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土曜日, 12月 21, 2013

KIXというバンド

 少し前にFBでドラムのKよりメッセージが入り、学生の時にKIXという名前のバンドをやっていたギターのSさんが何年か前に亡くなったということを知った。Sさんは僕より8つ年上で二十歳ぐらいだった当時は随分おっさんだと思っていたが50代で亡くなったのだと思うのでお若くしてご逝去されたものだ。大学卒業以来、一度もお会いできなかった。心よりご冥福をお祈りします。

 ということもあり、KIXというバンドのことを少し思い出して書いてみる。また最近、昔の写真をデジタル化したので何枚か共有してみる。







 このバンドは僕にとってはSouk,Funk系の音楽を広く聞くきっかけになり、またオリジナル曲を作ってライブに出演した大切な経験となっている。

 大学の3回生の頃だと思ったがその亡くなったSさんから何故かSoul系のバンドをやるという声をかけられた。Jazzしかやっていなかった僕に何でかな、と思ったがSさんも僕のことはよく知らなかったらしい。最初のバンド名は北白川Funky Rhythm Sectionと言った。
 Vocalは途中で替わり、Alto Saxの同期のFは卒業して抜け、Drumsは初期メンバーのOさんがプロになってから何度も替わったが、バンド名をKixに変えた最後の1年ぐらいは以下の9人のメンツでやっていた。
Guitar: Sさん(♂京大)
 当時は留年の期限を超過し京都の楽器屋の十字屋に勤務していた。ブルース系の人で当時は先輩ながら癒し系の存在。
Bass: Oさん(♂京大)
 当時からものすごくうまかったがこの後バークレー音楽院に行って、今や日本を代表するジャズベーシストとなっている。
KeyBoard:Nさん(♀京大)
 とっても才能のある人で天真爛漫。で、とても美人。後にOと結婚。
Vocal:Yさん(♂京産大)
 とても感情の量が多い人で気分の浮き沈みが多かった。泥臭い(スマートとは逆の)ボーカル。
Drums:Kさん(♂同志社大)
 性格もプレイもご機嫌で明るくファンキーな人。バンドのムードメーカー。卒業後は別のバンドで東京でしばらくプロを目指していた。大阪在住。
Trumpet:K村さん(♂近畿大)
 僕の高校の吹奏楽部の同期。卒業後は関西のアローオーケストラ等で音楽活動をしていた。京都在住。
Tenor Sax:K山さん(♂京大)
 飲み会ではすぐに意識を失うので体中にマジックで字を書かれる。すごくいい音を出していた。今は自動車メーカーでヨーロッパ勤務。
Trombone:Cさん(♂京大)
 めちゃくちゃ頭が良くて面白い奴。楽器は完璧で今は東京近辺のフルバン関係者では有名。で、銀行員。
と、私(KeyBoard)。

 最初はコピーをやっていたが、後半は曲を持ち寄ってオリジナル・バンドになった。
 
 コピー曲で記憶に残るのはD.HathawayのWhat's going on、Little getto boy、King CurtisのMemphis Soul Stew、Larry GrahamのFoxy Lady、Kool&Gangの...曲名忘れた、Earth Wind&FireのLearnin' Yearnin' 、Stevie WonderのDo like you、Another Starとか。
 オリジナルはみんなで持ち寄ってたくさん作ったが、Nさんの作った曲が抜群に良くて、いまだに口ずさめるメロディがあるぐらい。

 最初のライブは京都のサーカス&サーカスというところだった。今はもう無い。その後は、今でも四条富小路にあるが磔磔(たくたく)というライブハウスでやっていた。大学の学園祭にも出場。たくさんのお客さんに来ていただいた。打ち上げは大概、「ん」という居酒屋でやって盛り上がった。K山が酒を飲むとすぐに寝てしまうので、みんなで身ぐるみをはがし油性のマジックを店から借りて体中に落書きをするのが恒例となっていた。顔には必ず卍マークを書いたのでマンジという芸になっていた。

 練習は大学の軽音楽部のボックスとトーマススタジオというスタジオで週2回ぐらいやっていた。練習後も今思えばみんな仲が良く、喫茶店に行ったり音楽ビデオ(当時はLaser Disk)が見れる店に行ったりしていた。そのまま朝までみんなで日本海までドライブしたことさえあった。

 最後のライブを磔磔でやって、この時にレコーディングを行った。今でもきれいな音で残っている。打ち上げの時は、もうこれで最後だと思うと悲しかった記憶がよみがえる。

 その後はそれぞれ卒業して就職したり音楽活動を続けたりそれぞれの道を歩んだが、いまでも年に何回か会う人も多い。

 昨年の夏からOをゲストにしたセッションが入谷の「なってるハウス」という企画されてOとNのご夫婦には年に1回ぐらいはこれからも会えそうだ。
 Cとはフルバン関連のイベントやリハーサルで年に何度か顔を合わせる。K村は京都の高校の同窓会が割と頻繁にあるため数年に一度は会う。Yさんはどこにいるだろう、北海道?K山はベルギーにいるためFBのみ。Kも大阪なのでFBのみ。Sさんとは残念ながらもう会えない。

 何だかこう書いていくとこのバンドは学生時代の青春そのものだったような気がする。

 昔の投稿(http://zacky-kohs.blogspot.jp/2006/11/blog-post_17.html)

日曜日, 1月 15, 2012

音楽留学ショートプログラム *






















 久しぶりの投稿なので少し昔のことを書く。昨年の7月に数週間の休暇を取る機会があり、少し前から考えていたショート音楽留学をすることにした。

 留学なので滞在もホームステイで週2回だけのJAZZピアノのレッスンで昼間は個人レッスン用のスタジオが貸与されるというプログラムだ。

出向していた会社での仕事が終わってこのように休暇が取れることもないだろうというのと、Jazzメッセンジャーズの最初の女流ピアニストJoan Brackeenのレッスンが受けられるというのでその気になった。

 ホームステイ先はBrooklynの黒人女性の開業医の家で親切でサバサバした人でよかった。隣にスベイン人の学生がいる。その家から毎日朝早く出て夜遅く帰る1週間が続いた。

 一人での留学なので時間を持て余すだろうと思い午前中は語学レッスンのオプションを取ってMetropolitan College of New YorkにあるLSI(Language Study International)という語学スクールに通っていた。初日のテストでIntermediateクラスに入れられたが、英語をクラス形式で英語で習うのは、よく考えると初めてで新鮮だった。他の生徒はSpain,Italy,Brazil,France,Korea,Taiwan,Porlandなどから。

