなかった。
肉体的にも極限状態となった。Oさんの要望を満たすことが信頼を得る必要条件であったため、優先順位の低いことでも彼のためにやらなければならなかったのだ。この考えが間違いと気付くのは随分後のことだったが、その時はいたしかたなかった。普通の日の睡眠を3~4時間にして土日の両方を出ても彼の要望には追いつかない。その状況が数ヶ月続いた。
僕は少しずつ精神的に肉体的に参っていった。
計画は少しずつ遅れていった。表面上は遅れずに品質上遅れていったのだ。Oさんにそれを理解してもらおうと努力した。しかし彼はまったく僕を相手にしなかった。そして予定通りにプロジェクトが進んでいるという自信を持ち続けた。彼もまた経験が無かったということは後からは理解できた。
プロジェクト・メンバー全員にアンケートを出した。何が問題か?何をすれば解決できるか?いい意見をたくさんもらった(手書きでもらったその紙は今でも机の中にある)。しかし実行に移せることは少なかった。そして僕とOさんとの関係を見てメンバーの心も僕から離れていった。僕はお客様からも自分のメンバーからも孤立していった。
次に僕は会社に訴えた。僕は任されていたために管理されることがなく、状況の報告を要求されなかったことも禍したのだ。自分の上司に訴えた。このままでは絶対に期日どおりの開発ができないこと。Oさんを替えるように会社として働きかけるべきであること。そうすれば成功すると思えること。本当はそれが本質ではなかったことにも気付かなかったのだ。その頃に上司だった人はとても優秀なシステム・アーキテクトでどちらかというと政治的な切った張ったは苦手な人だった。Oさんはこの人のこともなめきっていたし、この人もお客様に働きかけることはできなかった。また会社からははもっと切羽詰まったプロジェクトがありこれはまだましな方だと言われて有効な対応を取ることはできなかった。
とうとう破局がやってきた。稼動予定日の3ヶ月前のことだ。当時お客様のIT部長であり役員である人は人格者で僕はいろいろな相談をしていたのだが、Oさんを飛び越えて話すのを避けたのに加えて精神的に参り始めてからはあまりこの人にも真実を伝えられないでいた。諸々の報告結果からこの人がプロジェクトの状況を「危機的な状況にある」と判断したのだ。もちろん正しかった。開発の遅れと機器手配の遅れにより予定通りの稼動は不可能、というものだが本質はそんなものではなくプロジェクト管理が破綻していていたからなのだ。それもこの人は理解していた。僕の会社に対する大きな激しいクレームが届けられた。
すべての見直しがなされた。体制的には簡単に言うとOさんはお客様の組織内でリーダーから外され、僕は自分の会社の中で外された。お客様のPMは副部長クラスのYさんとなり、自分の会社のPMは大ベテランのHさんとなった。(Hさんは昨年会社を辞められたがその直前に話をする機会があり、本人はそのつもりだったのでプロジェクト・マネージメントはどうあるべきだということを紙にまとめて手渡してくれた。)
僕もOさんも逃げるわけにはいかない。そのままプロジェクト内にアドバイザーという名目で残されたが失敗したリーダーとして辛い立場となった。その他にも採算を度外視して要員を投入し新体制によるプロジェクト計画の見直しの後にスケジュールは約半年の遅延となった。
僕は一時すごい虚無感にとらわれた。今まで一生懸命やってきたことは何だったのだろう。自分が立てた計画は何の意味があったのだろう。もはや僕はリーダーでも何でもなくこの何年かやってきたことは何の価値もなかったというのか。
でも逃げてはいけないと思った。どんなことにも耐えて最後までやろう。プロジェクトが終わってシステム開発が完了するまで。
幸いなことにHさんも同時に参加したサブリーダー格の同期のMも、またお客様もプロジェクトとして協調路線となりその後のプロジェクトを何とか進めることができた。最後は会社側の1リーダーとして稼動の儀式に参加させてもらった。この6ヶ月は何も考えずに、「逃げない」ということだけを自分に言い聞かせた。
