火曜日, 3月 26, 2024

ライバルは16歳の自分


ずいぶん長い間、blogを書かなかったのには理由がある。が、今から思えば大した理由ではないためこれには追々触れることにする。

理想通りではないが、まずは楽しんで生きていることは間違いない。Covid-19 が僕を変えたことは仕事と音楽と妻との時間のバランスだろう。意図してというよりは自然とバランスが良くなった。

その中で最近の音楽の取り組みについて書いてみる。

どうも昔やった道をもう一回辿らないと気がすまない性格らしく、2020年からピアノの練習にハノンとインベンション(バッハ)を使うようになり、思いついたのが16歳の自分を目標にしてクラシックを演ってみることだ。

勝てない!

マジ勝てないなあ、さすがに指も体感も追いつかない! まあこれはしょうがないので少しずつ近づくことにする。(または別のポイントで勝負?)

何か目標が必要なので当時少し興味のあった(でも取らなかった)ヤマハのピアノ演奏グレード5級を目指す。これでも今の僕にとっては精一杯の挑戦!

まずは11歳ごろ弾いていたモーツァルトのソナタと13歳ごろ弾いていたショパンのノクターンと15歳ごろ弾いていたベートーヴェンの悲愴の3曲(自由曲3つ必要)。で準備する。ダメだ、弾けない、まあいいか、一度受けるか!

独学で本番(演奏、初見、即興)!

やはりダメだった。間違える(これってクラシックは普通ダメ)!初見(譜面見てすぐ弾くこと)だけ合格で、即興もクラシック的にはどうも違うらしい。でも何とか再試にはなった。

1ヶ月後に同じセットで受けてみたが同じ!やっぱりちょっと誰かに見てもらうかな?試験の時は今更ながら良いアドバイスをもらった(座り方から強弱、音のカラー、抑揚とか)。

週に30分だけ気楽な感じのレッスンを始めた。色々なことにハッとした!確かにもう繊細なことは全く忘れていたことに気づいたからだ。(先生ありがとう!)

ベートーヴェンは今の自分には難しいのでインベンションの2番に変えて受けてみる。これの2回目で総合点で何とかギリギリの合格!やれば出来る!

さてその後に調子に乗ってピアノ指導グレード5級を受けることにした。これは弾き唄い(渡された譜面に伴奏つけて唄う!)、聴音(聴いて譜面を採る)、移調(渡された譜面の調を変える)、楽典(知識)。

弾き唄い!? 私を知る人は無理〜と鼻で笑うだろう!わらわば笑え!

これは準備した甲斐があり、何と一発で受かった!そんなことがあるのか、と我ながら驚愕!

さて、これが終わったら、昔やった道をもう一回辿るということでジャズを演ろうと思ったのだが(演っているのに演ろうというのも変なのだが)、まだ16歳の自分に勝ってないことに気付いた!

というわけで次はピアノ演奏グレード4級(5級の一つ上)を受けることにしている。曲もベートーヴェン悲愴ともう一曲難易度が高い昔やったことないものに変える。

これが終わったら、ようやくジャズ、次がソウル、ファンクとなる。(いつや!)

さてこのトピックスの続編が書ける日が来ればいいのだが。。。もしなかったら、あーあ、やっぱり、と結果をお察しいただいて、この件には触れずにいただけるとありがたい。

(しかし即興が最後まで合格点に至らないというのは? 得意分野のはずなんだけど!)

*写真は2023年のピアノサロンのイベントにて

関連トピックス:

音楽との出会い

http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html?m=1


月曜日, 9月 21, 2015

人生最良の日 タイ記録

 これは呆れないで聞いて欲しいのだが。
 ゴルフが全然うまくならないのだが、スコアの自己ベストが出たら、その日を「人生最良の日」と呼ぶことに決めている。

 去年初めて100を切ったが、それ以降も今までと変わらず110台が続いていたが2回目の100切りで前回の記録とタイ。まあ最良の日と呼ぶことにしよう。


 場所:   神奈川県 小田原城本カントリークラブ
 スコア:  99 In:48 Out:51
日時:   2015年9月20日       (バーディ1、パー1、ボギー7、ダブルボギー6、トリプルボギー1)
 一緒に回った人: J(弟)、Kさん(弟の妻)、S(下の子供)

 次の目標:OBを出さない
 今年の目標: 前半後半とも50以下

土曜日, 12月 21, 2013

KIXというバンド

 少し前にFBでドラムのKよりメッセージが入り、学生の時にKIXという名前のバンドをやっていたギターのSさんが何年か前に亡くなったということを知った。Sさんは僕より8つ年上で二十歳ぐらいだった当時は随分おっさんだと思っていたが50代で亡くなったのだと思うのでお若くしてご逝去されたものだ。大学卒業以来、一度もお会いできなかった。心よりご冥福をお祈りします。