 午後のマンハッタンはとても暑くて外に出ていると焼け死にそう。それで涼しいスタジオでの個人練習はちょうど良い時間帯となった。

 夜は毎日どこかのライブハウスでJazzを聴いた。

Jimmy&Albert Smith at Village Vanguard
Mingas Orchestra at Jazz Standard
B3 Groove at SMOKE
Airto Moreira at Blue Note

等の最高のパフォーマンスが鮮やかな印象として残る。

 肝心のピアノレッスンであるが2回だけだがとても貴重な経験となった。
Joanne Brackeenはローアーマンハッタンの自宅で優しく教えてくれた。上品で親身に話してくれてとても尊敬できた。

 Invitation,On green dolphin street,Now's time,Wave, My one and only love それからJoanneのオリジナルを練習してきてくれと言われて合わせてもらった。覚えている言葉だけであるが次のようなアドバイスをもらった。

Jazz is language. To play with many players helps your music. Same as language. Listen to music lot and play many songs with different tempo and rhythm. That will help you. Listen to bass and drums. Playing together is important.(metronome helps a half). Don't be always loud. From silent to loud. Improvisation must be melody related, not play many tones. Your touch is too strong for light music. And feel relax.

Improvisation should be related with melody line. Don't fill tones. Your play is correct but a bit plane. Timing and codes are like this. I'll show you....

NYCも終盤になって、少し迷ったあげく、深夜のグリニッジビレッジのSMALLという店のジャムセッションに乱入。という暴挙に出てみた。sax2人とギターとリズムセクション。簡単なのしかできないと言ってStella by starlightを弾かせてもらった。何とか殺されずには済んだ。あ、一応ソロの後には拍手してもらったので。
 さて今回初めての体験をつまらないことも含めて並べてみる。

・格安航空券での旅行
面倒だったので実は初めて。少し前から決めて選べばだいぶ違うね。
・ESTA申請
この制度になってから空港では申請と情報がリンクしているようでかなり楽。
・Amadeusでの米国航空券購入
Bostonに1日だけ行った時に使用したがよくできているシステムと思う。
・Amadeusでのホテル予約
これも適切な情報が提供されている。
・ホームステイ
この年になってねえ!
・海外での語学学校(英語での英語クラス)
みんな真面目にやっていて僕も学生の気分に戻された。
・海外の英語でのジャズ・ピアニストのレッスン
最高の経験!
・海外でのスタジオ利用
Times Square近くのとても良いスタジオだった。
・デリでpaniniを食べる
これまずいんですけど。
・海外でのjam session参加
もう怖いものはない!
・ブロードウェイのオンライン予約
Blue Man結構面白かった。

 この1週間での経験やBrackeenに習ったことはこの後の何年かで湧き出てくるだろうと思う。そんな1週間になったと思う。少しずつ自分のピアノが良くなっていくだろうという確信も持てた。

土曜日, 4月 24, 2010

久々のバイショウ


 関西ではバイショウと言ったのだが、東京ではゴトシというらしい。先週金曜日に久々にバイショウをやった。場所はヒルトンホテルで某団体でのディナー・パーティでのバイショウであった。メンバーはいつもバンド活動をやっているRose(vo)とこの関連で最近付き合いのあるOさん(b)。

 バイショウは商売、ゴトシは仕事のことでミュージシャン用語なのだが音楽演奏をやってお金をもらうことを言う。バンドのライブ活動等と違うのは報酬のためだけに演奏する、という点である。ライブ活動は自分や自分のバンドのやりたい演奏、表現したい音楽をやってお客様に聴いてもらってチャージをいただく(もちろんいただかない場合もある)のだが、バイショウはその場のニーズに合わせて演奏をして報酬をもらう。
 この日の年齢層は60歳代でジャズ・スタンダード中心に10曲程度をトリオで演奏した。RoseのMCもいつも通りGoodでウケはまあまあ良かったように思う。

 大学時代にバイショウは大きな小遣いの源泉だった。大学生活の最後の1−2年はちょくちょくバイショウの話が入るようになっていた。普通の肉体労働系のバイトに比べると時間効率は格段に良かった。25年前は生演奏をやるイベントやお店はもっと多かったのだろう。
 誰か仲間や音楽の先輩が話を持って来たり、どこかの事務局から電話がかかってきたりする。演奏するのは今回のようなホテルでのイベントやダンパ(ダンスパーティ・・・死語)、ピアノラウンジや生演奏付きのバー、キャバレー、スキー場のペンション等である。僕ら学生が音楽事務局から連絡されるのは主にトラ(代役)としてで、事務局の方もプロの人の穴があいて困ることも多いらしく学生の連絡先リストを持っていたようである。

 当時のバイショウを思い出すと、、、

 大阪の繁華街でのキャバレー。店の名前は忘れた。だいたいは京都での学生バンド活動が多かったが大阪でやっていたバンドが一つだけあって1−2回このバイショウに呼ばれた覚えが。。。当時の典型的なキャバレーでステージがあり客のBOX席があっておねえちゃんがいる、という感じの店。ポップスやジャズを譜面を渡されて演奏する。(バイショウの譜面は基本、当日お店に行ってから渡される)
 同じく京都三条にあるベラミという当時の京都では名の知れたキャバレー(山口組田岡組長狙撃事件のあったところ)。ここは仕事がきつい。30分のステージが5回あって報酬がたったのG(ゲー)千(5,000円)。客層もそれなりなので演奏も緊張してやっていた。メイン演奏がクールファイブだったことも。。。
 大阪の某企業のダンパ。当時やっていたソウル系バンドにて。ダンパが一番報酬が良かったし楽しかった。1時間ぐらいの演奏でバンドでC(ツェー)十万(10万円)ぐらい。もっとも十人近くのバンドだったから人数割りだが。
 嵐山の方に赤まんまという店があった。ピアノラウンジ風のお店。ピアノだけでやったり歌の人が入ったり。
 梅田のラウンジの話があって行った時はボーカルのおねえさんが演奏中にしか譜面を配ってくれないのでスリル満点。次の曲の紹介をしながら横から譜面を渡してくる。ピアノはウタバン(歌の伴奏)では前奏を出さなければいけないのでこういうのは非常に厳しいのだ。
 クリスマス・シーズンはホテルでのイベントが多くちょくちょくバイショウ話があった。ベースのHさん(大学先輩)とRoseで京都のホテルでやったことがあった。Hさんがホテルに工事かなんかの作業の人と間違われて大笑い。
 スキー場のペンションでの演奏。若い女の子がたくさんいながら仕事に徹する学生バンドマン。当時も今も真面目?
 