すべてが終わり、僕は転勤先から東京の本社に戻ることになった。この頃は戻る時期も既にわかっていたので家族は子供の幼稚園の都合で先に横浜に戻っていた。荷物をすべてダンボールに詰めて部屋に山積みにして明日は引越しという最後の晩だった。仕事を終えて家に帰り布団だけ残して最後の箱詰めを行った。
そしてダンボールの山に囲まれながら、部屋に座り込むと僕はここに来て初めて泣いたのだ。
「僕は負けたのだ。負けてこの地を去るのだ。仕事に失敗し僕を信頼した会社の期待に応えられなかったのだ。僕について来た人々を不幸にしたのだ。」
と思うと悔しくて涙が止まらなかった。大声をあげて泣いた。眠れもしなかった。目の前に積まれたダンボールの山を見ながら何時間も泣いた。
ここでの仕事は僕にとって大きな意味を持つことになった。プロジェクトの失敗経験はもちろん大きな教訓となった。それに加えて大きく学んだことは2つあった。
人との仕事上のやり取りに関してどんなに厳しくても激怒されても、あの時のOさんに比べるとまだましだと思うと精神的に耐えられるようになったのが一つ。そういう意味でOさんには妙に感謝している。
どんな状況でも絶対に逃げない、ということに関してが二つ目だ。仕事に対して精神的に信じる拠り所があれば、立場がどうであれ逃げない自信がついた。次に同じような状況になっても決して逃げないだろう。
比較的長く辛い時期を過ごしたこの頃は、僕にとって仕事冬の時代であった。身につけたことをバネにして新しい仕事に臨んでいるつもりである。
それからの仕事も成功ばかりではないが自分の精神面を強くした経験としてこの冬の時代に身に付けたことが役に立っている気がするのである。
僕がぎりぎり20代の頃、まとまった仕事を任される機会があった。ある地方銀行のお客様で情報システムを構築する仕事。そのお客様は某メーカーのシステムを使い続けていて、うちの会社のシステムを初めて採用した新規顧客だ。こういうお客様はITに関する文化が違い理解いただくのに苦労するものだ。僕は構築提案から入った。うちの会社の価値を享受いただきコスト的にも見合うのはパッケージ開発しかない。いくつかの同業態のパッケージ化を検討した。この経験は初めてではなかったのでいくつかの評価観点を設けて比較を行った。結果、西南方面の銀行のパッケージが最適と思い提案した。提案は受け入れられ、僕はそのままプロジェクト・マネージャ(PM)をやることになった。やりがいのある仕事だと思った。
しばらく横浜の自宅から出張形式で仕事をしていたが、現場監督であるPMが現場にいなければ仕事にならない、と家族を連れて地方都市に転勤した。
プロジェクト計画を作った。期間は2年と3ヶ月。要員は平均約20名。完璧な計画ができたと思った。ただしそれをお客様が理解していただければ。僕は若くて未熟であった。パッケージの修正率を抑えることとプロジェクト工程の精緻さに気が入って、お客様のシステムに対する想いと業務を理解していなかったのだ。
お客様のカウンター・パートの人はOさんといって僕より一回り上の年齢の凄まじい人だった。その感情的なことと思い込みが激しく非条理なところはお客様の組織の中でも特異な存在のようだった。僕の業務理解不足と経験不足はすぐにOさんにはわかったに違いない。日々の攻防が始まった。何しろ人格を否定するような責め方をするのだ。しかも政治的にいやらしい感じではなくすごく純心な人で思ったことをそのまま口に出すタイプの人なのだ。僕にもくだらないプライドがあり、言い続けられることは精神的に耐えられなかった。
肉体的にも極限状態となった。Oさんの要望を満たすことが信頼を得る必要条件であったため、優先順位の低いことでも彼のためにやらなければならなかったのだ。この考えが間違いと気付くのは随分後のことだったが、その時はいたしかたなかった。普通の日の睡眠を3~4時間にして土日の両方を出ても彼の要望には追いつかない。その状況が数ヶ月続いた。
僕は少しずつ精神的に肉体的に参っていった。