 ということもあり、KIXというバンドのことを少し思い出して書いてみる。また最近、昔の写真をデジタル化したので何枚か共有してみる。







 このバンドは僕にとってはSouk,Funk系の音楽を広く聞くきっかけになり、またオリジナル曲を作ってライブに出演した大切な経験となっている。

 大学の3回生の頃だと思ったがその亡くなったSさんから何故かSoul系のバンドをやるという声をかけられた。Jazzしかやっていなかった僕に何でかな、と思ったがSさんも僕のことはよく知らなかったらしい。最初のバンド名は北白川Funky Rhythm Sectionと言った。
 Vocalは途中で替わり、Alto Saxの同期のFは卒業して抜け、Drumsは初期メンバーのOさんがプロになってから何度も替わったが、バンド名をKixに変えた最後の1年ぐらいは以下の9人のメンツでやっていた。
Guitar: Sさん(♂京大)
 当時は留年の期限を超過し京都の楽器屋の十字屋に勤務していた。ブルース系の人で当時は先輩ながら癒し系の存在。
Bass: Oさん(♂京大)
 当時からものすごくうまかったがこの後バークレー音楽院に行って、今や日本を代表するジャズベーシストとなっている。
KeyBoard:Nさん(♀京大)
 とっても才能のある人で天真爛漫。で、とても美人。後にOと結婚。
Vocal:Yさん(♂京産大)
 とても感情の量が多い人で気分の浮き沈みが多かった。泥臭い(スマートとは逆の)ボーカル。
Drums:Kさん(♂同志社大)
 性格もプレイもご機嫌で明るくファンキーな人。バンドのムードメーカー。卒業後は別のバンドで東京でしばらくプロを目指していた。大阪在住。
Trumpet:K村さん(♂近畿大)
 僕の高校の吹奏楽部の同期。卒業後は関西のアローオーケストラ等で音楽活動をしていた。京都在住。
Tenor Sax:K山さん(♂京大)
 飲み会ではすぐに意識を失うので体中にマジックで字を書かれる。すごくいい音を出していた。今は自動車メーカーでヨーロッパ勤務。
Trombone:Cさん(♂京大)
 めちゃくちゃ頭が良くて面白い奴。楽器は完璧で今は東京近辺のフルバン関係者では有名。で、銀行員。
と、私(KeyBoard)。

 最初はコピーをやっていたが、後半は曲を持ち寄ってオリジナル・バンドになった。
 
 コピー曲で記憶に残るのはD.HathawayのWhat's going on、Little getto boy、King CurtisのMemphis Soul Stew、Larry GrahamのFoxy Lady、Kool&Gangの...曲名忘れた、Earth Wind&FireのLearnin' Yearnin' 、Stevie WonderのDo like you、Another Starとか。
 オリジナルはみんなで持ち寄ってたくさん作ったが、Nさんの作った曲が抜群に良くて、いまだに口ずさめるメロディがあるぐらい。

 最初のライブは京都のサーカス&サーカスというところだった。今はもう無い。その後は、今でも四条富小路にあるが磔磔(たくたく)というライブハウスでやっていた。大学の学園祭にも出場。たくさんのお客さんに来ていただいた。打ち上げは大概、「ん」という居酒屋でやって盛り上がった。K山が酒を飲むとすぐに寝てしまうので、みんなで身ぐるみをはがし油性のマジックを店から借りて体中に落書きをするのが恒例となっていた。顔には必ず卍マークを書いたのでマンジという芸になっていた。

 練習は大学の軽音楽部のボックスとトーマススタジオというスタジオで週2回ぐらいやっていた。練習後も今思えばみんな仲が良く、喫茶店に行ったり音楽ビデオ(当時はLaser Disk)が見れる店に行ったりしていた。そのまま朝までみんなで日本海までドライブしたことさえあった。

 最後のライブを磔磔でやって、この時にレコーディングを行った。今でもきれいな音で残っている。打ち上げの時は、もうこれで最後だと思うと悲しかった記憶がよみがえる。

 その後はそれぞれ卒業して就職したり音楽活動を続けたりそれぞれの道を歩んだが、いまでも年に何回か会う人も多い。

 昨年の夏からOをゲストにしたセッションが入谷の「なってるハウス」という企画されてOとNのご夫婦には年に1回ぐらいはこれからも会えそうだ。
 Cとはフルバン関連のイベントやリハーサルで年に何度か顔を合わせる。K村は京都の高校の同窓会が割と頻繁にあるため数年に一度は会う。Yさんはどこにいるだろう、北海道?K山はベルギーにいるためFBのみ。Kも大阪なのでFBのみ。Sさんとは残念ながらもう会えない。

 何だかこう書いていくとこのバンドは学生時代の青春そのものだったような気がする。

 昔の投稿(http://zacky-kohs.blogspot.jp/2006/11/blog-post_17.html)

木曜日, 7月 11, 2013

千葉市街串焼きや『福耳』での乱闘事件に関する情報

 彼が赤の他人を殴ったのは6年前のことらしい。

 場所は千葉市街の富士見町にある、福耳という店だ。彼が千葉の仕事を離れる時で送別会を何度もやってもらった訳なのだがその送別会の何回目かのことだ。

 その店は1階はカウンター、2階はテーブル、3階は座敷の飲み屋で僕は結構気に入っている。彼の送別会はその店の3階で行われていた。その店のトイレは2階にしかなくて彼は宴会の途中で2階のトイレに行った。