 という感じで1回5千円から1万円ぐらいなのだが、拘束時間は短かいし(通常は3時間ぐらい)何しろ貧乏学生だったもので報酬としてはありがたかった。好きな音楽の演奏でお金になる訳だし勉強にもなるのでできるだけ断らずにやるようにしていた。
 
 バイショウ、特にキャバレー系のやつは基本的にやるべき音楽の種類が決まっており、中にはマンボとか演歌曲も含まれる。当然ながら自分の好きな音楽をやれる訳では無いのでミュージシャンもバイショウの時は結構つらい場合も多いはずだ。なかなか音楽で食べて行くのは難しくて当時も名のあるミュージシャンでも結構バイショウをしていた。

 という訳で会社に入ってから純粋なバイショウらしいバイショウをしたのは今回が初めてだと思う。10年程前に新宿のスナックで月一で演奏していたことがあったが、これは基本的にバンドでやりたい歌をやらせてもらっていたので。また最近(3年前)では千葉の職場近くのバーでこれも月一でやっていてお金もいただいていたが、こちらも好きにやらせていただいていた。

 今回のイベントや客層の品格が高かったのでこちらも気持ちよく演奏ができた。最近は生バンドもハヤラないので、こういう仕事もだいぶ減ったようだ(この日にやったベースのOさん談)。でも機会があれば、たまにはこういうバイショウもいいな、と昔を思い出しながら書いてみた。

 (写真は直接関係ないのだがマイルス・デイビスの書いた絵) 

日曜日, 1月 14, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その2)


 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。前回はまた音楽をやり直してみようと思ってからバンド活動を再開し、ピアノを弾くことを諦められずにまた弾き始めたことを書いた(社会人になってからのバンド活動を想う(その1)参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/01/blog-post.html)。それからのこと、つまりこの10年ぐらいを書いてみたい。 (一部mixi仲間に関してはハンドル・ネームを使わせてもらっているのでご容赦ください)

 社会人になって最初に再開したバンドは学生時代の気の知れた仲間を集めた「ほくそ笑みブラザーズ」というバンドだったがボーカルのE嬢が旦那のN(テナーサックス)の仕事でアメリカに行ってしまった。E嬢なき後の「ほくそ笑みブラザーズ」の話。
 その時(1997年)に仕事で担当していたお客様の接待中にお客様の業務部長(当時次長だったか?)のカラオケ、大都会を聞いてこれは!と思いバンドやりませんか、とモーションをかける。とてもいい人でこの後しばらくやることになったのがS田さんだ。歌もうまいし落ち着いていてステージ映えもするボーカリスト。まずはポップス曲、ロック曲を16ビートにアレンジしてやった。Time after time とか Honky Tonk Womanとか。 メンバーはベースが当時「ゆめゆめJail」というバンドでやっていたS、ドラムスが「まつ」関連で紹介してもらったTK大のE沢くん、オリジナル・メンバーのギター・コジロウ、キーボードH。それからコーラスにTの奥さんの友達のYちゃん。一時期はやはりその頃の僕のお客様関連で知り合ったAさんというボーカルが入っていた時もあった。ホーンセクションは死神ホーンセクションと呼んでいてオリジナル・メンバーのアルト・サックスK、テナー・サックスY(通称死神博士),バリトン・サックス・えんたく(特技「女」)。

 しばらくするとビートルズの曲を集めて16ビート・アレンジでやるようになった。メンバーはほぼ同じ。Elinor Rigby、Drive my car、Sgt. Pepper's lonely hearts club band、Lovely Rita など。 ビートルズは僕がPOPSを聴くきっかけになった音楽だ(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。対バンでライブをやった。この頃から自分のやりたい音楽をテーマを決めて一つずつやっていこうと思い始めた。

  ビートルズの次が「We need Miles」バンド。Miles Davisは僕がJazzをやり始めた理由でありやり続けている理由でもあるミュージシャンだ。Electric Milesに挑戦! 「ほくそ笑みブラザーズ」の対バンで知り合った「まごごろの家」というバンドがあった。宗教団体でも介護施設でもなくTR大のOBと現役のバンド。リーダーでドラムスのMは最高にファンキーな男だった。このバンドのメンバーに声をかける。「まごころの家」からドラムスがM、ギターがN、キーボードがA、ベースがM、トロンボーンがF。「ほくそ笑みブラザーズ」系からアルト・サックスK、テナー・サックスY,バリトン・サックスえんたく、キーボードH。
 ライブでやった曲は今から思うととてもチャレンジでTutu, U and I、One phone call などはいいとしてライブでやっていたStar Peopleからの曲を中心としたメドレーや何と Jack Johnson のダイジェスト再現までやった。ご法度のような気もするが演奏はかなり面白いものになった。ブレークのパターンをいくつか作ってテンション溢れたライブとなった。 六本木First Stage(http://www2.odn.ne.jp/firststage/)にて。1998年ごろ。

 次は「e-Hancockバンド」Herbie HancockのElectricアルバムから。と言ってもだいぶ後期だが。メンバーはMilesバンドとほぼ同じだがベースがTR大現役のSくん、キーボードに対バンで知り合ったKさん、ボーカルに「ほくそ笑みブラザーズ」のS田さんとやはり仕事で知り合ってすでに一緒に流しのバンド活動をやっていたM嬢、ドラムスは後述のParadise Go Go!関連で知り合ったUさん、「まごころの家」のMくんはパーカッションで。曲はFeetsよりYou bet your love、SunlightよりI thought it was、Dis is da drumから一曲、Tell me a bed time story など。1999年だと思ったがやはりFirst StageでのライブとTR大の学園祭で演奏させてもらった。この頃は「まごころの家」の関係で毎年のようにTR大の学園祭で演奏していた。知らない現役の人は僕のことをOBだと思っていたかもしれない。

 そして「I wish!」。言うまでもなくStevie Wonderのカバー・バンドだ。Key of Life 全曲やるぞ~!と立ち上げた。全曲はできなかったがそれでもまるまる2ステージのレパートリーを持っていた。ボーカルはS田さん、コーラスにYちゃん率いるBagus,パーカッションに「ゆめゆめJail」つながりのO戸くん。後はほくそ笑み系でギター・コジロウ、アルトサックスK、トロンボーンF、バリトンサックスえんたく、ベースS、キーボードがHと僕。2回ライブをやった。まあまあ安定した演奏で良いライブができた。