計画は少しずつ遅れていった。表面上は遅れずに品質上遅れていったのだ。Oさんにそれを理解してもらおうと努力した。しかし彼はまったく僕を相手にしなかった。そして予定通りにプロジェクトが進んでいるという自信を持ち続けた。彼もまた経験が無かったということは後からは理解できた。
プロジェクト・メンバー全員にアンケートを出した。何が問題か?何をすれば解決できるか?いい意見をたくさんもらった(手書きでもらったその紙は今でも机の中にある)。しかし実行に移せることは少なかった。そして僕とOさんとの関係を見てメンバーの心も僕から離れていった。僕はお客様からも自分のメンバーからも孤立していった。
次に僕は会社に訴えた。僕は任されていたために管理されることがなく、状況の報告を要求されなかったことも禍したのだ。自分の上司に訴えた。このままでは絶対に期日どおりの開発ができないこと。Oさんを替えるように会社として働きかけるべきであること。そうすれば成功すると思えること。本当はそれが本質ではなかったことにも気付かなかったのだ。その頃に上司だった人はとても優秀なシステム・アーキテクトでどちらかというと政治的な切った張ったは苦手な人だった。Oさんはこの人のこともなめきっていたし、この人もお客様に働きかけることはできなかった。また会社からははもっと切羽詰まったプロジェクトがありこれはまだましな方だと言われて有効な対応を取ることはできなかった。
とうとう破局がやってきた。稼動予定日の3ヶ月前のことだ。当時お客様のIT部長であり役員である人は人格者で僕はいろいろな相談をしていたのだが、Oさんを飛び越えて話すのを避けたのに加えて精神的に参り始めてからはあまりこの人にも真実を伝えられないでいた。諸々の報告結果からこの人がプロジェクトの状況を「危機的な状況にある」と判断したのだ。もちろん正しかった。開発の遅れと機器手配の遅れにより予定通りの稼動は不可能、というものだが本質はそんなものではなくプロジェクト管理が破綻していていたからなのだ。それもこの人は理解していた。僕の会社に対する大きな激しいクレームが届けられた。
すべての見直しがなされた。体制的には簡単に言うとOさんはお客様の組織内でリーダーから外され、僕は自分の会社の中で外された。お客様のPMは副部長クラスのYさんとなり、自分の会社のPMは大ベテランのHさんとなった。(Hさんは昨年会社を辞められたがその直前に話をする機会があり、本人はそのつもりだったのでプロジェクト・マネージメントはどうあるべきだということを紙にまとめて手渡してくれた。)
僕もOさんも逃げるわけにはいかない。そのままプロジェクト内にアドバイザーという名目で残されたが失敗したリーダーとして辛い立場となった。その他にも採算を度外視して要員を投入し新体制によるプロジェクト計画の見直しの後にスケジュールは約半年の遅延となった。
僕は一時すごい虚無感にとらわれた。今まで一生懸命やってきたことは何だったのだろう。自分が立てた計画は何の意味があったのだろう。もはや僕はリーダーでも何でもなくこの何年かやってきたことは何の価値もなかったというのか。
でも逃げてはいけないと思った。どんなことにも耐えて最後までやろう。プロジェクトが終わってシステム開発が完了するまで。
幸いなことにHさんも同時に参加したサブリーダー格の同期のMも、またお客様もプロジェクトとして協調路線となりその後のプロジェクトを何とか進めることができた。最後は会社側の1リーダーとして稼動の儀式に参加させてもらった。この6ヶ月は何も考えずに、「逃げない」ということだけを自分に言い聞かせた。
すべてが終わり、僕は転勤先から東京の本社に戻ることになった。この頃は戻る時期も既にわかっていたので家族は子供の幼稚園の都合で先に横浜に戻っていた。荷物をすべてダンボールに詰めて部屋に山積みにして明日は引越しという最後の晩だった。仕事を終えて家に帰り布団だけ残して最後の箱詰めを行った。
そしてダンボールの山に囲まれながら、部屋に座り込むと僕はここに来て初めて泣いたのだ。
「僕は負けたのだ。負けてこの地を去るのだ。仕事に失敗し僕を信頼した会社の期待に応えられなかったのだ。僕について来た人々を不幸にしたのだ。」