 以下は彼の弁なのでどこまで信じていいかはわからない。が恐らく事実だろう。

 彼がトイレに入ると外からバンバンバンバン叩く音がした。入ったばっかりだというのに。その上、若い男の声で「お~い、何やってんだよ、早く出ろよ。」、「いつまで入ってんだよ、お前は。」と極めて失礼な罵声が与えられたらしい。彼は2秒で判断し、小用がすんだらそのトイレの外にいる男を殴って殺そうと決めたらしい。

 恐らく30秒ぐらい後の話だと思うが、外の男の罵声は続いていたが、彼はトイレのドアをバーンと空けて目の前にいる男のボディにパンチを入れたらしい。その若い男は倒れてこう言ったらしい。「な、何するんですか、いきなり。やめてください。」

 彼は「何が、何するんですかだ。ちょっと来い。」と言って倒れた男の胸倉をつかんで2階のテーブル席の通路に引きずり出したらしい。

 「立てや、おまえ。」と彼は左手を自分の左目から15センチぐらい先に、右手を右頬につけて左足を前にファイティング・ポジションを取ったらしい。若い男は明らかに怯えていて通路に倒れていたということだ。2階のテーブル席は客で満席で全員言葉を失ったらしい。

 その瞬間に、その若い男と一緒に飲んでいた3人ぐらいの男が何やら言っているのが聞こえたらしい。「いや違うんですよ。あいつがドンドン叩いていたのは連れが入っているトイレで。」

 彼はその一言で自分の勘違いに気がついたらしいが、ファイティング・ポーズをくずさずにその若い男を睨みつけていたらしい。

 その時に福耳の店長、これがとてもできた人で彼とその倒れている若い男の間に入って土下座した。「お客様、私に免じて許してあげてください。この通りです。」と卒なく床に頭をこすり付けている。

 彼はようやく拳を下ろし「わかった。これまでにしておく。」といい、その若い男と一緒に飲んでいた男たちのテーブルに行ってこう言ったらしい。「俺は3階で飲んでいる。何か文句があれば3階に来てくれ。」

 3階の送別会の席に戻り、会社の同僚のIにこのように漏らしていた。
「I、おれ、下で人を殴っちまった。」
「そうですか、やっちゃいましたか。」
「でも右手の小指の付け根のところがかすかにすりむけているから、いい打ち方のパンチだったんだと思う」(訳注:えっ、そこ?)

 その後、何故か下の被害者のグループは来なかった。彼がもう一度トイレに行ったらそのテーブルには誰もおらずあの後に帰っていたらしい。


・・・・・・・・・・・

さて彼の勘違いだが、、、、

 その2階のトイレは2つ並んでいて、彼が入っていたトイレとは別のトイレにその若い男との友達が泥酔して入っていたらしく、若い男は別のトイレのその泥酔している奴に罵声をかけていた。それを自分に対してだと思って彼は暴挙に出たわけだ。

 前述のように彼はそれを途中で気づいたらしいのだが、上げた拳を下げることができなかった、とのことだ。

 警察沙汰にもならず被害者も復讐にも来ずにすごすごと引き上げた訳なのでハッピー・エンドと言わざるを得ないが、僕はいつか彼にそれなりの因果応報があるものだと思っている。

 

水曜日, 5月 29, 2013

車のトランク内監禁未遂事件を振り返る


 今日、会社の後輩であるLからメールがあり、山梨県で起きた下の事件が「私らが経験した状況と酷似しています」という。メールのccにTがあり私らというのはTとLのことのようだ。

「車のトランクに人が」→へリ出動で捜査、実は…

http://www.asahi.com/national/update/0528/TKY201305280479.html

という事件だ。

 そこでTとLが経験した「酷似した状況」に関して述べておきたい。

Tの状況
 この件はもう10年一昔程前のことだ。お客様担当のチーム5人で銀座あたり(恐らく)で珍しく飲んでいた。そのお客様は千葉県にありチームで飲むのはもっぱら千葉なのである。その後、新橋あたり(恐らく)にラーメン食べに行こう、という話になりタクシーを捕まえることになった。
 ところが1台しか近くに停まっていない。
僕「何とかなるだろう、行くぞ。」
チームの他の4人「???」
(とりあえずタクシーを拾い、ドアがあく)
僕「すみません、トランク開けてください。」
運転手「はい。」
(チームの4人一瞬顔を見回す、が、すかさずTが理解して)
T「はい、わかりました。僕ですね。」注:Tはこの中で一番年下だった
(とT、トランクに入る)
(他の4人座席に乗り込む)
僕「すみません、新橋まで〜」
運転手「は、はい。」
 新橋までの間、トランクより声がする。「うわあ!」、「く、暗いです。」など。
 車中組は「おお、もうすぐだ。」とか「いいから騒ぐな。」等と愛情あふれる声をかける。新橋のラーメン屋到着。
運転手「いや〜、長年やってますけど、こんなのは初めてですね。」
その後ラーメン食べて店を出る。