 M嬢との流しのバンド活動に関して。M嬢はジャズ・ボーカルを勉強中であったがとても活動的で上野アリエスなどで定期的にライブをやっていた。1998年頃から「First Friday Orchestra」というバンドを結成した。メンバーはM嬢、ベースSと僕がコアでトランペット&パーカッションAO(学生時代Foul Playersで共演、「まつ」関連バンドでのつきあい)、テナーサックスえんたく(このところずっとやっている、特技は「女」)が入れれば入る。

 First Friday の由来について。当時新宿に「まあチキン」というスナックがあってココットさんというママがいた。何故この店に出入りするようになったかというと、「ほくそ笑みブラザーズ」のリハの後で居酒屋で打ち上げをやっていると隣のオジサン・オバサンのグループが盛り上がって歌を歌いだした。それもなかなか本格的。意気投合して一緒に歌っているうちにそのうちの一人であるココットさんの店で合同演奏会をやることになったのだ。ココットさんは若い頃ほとんどプロとして活動してきたボーカルの人でほんとにうまかった。後はクラシック・ピアニストのOさん(女性)。男性も何人かいて会社員だが昔はかなり鳴らした感じのシャンソン・ボーカリストだった。合同演奏会自体は僕が先走りすぎて一部のオジサン・オバサンに反感を買いはらはらしたが、最後は何とか気持ちを通じることができた。そして月1でこの店でライブをやらせていただくことになったのである。第1金曜日の夜と決めたのでFirst Friday Orchestra。
 仕事のある平日なので余程うまくスケジュールする必要があったが1年以上無欠勤でライブ活動を続けた。曲はすべてJazzスタンダードの歌もの。歌伴は今まであまりやっていなかったのと曲数も広げなければいけなかったため勉強になった。終わった後はそのままお店で飲んで夜中になるとセッション風に演奏をし続けた。とても楽しい思い出となった。

 M嬢とはJazz以外にもソウル系の曲をとりあげてやったことがある。「Soul Edition」というバンドでドラムスがAO、ギターがT、ベースがS。対バンのライブを2回ぐらいやったと思う。
 この頃、会社の同じ部門にI村とRという人がいた。I村は同じキーボードでParadise go go!(同名のアイドルバンドとは別) という息の長いバンドをやっている陽気な男。Rはヨーデルの世界では名が知れていると自分で言っておりバイオリンも弾ける生まれつきのエンタテーナーだった。この頃からI村の企画でライブ・イベントをやるようになった。またRも司会、バイオリン等でイベントに参加した。「Soul Edition」でもI村企画の対バンのイベントでRを入れてステージをやった。AOとRと僕でヨーデル風アカペラに挑戦したがこれは失笑を買った。

 2002年にE嬢が日本に戻ってきた。さっそくバンドを再開することにした。Jazzスタンダードのボーカル・バンドを始めた。 ドラムスはAO、ベースはKonceptのK、アルトサックスK、テナーサックスえんたく(後に脱退)、トロンボーンFでずいぶん長いことやっている。年に3~4回ライブをコンスタントにやるようにしているためだいぶバンドとしての余裕ができてきた。E嬢がMCで場を盛り上げてくれるから助かる。定例的にやっているのは学生時代からの付き合いでH大学出身テナーサックスのTの経営している「なってるハウス」。「まつ」のイベントにも不定期で出演している。

 2003年にボーカル,コーラスのYちゃんからTower of Powerのカバー・バンドをやらないかと誘われる。TOPのオルガン・パート弾けるなんて、それだけで嬉しかったのですぐに加入。Revive Brainというとてもレベルの高いバンドですごく勉強と刺激になった。リード・ボーカルは関西系でD大出身のKちゃん。共通の知人も何人かいた。コーラス&パーカッションは同じく関西系のKやん。金融マンとは思えぬファンキーさ。コーラスはYちゃんとAちゃんの二人(Yちゃんは後に脱退)。ドラムスは会社員もやりながらプレイヤーとプロデューサーを両立させているEさん。すごいバイタリティーと思う。ベースはIくんで付き合いやすいキャラですごい努力家だ。ギターがEarth Wind & Fighters(知る人ぞ知るEW&Fのカバー・バンド)のギタリストで最高の音楽性と寛容な人間性を持つすばらしい人だった。ホーン・セクションがすごい。楽器を職業でやっている人が中心でペットのコージさん、ボントロのチーズさん、テナーサックスのノムヲさん、トランペットのTDLさんに加えてアルトサックスのK(D大、ほくそ笑み関連)。TOPのホーン・パートを毎回ほとんど一発で合わせていた。高田馬場でのイベントを皮切りにFriday、Thums upなど横浜中心にライブを数回やった。惜しくも解散してしまったがすばらしいメンバーだった。

 解散に前後してコージさんに声をかけられてMaynerd Fergusonを追求されるバンドに参加する。演奏レベルが高くて音楽や楽器にかける情熱がすばらしい人ばかりで、ピアノは僕なんかでいいのだろうかと感じるぐらい。その名もMF Tributeバンド(http://www7.plala.or.jp/tp/mf/)。トランペットはリーダーのMFパートのコージさん以下、トップのカルロス、Magnum、マネージャのYoshiさんで全員が素晴らしいプレイヤーだ。ボントロは熱いプレーのスティーブとRevive Brainでも一緒だったチーズ。スティーブが出張中にKさんがトラの時期があった。アルトサックスにKさんとテナーサックスのノムヲさん。ノムヲさんと僕は寸暇を惜しんで酒を飲む習性が似ている。リズムセクションはプロでやっているベースのsato-hiroくんとRevive BrainのドラムスのEさん。このリズム・セクションでのスリリングな展開が最近とても楽しみになっている。  昨年の横浜のLaf & Stingでのファースト・ライブをスタートにBフラットでの対バン、DugホールでのMF追悼ライブ(会場マネージャは以前ほくそ笑みでやってもらってたトランペットのKさん)。Maynerd Ferguson氏は2006年8月23日に亡くなった。このバンドは実は9月に氏が来日する際にクリニックを受け前座をやる予定だった!氏の急な逝去にはバンド一同本当に悲しんだ。  トランペッターのエリック宮城さんにバンドとしてクリニックを受けた時は本当に勉強になった。やはりプロの音楽力の深さはもの凄い。かつ辛抱強く教えていただきエリックさん人間の深さを感じた。先の追悼ライブでは何曲か共演していただいた。
 Magnumの依頼で実力派で本格的な活動をしている藤沢SJS(喇叭ヲタクさんリーダー)のイベントに参加させてもらった。大きなホールでプロ・トランペッターの田中哲也氏と共演しとても気持ちよかった。K大時代の同期でK大フルバンのバンマスだったTと再会。
 このMF Tributeというバンドは本当に僕のピアノなどでは不足なのだがみんな暖かく受け入れてくれるので何とかやっている。これからもライブ活動を続けていくだろう。