と思うと悔しくて涙が止まらなかった。大声をあげて泣いた。眠れもしなかった。目の前に積まれたダンボールの山を見ながら何時間も泣いた。
ここでの仕事は僕にとって大きな意味を持つことになった。プロジェクトの失敗経験はもちろん大きな教訓となった。それに加えて大きく学んだことは2つあった。
人との仕事上のやり取りに関してどんなに厳しくても激怒されても、あの時のOさんに比べるとまだましだと思うと精神的に耐えられるようになったのが一つ。そういう意味でOさんには妙に感謝している。
どんな状況でも絶対に逃げない、ということに関してが二つ目だ。仕事に対して精神的に信じる拠り所があれば、立場がどうであれ逃げない自信がついた。次に同じような状況になっても決して逃げないだろう。
比較的長く辛い時期を過ごしたこの頃は、僕にとって仕事冬の時代であった。身につけたことをバネにして新しい仕事に臨んでいるつもりである。
それからの仕事も成功ばかりではないが自分の精神面を強くした経験としてこの冬の時代に身に付けたことが役に立っている気がするのである。
土曜日, 11月 25, 2006
入社式ってどこ?と言っていた頃
当時同期で入社した中で親しい人にはよくこう言われる。 「○○(僕)が真っ先に辞めると思っていたのに本当に意外だよな。」 こう言う彼を含めてたくさんの人間が転職したり中には起業したりしているのだ。
僕自身、会社に入った頃は自分が企業なんかでやっていける人間とは思っていなかった。学生時代は音楽しかやっていなかったし、常識も社会性も自信ない。とにかく必死でついていかないと、と思っていた。必死の方向がやや人と異なってはいた訳だけれど。
1985年3月31日。明日は入社式であり僕は社会人としての一歩を踏み出すことになる。その日は学生時代最後の日であった。僕は旅に出ていてた。今日中に東京の叔母の家(家を見つけるまでしばらく間借りすることになっていた)に戻り、明日から会社通勤だ。
旅行の道中何度と無く思う。明日はいよいよ入社式だなあ、気分を入れ替えてがんばらなけりゃ!、と。そこで気がついた。 「待てよ。入社式ってどこでやるんだろう。何時に。」
まあ、そんなような人間だったのだ。気持ちはひきしまっていたつもりなのだが前日までそんな確認もせず旅行に出ているだなんて。もちろん会社からの通知は来ていただろう。寮に住んでいたので郵便物を僕がちゃんと受け取らなかったかどこかに紛れてしまったのだろう。
入社式は当然、本社でやるものと思っていたし時間も9:00からだろう、と漠然と考えていたのだがよく考えると大きな会社だからどこか別の会場かもしれないし、初日はもっと早く集合するかもしれないではないか。 誰かに聞かなくちゃ。だがあいにく今日は日曜日なのである。会社は休み。困ったな、と。とりあえず9:00に本社に行ってみる?それから誰かに聞けば何とかなる? いやいや全然違う場所だったら大遅刻だ。何しろ東京って広いからなあ。
会社の代表電話番号にかけてみることにした。録音メッセージが流れる。その中で緊急の場合は何番と言っている。その番号にかける。警備の人らしき人が出た。明日の入社式のことですけど、と聞いてもちょっとわかりません、との答え。そりゃそうだろう。僕は言った。 「それでは申し訳ありませんがどなたでも結構なんで会社にいる社員の方に回していただけませんか?」 警備の人も明日からの新入社員なのでまあムゲに電話を切るようなこともなく、何とか休日出勤をしているどこかの部門の人につないでくれたのだ。その人に尋ねる。 「今年入社するものなのですが、実は明日の入社式の場所と時間がわからないのです。教えていただくわけにいかないでしょうか?」
その人も困ってしまったようだった。そりゃそうだろう。大きな会社なので人事関連の仕事でもしていない限りその年の入社式がどこか、なんて知ったことか。ところがその人は困っている僕を哀れに思い、社内の情報を調べてくれると言うのだ。 「ありがとうございます!」 僕は叔母の電話番号を伝えて電話が鳴るのを待つ。小一時間して電話が鳴った。その人が教えてくれた。やはり入社式は某ホテルの会場で時間は9:00。助かった~!