追記:
この日はTは2回トランクで移動していたことが判明した。上の状況の前に茅場町から銀座に移動している。茅場町からあえてトランクで移動した経緯はちょっと覚えていない。トランクから声をあげたのはこの1回目とのこと。2回目の銀座から新橋への移動の時は慣れてしまって熟睡していた。
Lの状況
 この件はTの状況からもう少し経った頃だと思う。Lがこの事件のことを聞いて、どうしても僕もトランクで移動したいという。そこで何かの際に千葉で会社の仲間の車で移動する時にちょうど人も乗りきれなかったのでLをトランクに乗せて数キロ程移動することにした。
車中組は「おお、もうすぐだ。」とか「いいから騒ぐな。」等と愛情あふれる声をかける。目的地到着。

追記:
Lが言うにはトランクに乗りたいと言った覚えはない、とのこと。だが確かに顔にそう書いてあったように思う。

TとLの会話
 その後TとLは次のような会話で盛り上がっていた。
 「真っ暗なんですよね。」「そうそう真っ暗。」
 「で、ブレーキ踏むと明るくなるんですよ。」
 「車の中の声は以外とよく聞こえるんだよね。」
 「急に曲がったりしますからあせりますよね。」等等等

 ここで冒頭の山梨県の人騒がせな事件とTとLの経験の違いについて述べておきたい。
1.我々のケースはトランクに乗る人があまりにも楽しそうにしていた。
 山梨の事件は恐らく「え〜、俺?」みたいな嫌そうな顔をしており目撃者に誤解を与えたと思われる。
2.我々のケースは実施団体の罪の意識が無くまったく悪びれる様子がなかった。
 山梨の事件は恐らく「まずいかな?」みたいなこそこそ感があり目撃者に誤解を与えたと思われる。

 さてこの件の首謀者は僕だということになっているが、僕がやったことは「トランク開けてください。」と運転手に声をかけただけと言い張ることができる。また2人の会話で分かるように貴重な共通経験を通じて社内の良好なコミュニケーションに寄与していることも明白だと思う。

追記:
2人の率直な感想は、こんな経験ができて良かった! ということが後日確認できた。

 最後にこの行為は道路交通法(設備外乗車)に触れるということだが、警察署がこのブログを読んだとしても前例に従い、実際に確認ができていないこともあり注意にとどめるべきであろう。まったく警察というのは人騒がせでけしからぬと思う。

土曜日, 9月 22, 2012

JALインフォテックの日々


 先日9月19日、日本航空が見事に再上場を果たした。公的資金3500億円を国民負担無く返却し史上まれに見る短期間で黒字化を成し遂げたことは喜ばしいことだ。極限状態にあった企業がこうも急激に変わることができたのは稲森和夫さんという卓越した外からの経営者による徹底した経営哲学の啓蒙があったのは勿論だが、甘えを捨てた社員の一丸となった努力と忍耐の継続あるいは犠牲によるものが大きいのだろう。

 昨年の6月まで4年3ヶ月という期間、JALインフォテック(JIT)というIBMとJALとの出資会社にいて出向役員を務めた。何もできなかった、という気持ちが残っている。もう離れて1年以上になりようやく振り返ることができるようになった。

 僕が参加したのはIBMが51%の出資をしていた10年のうちの7年目からの約4年間でありJALがこの会社の株を買い戻すことで幕を引いた。会社のDNAとしては明らかにJALのものを持っていたJITにIBMのプロセスと文化を融合させようとした10年間であったが、特に意識という面で最後まで成功に辿りつけなかった。

 出向した当初のことを思い出す。本当に自分で務まるのかという思いがよぎって通勤定期を買うかどうかを迷った。もちろん買ったのだが。しばらく空席になっていた企画ポジションで入ったのだが、現場ではどうも招かれざる客である雰囲気は間違いなかった。会議では僕の座る席の隣は必ず空いていた。
 JALから出向していた人はIBM出資時代が終わることを望んでいるのは明らかで露骨な発言もあり辛い思いをしたことも何度かあった。目に見えない対立と微妙なバランスの時代が続き(恐らくその前からずっとだったのだろう)、もちろん色々なことが前に進んでいるのだが会社としては少しずつ無理をしながら協調して経営をしていた。
 企画のポジションからもう少し大きな事業組織のラインのポジションに変わった。自分を理解してもらうことの不足により応援してくれる人も少ないため、そのポジションにいることが精一杯だった。やりにくかったのは僕にとっての本社であるIBMのやり方がこの会社の実情と乖離していたことだ。IBMの会社なので当然ながら同じ方針に従うと考えるIBMと現場中心には自分の子会社である意識を変えないJAL。この状況はJITの現場にも当然伝わり、バランスの取りにくさの一因となっていた。