  この何年か仕事で千葉氏の外房線鎌取という駅の近辺に住んでいるのだが地元でのささやかな音楽活動ということでAnchor Down(http://www.age.ac/~tomas/i/pagebar_anchor.shtml)というバーで月一回のライブを行っている。もう2年近くになる。当初はベースのKさんが入っていたが仕事が忙しくなり(東京から平日移動しなければならない),今はパーカションのO戸くんと二人でやっている。

 そして最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げた。始めたばかりなのでまだどうなるかわからないのだが、ソウルフルなボーカル・バンドをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 自分を表現すること、音楽を通じて人と会話できてお互いを高め合えること、そして素晴らしい仲間と知り合えること! バンド活動により音楽を続けていくことによりいくつになっても豊かな人生を歩んでいきたいと想うのだ。

火曜日, 1月 02, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その1)


 最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げることにした。大人のゆったりしたそれでいてパワフルなソウルをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。ただし全部書くとすごく長くなると思うので最初の10年ぐらいを忘れないうちに書いてみる。

 学生時代にはかなり真面目に音楽をやっていたが(「学生時代の音楽活動を想う」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)、大学を卒業して会社に入った時は中途半端に音楽をやるのがいやでもうバンド活動はやめようと思っていた。学生時代に書き溜めていたコピー・ノート(ジャズの人はフレーズや曲を聞いてコピーして自分のものにする)を学生時代を過ごした京都で未練を断ち切るために燃やしてしまったぐらいだ。
 今までと180度違う会社の世界で何とか生き抜こうと必死だった頃大きな事故にあって(「バイク・リベンジ!」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_116251630224272367.html)長い期間、入院をしたのが音楽を再開するきっかけとなった。2度目の入院の時だった。ベッドの上で僕は無性に曲が書きたくなったのだ。家の人に5線紙を買ってきてもらって楽器もないのにベッドの上で曲を書いた。メロディもコードもすぐに頭に浮かんだ。歌なんか歌えないのに歌詞も作った。それでまたバンドをやることにしたのだ。

 学生時代の仲間に声をかけた。ボーカルのE嬢、テナー・サックスのN(E嬢の夫)、キーボードの後輩のH、ギターのTだ。E嬢、N、Tとは学生時代に同じバンドで知った仲だ。Hは同業なので同じバンドでは無いが最もよく遊んだ後輩で信頼できるプレイヤー。ホーン・セクションでもう一人、Hと同期のD大の有名なビッグバンドのコンマスであったKがアルトサックスで参加してくれた。ドラムはD大出身で当時から活躍していたスタジオ・ミュージシャンのSが手伝ってくれることになった。
 キーボードのHに参加してもらったのは、もう僕はピアノはちゃんと弾けないだろうと思っていたからだ。作曲に徹してバンドではベース・ラインをキーボードで弾こうと思いベーシスト無しでスタートした。
 バンド名は「ほくそ笑みブラザーズ」。Hと僕の二人のキーボーディストのコラボレーション・イメージだ。だいたいピアニストとかキーボーディストとか言うのはアレンジをやったりバンド全体を見なければいけない場合が多く、またギタリストみたいにすかっとさわやかではないので、いつも演奏しながらほくそ笑んでいることが多いのだ。それで 「ほくそ笑みブラザーズ」。  曲は僕が先に書き溜めたものから始めてHも素晴らしい曲をこのバンドのために書いてくれた。リズムにはシークエンサーを使った。ドラムスはこれを補足する形で入ってもらったので難しかったと思う。その後、ベースのI(学生時代にChicのコピー等をやったバンドで一緒)を入れて僕も半分ピアノを弾いた。結成して1年ぐらいで恵比寿でライブを行った。ちょうど僕が結婚する少し前のことだ。
 スタジオでレコーディングを行った。僕のオリジナルとHのオリジナルとDee Dee BridgewaterのBad for meの3曲。最後にライブをやったのはE嬢とNがアメリカに行く前の1996年だった。この時はしばらくこのバンドで演奏ができないことがわかっていたので気合が入っており、ビデオが残っているが結構気に入ってる。この頃はホーン・セクションに何名か加わっていた。テナー・サックスにK大後輩のY(通称死神博士)、ペットに今Dag(楽器屋)でマネージャのような仕事をしているKさん、ボントロにD大出身のT。ドラムスがSから変わってK大の先輩のTさん。この人も素晴らしい。当時「いたち」という京都で有名なバンドのドラマーだった尊敬の先輩だ。
 このバンドはその後も不定期にずっと続き今でも休止状態だが解散していない。

 その次にやったバンドはフルバンドでギル・エバンス・オーケストラの曲をHがすべてコピー・アレンジしてやったGEバンド。本当にHはすごい。耳もセンスも抜群である。Hは主にコンマスに徹していて僕がピアノを弾いた。曲はLiberty City、Eleven、Gone gone goneなど。藤沢のClajaでライブをやったのとK大学のフルバン(現役、OB)が集まって横浜でフルバン大会をやった。この頃(1995年?)僕はもう一度トロンボーンをやる気になり(高校のブラバン以来、「音楽との出会い」参照)大学の後輩からCornの楽器を安く譲ってもらって練習を始めていた。GEバンドではボントロも吹いた。

 同じ頃、ボントロでコンボをやりたい、と思い始めドラムのAO(Foul Playersというバンドで学生時代いっしょにやった)から「まつ」というJazzサークル(?http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/index.html)を紹介してもらった。AOもドラマーだがここのところトランペットを本気でやっていて一緒にコンボ・バンドに入れてもらうことになった。リーダーはベースのKさんでバンド名はKoncept。Kさんは理論派ベーシストで(生活はあまり理論派ではないようだが)、この後も長くバンド活動をやることになる。フロントはAOがペット、テナーサックスがE(K大学の名物男、特技は「女」。これもまた後で紹介しないと...)、ボントロが僕。リズム・セクションがピアノがK原さん、ドラムスがO村さん。 スタンダードから始めてモードやKさんのオリジナル等をやった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1998/bonen.html)。