入社式に来れなくてクビになったら洒落にならんもんな~。
入社して配属された部門の新人オリエンテーションでこの話をしたら、新人の中では結構受けたのだがオリエンテーションが終わってからその部門の新人を預かる課長はこそっと僕を呼んでこう言った。
「○○、お前はもう少し個性を隠さないと会社ではやっていけんな。」
その頃は経済状況も会社の業績も今より余裕があったのと、特に僕の配属された部門が社内の技術部門でそういう意味ではゆったりしていた。新入社員研修は期間として1年3ヶ月もあって最初は自習書をひたすら読まされた。僕は僕なりにこのように考えていた。会社に来ているのだから会社で本を読むなんてもったいない。会社にいる時はできるだけ先輩と話をして仕事のことや会社のことを少しでも知る努力をしよう。それから夜は会社の人と飲みに行こう。本を読んで勉強するのは家に帰ってからでもできるのだから。
実際にそのように行動していると毎日色々な人と飲み会をやることになり、金を使う使う、新人の薄給の身分をわきまえず使うものだからクレジット・カードの借金が毎月毎月積もっていった。やっと返せたのは冬のボーナスだったかな。
僕は酒が好きだし、まあたくさん飲む方だ。強いかというとそうでもなく、翌日は二日酔いの時も多い。ある二日酔いの午前中にもう起きていられなくて最近覚えた会議室の予約を行い、同期の新人をドアの入り口近くの席に見張りとしてすわらせて会議室で寝ていたこともある。
まあビジネス・マナーなんて常識は普通考えればわかることも身に付けていない。ある日などは朝時間がなくてひげを剃らずに家を出て、通勤の途中で缶コーラを買い、会社に入って自分の席に座り、まずタバコを一服。灰皿は会社にあるのだが面倒なのでコーラの空き缶へ。あげくの果てに自席でおもむろに電気シェーバーを取り出しそのままグイーン・グイーンとひげを剃り始めた。 僕のことを色々世話を見てくれていて夜も付き合ってくれる先輩のKさんが、これにはさすが驚いて、
「○○、○○、ちょっと来い!」
と僕を人のいないところに引っ張って
「いいか、○○、まずタバコを吸う時は灰皿を使え。ひげは剃って来い。もし会社で剃らざるを得ないんだったらトイレに行ってやれ。」 と、もう幼稚園児みたいなことを注意してもらったのだ。
このK先輩が後に会社でソフトウェア製品を担当していた時にお世話になった。あのヤンチャ坊主が会社で何とかなってるなんて、と思ってるに違いない。
それでも要領がいいので研修の成績はまずまず。課題を自主的にやるような研修の時は早めにそこそこのレベルで終えてしまって似たようなタイプの新人と抜け出て喫茶店にさぼりに行く。気持ちは一生懸命の積もりなのだが、やってることは学生以下だったように思う。
そのツケはすぐにやってきた。やはり社会人としてまともな感覚を持っている同期の人にはとてもかなわず、研修の成績もどんどん落ちていく。僕が本当に世の中の厳しさを身にしみるのは研修期間に希望を出して社内技術部門から現場に異動し、初めてのお客様を担当した頃だ(初めてのお客様に学んだこと参照)。
それでも必死にくいついたので、何とか今もこの会社で仕事をしているという訳だ。
入社した時の同じ部門の同期というのはずいぶん長く付き合いが続くものだ。 頭の回転の早いOは転職した後に自分の会社を起業、今はフリーのWebデザイナーをやっている。皆にからかわれてJohn呼ばれていた男も実は優秀で転職を繰り返して外資系日本法人の社長をやったりしている。OやJohnとは時々会って話すが世界が違ってとても面白い。英語が完璧だったKはストレージ会社に転職。どうしているだろう。当時から優秀だったSや入社した時からしっかりしたビジネスマンだったIは同じ会社の重鎮として重要な仕事をしている。女性のSさんもエンジニアとして最重要なお客様のプロジェクト最前線にいる。今でも助け合える仲間達だ。