 僕にとってこの会社がやっと一体感を持ち始めたと感じたのは皮肉なことにJALが会社更生法を適用した2010年の1月頃からだ。本当に甘えを捨てて何とかしなければ、と気持ちが全社に浸透し動き出したのは最終局面であるこの時期のような気がする。社長や役員の交代もあり雰囲気が変わったことも大きい。サバイバル・タスクという一連の改革活動を実施した。それは需要促進でありコスト削減でありお客様との一体化であり組織変革と人材育成であった。初めて現場と一体となってこれらを企画し実行し、成果は徐々に現れてきた。
 さらに一体感が強まり社内の議論や活動、お客様との連携が活性化したのはJALがこの会社の株を買い取ることが合意されJIT社員に通知された2011年1月だった。6月30日をもってIBMとの資本関係は解消ということになり方向性が明確になった。本当に会社というものがどう変化するのかというのは面白い。全社の事業部を超えた協業も盛んになされるようになった。
 6月のゴールを迎えるためにはたいへんなことが多かった。4月の四半期の初には6月30日までの営業日を数えた。後何日で終わるという意識は後何日しかないという意識にすぐ変わった。濃密な時が流れていた。

 僕にとってはこの最後の1年半が一番楽しかったという記憶が残っている。この最後の時期のプロパー社員のラインの皆さんやJALとIBMからのボードメンバーは僕にとって決して忘れることがないだろう。

 JALとIBMによる出資会社でアプリケーション保守というサービス領域で国内最大の規模の仕事ができたことは大きな経験となった。また会社役員としての経験は必ずこの先の仕事に活かすことができるだろうと思う。 

(写真は2011年6月にJITに最後に出社した日の朝にオフィスの近くで)

日曜日, 1月 15, 2012

音楽留学ショートプログラム *






















 久しぶりの投稿なので少し昔のことを書く。昨年の7月に数週間の休暇を取る機会があり、少し前から考えていたショート音楽留学をすることにした。

 留学なので滞在もホームステイで週2回だけのJAZZピアノのレッスンで昼間は個人レッスン用のスタジオが貸与されるというプログラムだ。

出向していた会社での仕事が終わってこのように休暇が取れることもないだろうというのと、Jazzメッセンジャーズの最初の女流ピアニストJoan Brackeenのレッスンが受けられるというのでその気になった。

 ホームステイ先はBrooklynの黒人女性の開業医の家で親切でサバサバした人でよかった。隣にスベイン人の学生がいる。その家から毎日朝早く出て夜遅く帰る1週間が続いた。

 一人での留学なので時間を持て余すだろうと思い午前中は語学レッスンのオプションを取ってMetropolitan College of New YorkにあるLSI(Language Study International)という語学スクールに通っていた。初日のテストでIntermediateクラスに入れられたが、英語をクラス形式で英語で習うのは、よく考えると初めてで新鮮だった。他の生徒はSpain,Italy,Brazil,France,Korea,Taiwan,Porlandなどから。

 午後のマンハッタンはとても暑くて外に出ていると焼け死にそう。それで涼しいスタジオでの個人練習はちょうど良い時間帯となった。

 夜は毎日どこかのライブハウスでJazzを聴いた。

Jimmy&Albert Smith at Village Vanguard
Mingas Orchestra at Jazz Standard
B3 Groove at SMOKE
Airto Moreira at Blue Note

等の最高のパフォーマンスが鮮やかな印象として残る。

 肝心のピアノレッスンであるが2回だけだがとても貴重な経験となった。
Joanne Brackeenはローアーマンハッタンの自宅で優しく教えてくれた。上品で親身に話してくれてとても尊敬できた。

 Invitation,On green dolphin street,Now's time,Wave, My one and only love それからJoanneのオリジナルを練習してきてくれと言われて合わせてもらった。覚えている言葉だけであるが次のようなアドバイスをもらった。

Jazz is language. To play with many players helps your music. Same as language. Listen to music lot and play many songs with different tempo and rhythm. That will help you. Listen to bass and drums. Playing together is important.(metronome helps a half). Don't be always loud. From silent to loud. Improvisation must be melody related, not play many tones. Your touch is too strong for light music. And feel relax.

Improvisation should be related with melody line. Don't fill tones. Your play is correct but a bit plane. Timing and codes are like this. I'll show you....

NYCも終盤になって、少し迷ったあげく、深夜のグリニッジビレッジのSMALLという店のジャムセッションに乱入。という暴挙に出てみた。sax2人とギターとリズムセクション。簡単なのしかできないと言ってStella by starlightを弾かせてもらった。何とか殺されずには済んだ。あ、一応ソロの後には拍手してもらったので。
 さて今回初めての体験をつまらないことも含めて並べてみる。

・格安航空券での旅行
面倒だったので実は初めて。少し前から決めて選べばだいぶ違うね。
・ESTA申請
この制度になってから空港では申請と情報がリンクしているようでかなり楽。
・Amadeusでの米国航空券購入
Bostonに1日だけ行った時に使用したがよくできているシステムと思う。
・Amadeusでのホテル予約
これも適切な情報が提供されている。
・ホームステイ
この年になってねえ!
・海外での語学学校(英語での英語クラス)
みんな真面目にやっていて僕も学生の気分に戻された。
・海外の英語でのジャズ・ピアニストのレッスン
最高の経験!
・海外でのスタジオ利用
Times Square近くのとても良いスタジオだった。
・デリでpaniniを食べる
これまずいんですけど。
・海外でのjam session参加
もう怖いものはない!
・ブロードウェイのオンライン予約
Blue Man結構面白かった。