 調子に乗ってボントロで「まつ」メンバーで結成されている「まつビッグバンド」に参加させてもらう。ギターのセミプロでS崎さんという方が譜面提供、コンマス、指導をしてくれていた。この人は性格的にもとても素晴らしい人で丁寧な譜面を書いていただき僕みたいなボントロでも使ってくれて、とても楽しかった。

 さらにホーン・セクションをやりたくてベースのI(学生時代にDEWというバンドで一緒)がやっている「FB’s」に入れてもらう。池袋のYAMAHAでリハと飲み。とても新鮮だった。ギターはD大出身のA、ドラムスはスタジオ・ミュージシャンのS、アルト・サックスは「ほくそ笑み」でも一緒のK。ボーカルはYAMAHAの先生で女性の名前は忘れてしまったのだが、本格的にやっているいい感じの人だった。しばらく続けたが僕がボントロからピアノに戻りつつあったために脱退した。

 「まつ」関連が続く。「まつ」の催しでコンボで演奏することに。今度はピアノで。メンバーはKonceptからテナーのE、ドラムスのO村さん、ベースのKさん。ところが本番直前になってあろうことかO村さんが亡くなってしまったのだ。ショックだった。若いのに。ドラム無しの弔いライブとなった。荏原文化センターというところで力いっぱい弾いた(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/njf/index.html)。曲はKさんのオリジナル。

 さらに「まつ」イベントで例年新宿ピットインを借り切って忘年会ライブをやるのだが長年やりたいと思っていたKeith Jarrettのアメリカン・カルテットの曲を2曲やった。The Richという曲とShadeという曲。テナー・サックスは学生時代からのつきあいのT(なってるハウス店長)、E(特技「女」)、ベースはKonceptのKさん、ドラムスはDちゃん。みんな超強力で僕のやったコンボの中で最高の経験の一つとなった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1999/bonen3.html)。

 ともかく大きな事故がきっかけでまた音楽をやり直してみようと思った。ピアノを弾くことなんて諦めていたのだけれど、バンド活動を始めているうちにやはりどうしても弾きたくなった。ここから先の後半の10年は自分がやりたかった音楽をひとつずつ、少しずつ進めていくことになった。音楽は僕のアイデンティティーの一つだということがやっとわかったのだ。

ありがとう、音楽! ありがとう、いっしょにやってくれた皆さん!
 

金曜日, 11月 17, 2006

学生時代のバンド活動を想う


 JAZZを始めたのが18歳の時だが、それからどんなバンド活動をしてきたかなあ。色々な人がいたと思うが忘れないうちに回想してみることにする。ちなみに楽器はピアノ、キーボードです(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。

 僕は大学時代を京都で過ごした。大学に入って軽音楽部に入りJAZZスクールにも通い始めた。スクールで知り合ったピアノの人に紹介されてH大学というところのT.SaxのTさんといっしょにやったのが最初のバンドかなあ。特に名前は無くてこの大学でJAZZをやるバンドがこのバンドだけだったので、しいていえばバンド名はJAZZ!この人はとてもソウルに溢れる人で当時京都では有名なバンドのホーンセクションで人間的にも大好きだった。こちらはテクニックはあるけれどJAZZなんか全然わかってなかったのに付き合ってもらってたんだなあと思う。やった曲はLa Fiesta (C. Corea )とか Maiden Voyage (H.Hancock)とか Wise One (J.Coltrane) とか難しくて全然できていなかったはずだが当時はわからずやっていた。このバンドを通じて知り合ったDsのIとはこの後長くいっしょにやることになった。

 K大のTbのA先輩にやってみるか、と言われて「自信ありますよ」と命知らずに答えてOne Way Ticketというバンドを始めた。A先輩はとてつもなくうまくてフルバンの大きな大会で賞も取っていた。僕はあまりにできなかったためにしばらくして先輩のピアニストに替えられた。勉強になったはずなので、もっと謙虚にやれば良かったと後悔。このピアノの先輩も今では関西でプロで弾いている。当時やった曲は向井滋春の曲とかSeven Steps to Heaven(M.Davis)とか。

 先のH大のTさんの関連でG大のA.SaxのSさんのフュージョン・バンドをやった。曲は当時の定番のCaptain Caribとか。まあこの頃はキーボードの弾き方もわからないので合わせて音ならしていたって感じかな?入学してすぐに買ったYAMAHA CP-30を使っていた。G大のイベントに出演。

 それからこのSさん(A.Sax)とH大のI(Drums)とD大のS(Bass)とカルテットをやるようになった。バンド名はダーティー・ラッツと呼んでいた。変な名前。練習はH大の学館ホールというところで当時はピアノの練習のためにそこに住んでたような生活。曲はスタンダードばっかり。印象に残ってるのはBilly's Bounce とか Softly as a morning sunrise とかMr.PC とか枯葉とか。トリオでもやった。閉じた世界だけど必死に練習していた。T.SaxのTと出会ったのもこの頃でTとは最近もTがオーナーをやっている店( http://members.jcom.home.ne.jp/knuttelhouse/)で演奏させてもらっている。

 割とフュージョンっぽいところから聞き始めているので自分でフュージョン・バンドを立ち上げる。フロントは2人でA.SaxのFとT.SaxのN。Aとはこの後も結構親しくバンドをやる。Nとも長い付き合いでこの後知り合うVocalのEと結婚して家族ぐるみの付き合いを続けている。DrumsはK大のビッグバンドで叩いていたM、Bassは先程のD大のS、GuitarはSの友達のO氏。David Sanborn とかTom Scottのコピーをやっていた。僕にリーダーシップが足らなかったのか、特に発表の場もなく解散。  

 同じ寮に住んでいた先輩のT.SaxのHさんに誘われて「熊野ワークショップ」というカルテットをやる。GrossmanやDave Liebmanのいかつい曲ばかり。このころはmodeといかついFusion一辺倒だったのでこう曲が楽しかったなあ。「熊野」はK大の学園祭や定演でやった。Drumsは先程のM、Bassは当時寮に住んでいたH。話はそれるがHが乗っていたバイクを買ってしばらく乗っていた(バイク・リベンジ参照)。