という訳で入社当時は社会人としてまったく自信が無かった僕も何とか社会で生きていくに必要なことを身に付けた。偉そうに新入社員の面倒も見る。 「入社式ってどこでやるんだろう?」というのは秘密。でもないか。時々話している。というか現に今も書いてるし。
もちろん今でもヤンチャな面は残っているようだ。ちょっとワイルドで型破り、そういうマネージャでありたいと思っている。
僕自身、会社に入った頃は自分が企業なんかでやっていける人間とは思っていなかった。学生時代は音楽しかやっていなかったし、常識も社会性も自信ない。とにかく必死でついていかないと、と思っていた。必死の方向がやや人と異なってはいた訳だけれど。
1985年3月31日。明日は入社式であり僕は社会人としての一歩を踏み出すことになる。その日は学生時代最後の日であった。僕は旅に出ていてた。今日中に東京の叔母の家(家を見つけるまでしばらく間借りすることになっていた)に戻り、明日から会社通勤だ。
旅行の道中何度と無く思う。明日はいよいよ入社式だなあ、気分を入れ替えてがんばらなけりゃ!、と。そこで気がついた。 「待てよ。入社式ってどこでやるんだろう。何時に。」
まあ、そんなような人間だったのだ。気持ちはひきしまっていたつもりなのだが前日までそんな確認もせず旅行に出ているだなんて。もちろん会社からの通知は来ていただろう。寮に住んでいたので郵便物を僕がちゃんと受け取らなかったかどこかに紛れてしまったのだろう。
入社式は当然、本社でやるものと思っていたし時間も9:00からだろう、と漠然と考えていたのだがよく考えると大きな会社だからどこか別の会場かもしれないし、初日はもっと早く集合するかもしれないではないか。 誰かに聞かなくちゃ。だがあいにく今日は日曜日なのである。会社は休み。困ったな、と。とりあえず9:00に本社に行ってみる?それから誰かに聞けば何とかなる? いやいや全然違う場所だったら大遅刻だ。何しろ東京って広いからなあ。
会社の代表電話番号にかけてみることにした。録音メッセージが流れる。その中で緊急の場合は何番と言っている。その番号にかける。警備の人らしき人が出た。明日の入社式のことですけど、と聞いてもちょっとわかりません、との答え。そりゃそうだろう。僕は言った。 「それでは申し訳ありませんがどなたでも結構なんで会社にいる社員の方に回していただけませんか?」 警備の人も明日からの新入社員なのでまあムゲに電話を切るようなこともなく、何とか休日出勤をしているどこかの部門の人につないでくれたのだ。その人に尋ねる。 「今年入社するものなのですが、実は明日の入社式の場所と時間がわからないのです。教えていただくわけにいかないでしょうか?」
その人も困ってしまったようだった。そりゃそうだろう。大きな会社なので人事関連の仕事でもしていない限りその年の入社式がどこか、なんて知ったことか。ところがその人は困っている僕を哀れに思い、社内の情報を調べてくれると言うのだ。 「ありがとうございます!」 僕は叔母の電話番号を伝えて電話が鳴るのを待つ。小一時間して電話が鳴った。その人が教えてくれた。やはり入社式は某ホテルの会場で時間は9:00。助かった~!