 この1週間での経験やBrackeenに習ったことはこの後の何年かで湧き出てくるだろうと思う。そんな1週間になったと思う。少しずつ自分のピアノが良くなっていくだろうという確信も持てた。

土曜日, 8月 20, 2011

特技、転校! Ver.3


 最近、単身赴任先から引越しをしたのだけれど子供の頃は何回引越しをしたことだろう、と思い起こした。父の仕事の都合で引越しが多かったのだが、転校を僕ほど多く経験した子供はそんなにいないのではないか?

 僕が幼稚園から高校までの学校は以下のとおり。

東京都ひまわり幼稚園
東京都さくら幼稚園
前橋市元総社幼稚園
前橋市立元総社小学校
枚方市立牧野小学校
中野区立沼袋小学校
横浜市立日吉南小学校
川崎市立東菅小学校
名張市立桔梗が丘中学校
宇治市立宇治中学校
京都府立東宇治高校
千葉県立千葉高校

 長くて2年、最短は1学期。
 たいへんだったろう、と思う方ももいらっしゃるかもしれないがそうでもないのである。まず転校になれてしまっていたので友達と別れるのが悲しい、というのは随分大きくなってからで小学校を卒業して近くの中学に行くことになっていたのが転校になった時が初めてで、それまではそんな物心がついていなくて普通に思っていたのである。
 しいてたいへんだったのは関東と関西の言葉の違いだろう。小2の時に初めて関西に行ったのだが関西で標準語(東京弁と言われる)で話すことは許されない(逆は面白い、といわれてOK)。

 さて、転校だがやはり最初のつかみが大切なのである。子供ながらに自己紹介に工夫をする。成功するとその後の友達を増やすのがかなり楽になる。

 転校する立場から言わせてもらうと転校生を迎えるクラスの友達は次のように分類される。

1.主流グループ(人気もあって優等生)で「よろしくね!」と社交的な正統派
2.主流派なのだが当初は部外者にクールで排他的な態度を取る保守派
3.不良グループで転校生の不良度合いを試そうとするワル派
4.非主流派で自分よりも格下が来たと思ってでかい態度をとる小物派
5.非主流派なのでこの際仲間につけておこうとする懐柔派

 ここで1.と5.はまったく転校生にとって問題ないので、その他の3分類に対する接し方なのだが、、、

2.に関しては時間が解決する。基本的に1.と同じグループなので一緒にやっているうちにわかってくれるようになり友達となることができる。

3.が重要で不良グループから一目おかれるとかそこそこ仲良くできでいるというのが学校の中では極めて重要なのだ。そこで最初は少し無理をしてワルぶることになる。もめごとも起こすのだが結果的にはその方が話題のネタにもなってうまくいく。

4.に関してはできるだけ無視をするのだが、僕には少し意地悪な部分もあって当初2.と4.の出方を取った子は記憶しておいて自分が主流グループになった時に少しだけ仕返しをすることにしている。

 今、僕は会社に入ってずいぶん長いこと会社を替わっていないのだが、部門を異動になった時に上の構図は実はあまり変わらないのである。また僕の接し方も。

 という訳で特技は転校! これが何かに活かされている、のかもしれない。

金曜日, 10月 08, 2010

下の子供のこと


 最近、下の子供のことを「小僧〜」と呼んでいる。家で「よ〜、小僧〜」と声をかけると、
「よ〜」とか「おっす」とか答える。下の子供は高3の受験生だ。

 実はこんな感じに普通になったのは今年の春になってからだ。

 6年前から下の子供と僕の間は気持ちが遠く離れて、必要最低限の会話しかしなくなっていた。僕ははっきり言うと憎まれていた。

 6年前に下の子供が中学に入る前の正月に次のようなことがあった。妻の両親家族と皆で旅行に行ったのだが、旅行先の何かの拍子に皆のいる場で下の子供は僕を馬鹿にした言葉を言った。冗談で言った言葉だった。しかし僕のことを尊敬していれば言わないであろう言葉と僕には思えてひどく腹を立てた。
 旅行から帰って僕はそのことでひどく怒り、下の子供をひどく叱ってぶった。「父親に言うような言葉じゃないだろう!」と言って何度もぶったのだ。下の子供は怖くて泣いてあやまった。

 このことはずっと気になっていた。ずっと後悔していた。きっと僕のことを嫌いになったね。でもどうしようもなかった。過去のことは取り消すことができない。

 その後も普通に話をすることはあった。でもどことなく、ぎくしゃくして話しかけても会話はすぐに途切れた。
 2年前、高校に進学する時に(中高一貫なので受験とかは無かった)、進学のことでまとまった話をした時にはこのような意味のことを言っていた。「僕は父ちゃんのことは尊敬できなくなっていて、何か言われてもそのまま納得できないんだ」というようなことを。僕は悲しかったが、しょうがないと思いその時は何も咎めなかった。