 この頃はバンドと言うよりセッション中心で夜の部室(ブシツ)にアマ・プロ集まって夜な夜な激しいセッションをやっていた。BassのHさんと言う個性的な先輩がいて中心的にやっていた。結構レベルが高くて回ってくると緊張が走る。この頃は昨年亡くなったPianoの市川 修さんに習っていたりRhodes MarkⅡ(73鍵)を買ったりしてJazzに打ち込んでいた。部室のセッションには市川さんやT.Saxの山中 良之さん(http://www.jazzpage.net/yamanaka/)も顔出していた。Hさんは今でも横浜近辺で活躍中。

 自分のコンボもやった。BassはHさんに付き合ってもらいDrumsはセミプロのKさんやOさんにお願いしたりした。宝ヶ池に当時あった無限というライブハウスに出してもらった。バンドとは別にバイショウも時々。当時三条にあったベラミとかピアノ・ラウンジやホテルの仕事とか。大阪や神戸に行くこともあった。

 大阪のGuitarで名前がどうしても思い出せないのだがすごいテクニックだった人。その人としばらくやっていたフュージョン・バンド。梅田まで行って練習。Pat Metheny やWeather Reportをやっていた。YAMAHAのポップコンに出場。

 どちらかというとロック系のGuitarの先輩であるSさんからブラコン系のバンドを誘われる。経験がなかったがメンツが良いので迷わず参加させてもらう。バンド名は北白川Funky Rhythm Section。Bは当時からものすごくうまかったが、今や本当に日本を代表するBassistになってしまったO(http://www.eqeq.jp/osamu/)。僕以外にもう一人Keyboardがいて歌心と言いセンスという抜群のNちゃん。とてもかなわなかったな。Vocalは当初Nさんだったが事情により抜けてしまいKS大のYさん。話題にことかかない人だったがどうしているだろう。Drumsは最初Oさんというノリのすごい人で人間的にも最高だったが何度かライブをやった後、プロのバンドで活動するために抜けてしまった。その後「いたち」という最高のバンドを一時期やっていたNさんやD大のNが入ったが合わずにD大のKで落ち着いた。最高にファンキーな男だった。Horn SectionはA.SaxのFやTpのIが当初やっていたが卒業などで変わりT.SaxのK、TbのC、TpのKとこれも強力なSectionとなった。
 最初はD.Hathaway、King Curtis、Whispers、Larry Graham なんかをやってE.W&F やKool & Gangをやるようになり後半はメンバーのオリジナル中心になった。曲とアレンジはBassと二人のKeyboardが中心に歌はVocal中心に。バンド名もKIXに変えた。シンセをやらなければいけないのでYAMAHA DX7を買った。メカに弱いので音なんて作れなかったけどね。主に磔磔(たくたくhttp://www.geisya.or.jp/~takutaku/)というところでライブをやっていた。YAMAHAのポップコンや大阪でやってたコンテストにも出た。まずまずのところまで勝ち進んだ。そしてOがプロになるためにBostonの音楽学校へ。他のメンバーも就職やらなんやらで解散となった。

 Jazzの方はA.SaxのFと「あさってデュオ」を結成。僕らのキャラが何となく「あさって」っぽいのでこの名前を。スタジオ・バリエという演劇とかをやる店があってそこで定期的にライブをやっていた。その後BassのF(http://www.max.hi-ho.ne.jp/ulmado/funato.htm)も参加して「あさってトリオ」に。Fが卒業したのでBassのFとふたたびデュオでやっていた。 BassのFはど太い音のべーシストとして活躍中だ。

 フルバンはいっさいやらなかったが4回生ということでK大フルバンに1曲だけ参加することになった。曲は秋吉敏子のMr. After Ten。録音が残っていて割りと最近聞いたけど、悔しいがやっぱり今よりいいかな?どうだろう。

 後輩のブラコン・バンドのKeyboardが抜けるというので誘われる。DewというバンドでBassのIとDrumsのKさんがノリが合わないのが楽しみのひとつ。GのTが大人で調整役。VoのEはJazz系のセッションで良く知っていたがここで初めてバンドをやる。その後EとTとは長く音楽の付き合いをすることになった。Iともしばらくやっていたがちょっと疎遠。ChorusがRとN。Rは後に脱退してKが入った。曲はChic中心。これも僕は初めてやったのだが大好きになった。捨得(じっとくhttp://www.baumkuchen.net/~ue/jittoku/)というライブハウス中心にライブ活動をやる。

 R大のK(Bass)から誘われてFoul Players(http://sound.jp/foulplayers/)というバンドを手伝うことになった。2回だけライブに参加。VocalはM、DrumsはAO、GuitarはM。曲はChaka Kahn, Dee Dee Bridgewater他。良いライブとなった。後輩のHを紹介してバンドを去る。AOとは卒業してからJazzの付き合いを長く続けている。このバンドは今でも積極的に活躍していてすごいらしい。サイトには僕がやったライブの音源もUPしてくれている。

 他に大学時代で心に残っているのはO(Bass)がアメリカに行くさよならライブ。D大のVoのOさんとかLay Downというバンドの皆さんとやれて楽しかったなあ。Lay Downとはこれとは別に大津でやったり新潟にツアーして演奏したりした。R大のAsのHとバイショウで白馬のスキー場に行ったのも想い出した(Hはナンパに失敗、僕は当時はそんなことしなかった)。

 他にも一緒にやってくれた人はたくさんいる。普段は忘れてしまっているがみんなが少しずつ心の中に残っているようで、とても感謝している。

 大学を卒業してもうバンド活動はやめるつもりだったのでこの話はここまででおしまい。長くなったし。就職してからまた始めて続けるようになってからはまた別に書きます。それでは!

土曜日, 11月 04, 2006

音楽との出会い


 ジャズやソウルが好きで社会人になって20年と少し経つがバンド活動を何とか続けている。今までどのように音楽と出会ってきたかを書いてみたい。

 音楽が好きだ、この歌が好きだという以前にピアノを習っていた。つまり音楽より先に楽器から入ってしまったわけだ。僕が4~5才の頃に母が習わせ始めたらしいのだが始めた頃の記憶は無い。いやがらずに、というか好きでピアノの練習を続けていた。小学校低学年の頃に教室のオルガンをみんなの前で得意になって弾いていた記憶が残っている。男の子なのに恥ずかしいとかいう感覚は無かったようだ。こういう曲が好きとかこういう表現をしたいとかいう想いは子供なのでまったく無い。楽器の技術に対して表現したいアイディアが追いつかないというのがこの後もずっと続いた。恐らくピアノの先生に「よくできました。この曲はあがり!」と言われて次の曲に進むのが嬉しくて続けていたのだと思う。