入社式に来れなくてクビになったら洒落にならんもんな~。
入社して配属された部門の新人オリエンテーションでこの話をしたら、新人の中では結構受けたのだがオリエンテーションが終わってからその部門の新人を預かる課長はこそっと僕を呼んでこう言った。
「○○、お前はもう少し個性を隠さないと会社ではやっていけんな。」
その頃は経済状況も会社の業績も今より余裕があったのと、特に僕の配属された部門が社内の技術部門でそういう意味ではゆったりしていた。新入社員研修は期間として1年3ヶ月もあって最初は自習書をひたすら読まされた。僕は僕なりにこのように考えていた。会社に来ているのだから会社で本を読むなんてもったいない。会社にいる時はできるだけ先輩と話をして仕事のことや会社のことを少しでも知る努力をしよう。それから夜は会社の人と飲みに行こう。本を読んで勉強するのは家に帰ってからでもできるのだから。
実際にそのように行動していると毎日色々な人と飲み会をやることになり、金を使う使う、新人の薄給の身分をわきまえず使うものだからクレジット・カードの借金が毎月毎月積もっていった。やっと返せたのは冬のボーナスだったかな。
僕は酒が好きだし、まあたくさん飲む方だ。強いかというとそうでもなく、翌日は二日酔いの時も多い。ある二日酔いの午前中にもう起きていられなくて最近覚えた会議室の予約を行い、同期の新人をドアの入り口近くの席に見張りとしてすわらせて会議室で寝ていたこともある。
まあビジネス・マナーなんて常識は普通考えればわかることも身に付けていない。ある日などは朝時間がなくてひげを剃らずに家を出て、通勤の途中で缶コーラを買い、会社に入って自分の席に座り、まずタバコを一服。灰皿は会社にあるのだが面倒なのでコーラの空き缶へ。あげくの果てに自席でおもむろに電気シェーバーを取り出しそのままグイーン・グイーンとひげを剃り始めた。 僕のことを色々世話を見てくれていて夜も付き合ってくれる先輩のKさんが、これにはさすが驚いて、
「○○、○○、ちょっと来い!」
と僕を人のいないところに引っ張って
「いいか、○○、まずタバコを吸う時は灰皿を使え。ひげは剃って来い。もし会社で剃らざるを得ないんだったらトイレに行ってやれ。」 と、もう幼稚園児みたいなことを注意してもらったのだ。
このK先輩が後に会社でソフトウェア製品を担当していた時にお世話になった。あのヤンチャ坊主が会社で何とかなってるなんて、と思ってるに違いない。
それでも要領がいいので研修の成績はまずまず。課題を自主的にやるような研修の時は早めにそこそこのレベルで終えてしまって似たようなタイプの新人と抜け出て喫茶店にさぼりに行く。気持ちは一生懸命の積もりなのだが、やってることは学生以下だったように思う。
そのツケはすぐにやってきた。やはり社会人としてまともな感覚を持っている同期の人にはとてもかなわず、研修の成績もどんどん落ちていく。僕が本当に世の中の厳しさを身にしみるのは研修期間に希望を出して社内技術部門から現場に異動し、初めてのお客様を担当した頃だ(初めてのお客様に学んだこと参照)。
それでも必死にくいついたので、何とか今もこの会社で仕事をしているという訳だ。
入社した時の同じ部門の同期というのはずいぶん長く付き合いが続くものだ。 頭の回転の早いOは転職した後に自分の会社を起業、今はフリーのWebデザイナーをやっている。皆にからかわれてJohn呼ばれていた男も実は優秀で転職を繰り返して外資系日本法人の社長をやったりしている。OやJohnとは時々会って話すが世界が違ってとても面白い。英語が完璧だったKはストレージ会社に転職。どうしているだろう。当時から優秀だったSや入社した時からしっかりしたビジネスマンだったIは同じ会社の重鎮として重要な仕事をしている。女性のSさんもエンジニアとして最重要なお客様のプロジェクト最前線にいる。今でも助け合える仲間達だ。
という訳で入社当時は社会人としてまったく自信が無かった僕も何とか社会で生きていくに必要なことを身に付けた。偉そうに新入社員の面倒も見る。 「入社式ってどこでやるんだろう?」というのは秘密。でもないか。時々話している。というか現に今も書いてるし。
もちろん今でもヤンチャな面は残っているようだ。ちょっとワイルドで型破り、そういうマネージャでありたいと思っている。
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