 家族4人(妻と上の子供と)で旅行に行くことも、もちろんあったが、あまり楽しそうではなかった。僕はそういう年頃なのだろうと諦めていた。

 さて去年の夏のことだが、一人で京都に行った時に新幹線の中で僕はこの下の子供との関係を考えていた。いつからこんなにぎくしゃくした関係になっただろう。いつから笑顔をあまり見せないようになっただろう。と。
 僕は家族旅行の写真のことを思い出そうとしていた。まだ笑っている写真が残っているのはいつまでだったろう?と。

 それは考えれば考えるほど明確だった。6年間のその事件以来、下の子供は旅行も会話も敬遠し僕に笑顔を見せなくなっていた。それまでは2人で話したり、歩いたり、外でご飯を食べたりしたし、2人で旅行に行ったこともあったのだ。
 僕はそれを明確に意識した京都行きの新幹線の中で泣いた。改めて後悔をした。

 それから、いつか話そう、と思ったのだ。下の子供に、6年前のことを話して謝ろう。そうしないと解決しない。下の子供もそのうち家を離れるだろう。そうすれば、わかり合える日は来ないかもしれない。来ても何十年も後だ。
 話して謝っても、わかりあえないかもしれない。でも話さないよりはずっとましだ。

 その機会を作ったのは今年の春になってからだった。半年程どうやって話そうかと考えていた。
 「ちょっと話したいことがあるから、たまには外でご飯でも食べない?」
ともちかけて、嫌そうな下の子供にある休日の夜に予定を入れさせた。
 2人で近くの蕎麦屋に行って座敷の落ち着いたところで話をすることにした。家族でよく行くお店だった。
 「久しぶりだな、二人で飯を食うなんて」と言うと
 「初めてじゃね?」と言う。
 「いや、××以来だ」と二人だけで言った旅行のことに触れた。もちろん6年前よりも、もっとずっと前のことだ。
 それから僕は下の子供に話した。

 ・6年前に感情的に怒ったことをとても後悔している
 ・最近になってそのことに改めて気がついて涙が出たことがある
 ・今日はそのことで謝ろうと思っている、悪かったと思う
 ・お前さんのことは本当にかわいい子供だと思っている

 下の子供はこう言った。
「あの時は正直、父ちゃんのことを殺そうと思った。」
「気をつかうのがバカバカしく思えた時期があってそれ以来あまり積極的に口をきかなかった」
「父ちゃんに対してはトラウマがあってもううまくやっていけるような気がしない」
「母ちゃんや兄貴の目線で思うと父ちゃんは悪者に見える」

 いいことはすべて忘れてしまったようで悲しかったが、今日は謝る場なのでだまった聞いていたし、そう思われてもしかたがないと思った。あまり子供の面倒をみなかったのも確かだ。他の話もしたし、随分長いこと話をしていた。
「別に嫌いというわけじゃないんだけど」
とも言っていた。蕎麦屋を出た。

 話をして良かったと思った。その後少しは会話が自然になったような気がした。

 ところで最近この子は半月板と靭帯を痛めて両杖をついている。何週間かはこの状態らしい。それで毎朝、早い時間に車に乗せて学校に送っていくことにした。家から新子安の学校まで20分ぐらいかかる。勉強や受験の話を少しだけする。
 
 こういう形で受験を支えてあげようと思う。来年受かれば上の子と同じように下宿させようと思っている。外で酒を飲む機会も作りたいし、何年もすればいつかわかりあえるだろうと思っている。

(写真は1回だけ行ったこの子のハンドボールの試合。1番のポイントゲッターでチームの勝利に貢献していた)

金曜日, 7月 09, 2010

日本航空剣道場最後の日





 少し前に日本航空バスケットボール部の練習場が経費削減のために移転となった、というニュースが日経新聞に載った。その練習場は東京モノレールの整備場駅にある機装ビルの4Fの体育館にある。
 その横にあるのが日本航空剣道場なのだが、この道場も今日を最後の稽古日として廃止となった。剣道部は同じ整備場駅にある全日空剣道場を間借りして稽古をすることになった。

 1年以上も剣道の稽古をさぼっていたが今日は久しぶりに道場を訪れた。お客様でもあり仕事仲間のAさん、Tさん、同じ会社のN君、女性剣士Kさん、いつも世話になっている整備士のSさん等と久しぶりに道場で会った。稽古の後に3Fの食堂でビールと日本酒で宴会をやった。空港警察署の先生も来ていた。剣道をやっている人というのは飲んでいても誠に気持ちがよい。

 剣道を再開して日本航空剣道部の門を叩いたのは約3年前。稽古をしてビル共同の風呂に入りビールを飲んで帰る。月に一度か二度であるが剣道場はそれなりに懐かしい場所になっていた。合宿も毎年長野の安曇野であり稽古自体はしんどいのだが楽しい想い出となった。