 小学校高学年の頃にショパンがとんでもなく好きになった。これもきっかけが思い出せないのだがピアノの発表会で素晴らしい演奏をした子供がいたか、父が持っていたショパンの曲集のレコードかどちらかだろう。また同級生にやはりピアノを習っていた体の大きな友達がいて仲が良かったのだが、彼がまたうまくて触発されて曲を弾いてみたりしていた。簡単なワルツやマズルカ等を弾いてみて自分にもショパンの曲が表現できることに感動していた。ショパン好きはそのまま中学でも続きノクターンなんかは教わったが、当時はとても弾けないポロネーズや即興曲やバラードの演奏があこがれだった。

 中学3年生の時にブラスバンド部に入った。転向した先の中学にそれまで部活でやっていた剣道部が無かったからだ。楽器はトロンボーンで特に大きな理由はない。ちょっと変わった楽器がやってみたかったというのと小学校の鼓笛隊みたいなものに属していたことがあってそこでトロンボーンを持ったことがある(その時は音の出し方もわからなかった)というぐらいのことだ。ブラスバンドはそのまま高校2年生まで続けた。アンサンブルや曲を練習して完成させる過程やコンクールで緊張する経験はとても楽しかった。京都交響楽団と学生との共演のオーディションを受けて大きな会場でやったこともある。この頃好きだったクラシックの趣向は少し偏っていたようだ。ブラスバンドを始めてからは特にピアノ曲もオーケストラも聴いたが、好きな作曲家はストラビンスキー、バルトークの打楽器的なオーケストラ曲。他にももちろん聞いたけどショスタコービッチとかチャイコフスキーとか不思議とロシアの作曲家が好きだった。

 という訳で少なくとも中学校ぐらいまではクラシックしか興味が無くて当時はやっていたフォークは付き合い程度に(話を合わせるため)しか聞いてなかったし、テレビでやっている歌謡曲なんかはまったく馬鹿にしていたというか嫌悪感をいだいていた。ちょっと視野が狭かったね。そして高校に入って何と初めてビートルズを聴いて打ちのめされたというか夢中になってしまったのだ。クラスメートから勧められたのだと思う。何から聞いただろう? A Hard Days Night とか HELP!あたりからかなあ。White AlbumやSgt.Pepper's ~等の少し後のアルバムもすぐに好きになった。これが恥ずかしながらPopsとの最初の出会いとなった。でもこの頃までは洋楽のPopsといえば聞くのはビートルズだけ。

 Jazzを初めて聞いた時はちょっと信じられなかった。アドリブとインタープレイでやっているだなんて。そんなのあり得ない!たぶん高校1年の時に渡辺貞夫のFM番組、マイディア・ライフがこれがもしかしてJazz?という最初の経験ではないだろうか。当時は福村博(tb)がレギュラーだったのだが、トロンボーンをやっていたのでなお更感動してしまった。続けて番組を聞き始めてライブやセッションの素晴らしい演奏を耳にした。何て刺激的な音楽!これしかないね、と。少ない小遣いでジャズのレコードを買い始めた。何もわからないから楽器編成とか、この人有名だよねとか、ジャケットとかで適当に買った。トロンボーン奏者の場所から選んだのでCurtis Fuller, J.J.Johson なんかから始めた。その頃適当に買ったアルバムの中で Miles Davis の Milestones ! こんな音楽聴いたことがない!スリリングなモード・ジャズが好きになった原体験となったアルバムと思う。ブラスバンドは転校のために高校2年でやめたが、その後引き続き乱聴(?)していったのだがやはり多感な時期でその後の好きな音楽を形作っていったようだ。この時期聞いた何枚かをあげると、、、
Miles Davis のAgharta・・・大阪でのelectric liveで名盤でも何でもないがこれはすごい!何回聞いたかわからない。どうやって曲を構成するのだろう。ブレークが完璧に合うだなんて。
Keith JarretのTresure Island・・・どの曲もきらきらしていてのまさに宝物のよう、しかもDown to earthでわかりやすい。
Chick CoreaのReturn to Forever・・・アルバム全体が水墨画のように美しい。しかもスピードに溢れて生き生きとしている。
Tommy FranaganのOver Seas・・・躍動感溢れるピアノ。しかもElvinのドラム・ソロは何て美しいのだろう。
 そしてJazzを始める前にJazz musicianとして生きていこうと思った。そのために大学に行こうと。結局夢は実現しなかったけれど、そう思って生きていた何年かはとても貴重な時期で僕のひとつの帰るべき原点となっている。

 大学に入ってJazzを始めた。ちょっと習った時期もあったが人に教わるのがあまり得意でないため、基本的に独学。フュージョンぽいのから始めたがMilesの60年代を聞いてHerbie Hancockが僕のアイドルとなった。何て知的でファンキーなピアニスト!この音の使い方と間の取り方といったら!!ずっとmodeぽい曲を選んでやっていた。Big Bandには興味が持てずにコンボばっかり。バップから始めなかったので結局Jazz的には遠回りになったかもしれない。でもそれは後からだから言えることで自分が感じた音楽に突っ走ることが重要だったのだろうね。どういう分数コードでテンション出そうとか、outの音を出してinに行くにはどうしたらいいとかばかり考えてた。市川 修という京都のピアニストに習った。この人はあり得ないぐらいパワフルで感性的なピアニストで大好きだった。残念なことに去年亡くなってしまったのだけれど。

 先輩のギタリストにSoul bandを誘われた。またしても刺激的な出会いはDanny HatherwayのLive!これはまさに音楽だった。これを知らずに音楽をやっていただなんて。演奏もすごければ客の反応もすごい。その場が一体になって奇跡を作り出しているという感じ。このSoul bandはその後、originalのblack contemporaryをやるようになり、僕も曲を書いたりアレンジをしたりした。今から思うとレベルが高くてバンドとしてサウンドを作り上げていくことの楽しさはこのバンドで覚えた。その場で構成やアレンジをどんどん変えていく。同じ曲をライブで何回もやるが、やるたびにどんどん変わっていく。バックもリズムも。このバンドのラスト・ライブをやって本当に自分をかけて音楽をやっていた時期はおしまい。本当の天才だけがプロフェッショナルとして音楽をやるべきだと思って普通の社会人となった。それからの音楽人生もとても楽しいということがわかった。今までの話が僕の音楽のバックグラウンドだ。それからのことや個別のクラッシックやジャズやフュージョンやソウルやビートルズの話はまた追々書いて行きたいと思う。