 今日久しぶりに剣道をやって、またもう少しやってみる気になった。来年は四段を受けてみよう。最近のさぼり具合からいって一度では無理だと思うが、何度かチャレンジしてみよう。今日はそういう気になった。

 今日は日本航空剣道場に感謝をしたい。

土曜日, 4月 24, 2010

久々のバイショウ


 関西ではバイショウと言ったのだが、東京ではゴトシというらしい。先週金曜日に久々にバイショウをやった。場所はヒルトンホテルで某団体でのディナー・パーティでのバイショウであった。メンバーはいつもバンド活動をやっているRose(vo)とこの関連で最近付き合いのあるOさん(b)。

 バイショウは商売、ゴトシは仕事のことでミュージシャン用語なのだが音楽演奏をやってお金をもらうことを言う。バンドのライブ活動等と違うのは報酬のためだけに演奏する、という点である。ライブ活動は自分や自分のバンドのやりたい演奏、表現したい音楽をやってお客様に聴いてもらってチャージをいただく(もちろんいただかない場合もある)のだが、バイショウはその場のニーズに合わせて演奏をして報酬をもらう。
 この日の年齢層は60歳代でジャズ・スタンダード中心に10曲程度をトリオで演奏した。RoseのMCもいつも通りGoodでウケはまあまあ良かったように思う。

 大学時代にバイショウは大きな小遣いの源泉だった。大学生活の最後の1−2年はちょくちょくバイショウの話が入るようになっていた。普通の肉体労働系のバイトに比べると時間効率は格段に良かった。25年前は生演奏をやるイベントやお店はもっと多かったのだろう。
 誰か仲間や音楽の先輩が話を持って来たり、どこかの事務局から電話がかかってきたりする。演奏するのは今回のようなホテルでのイベントやダンパ(ダンスパーティ・・・死語)、ピアノラウンジや生演奏付きのバー、キャバレー、スキー場のペンション等である。僕ら学生が音楽事務局から連絡されるのは主にトラ(代役)としてで、事務局の方もプロの人の穴があいて困ることも多いらしく学生の連絡先リストを持っていたようである。

 当時のバイショウを思い出すと、、、

 大阪の繁華街でのキャバレー。店の名前は忘れた。だいたいは京都での学生バンド活動が多かったが大阪でやっていたバンドが一つだけあって1−2回このバイショウに呼ばれた覚えが。。。当時の典型的なキャバレーでステージがあり客のBOX席があっておねえちゃんがいる、という感じの店。ポップスやジャズを譜面を渡されて演奏する。(バイショウの譜面は基本、当日お店に行ってから渡される)
 同じく京都三条にあるベラミという当時の京都では名の知れたキャバレー(山口組田岡組長狙撃事件のあったところ)。ここは仕事がきつい。30分のステージが5回あって報酬がたったのG(ゲー)千(5,000円)。客層もそれなりなので演奏も緊張してやっていた。メイン演奏がクールファイブだったことも。。。
 大阪の某企業のダンパ。当時やっていたソウル系バンドにて。ダンパが一番報酬が良かったし楽しかった。1時間ぐらいの演奏でバンドでC(ツェー)十万(10万円)ぐらい。もっとも十人近くのバンドだったから人数割りだが。
 嵐山の方に赤まんまという店があった。ピアノラウンジ風のお店。ピアノだけでやったり歌の人が入ったり。
 梅田のラウンジの話があって行った時はボーカルのおねえさんが演奏中にしか譜面を配ってくれないのでスリル満点。次の曲の紹介をしながら横から譜面を渡してくる。ピアノはウタバン(歌の伴奏)では前奏を出さなければいけないのでこういうのは非常に厳しいのだ。
 クリスマス・シーズンはホテルでのイベントが多くちょくちょくバイショウ話があった。ベースのHさん(大学先輩)とRoseで京都のホテルでやったことがあった。Hさんがホテルに工事かなんかの作業の人と間違われて大笑い。
 スキー場のペンションでの演奏。若い女の子がたくさんいながら仕事に徹する学生バンドマン。当時も今も真面目?
 
 という感じで1回5千円から1万円ぐらいなのだが、拘束時間は短かいし(通常は3時間ぐらい)何しろ貧乏学生だったもので報酬としてはありがたかった。好きな音楽の演奏でお金になる訳だし勉強にもなるのでできるだけ断らずにやるようにしていた。
 
 バイショウ、特にキャバレー系のやつは基本的にやるべき音楽の種類が決まっており、中にはマンボとか演歌曲も含まれる。当然ながら自分の好きな音楽をやれる訳では無いのでミュージシャンもバイショウの時は結構つらい場合も多いはずだ。なかなか音楽で食べて行くのは難しくて当時も名のあるミュージシャンでも結構バイショウをしていた。

 という訳で会社に入ってから純粋なバイショウらしいバイショウをしたのは今回が初めてだと思う。10年程前に新宿のスナックで月一で演奏していたことがあったが、これは基本的にバンドでやりたい歌をやらせてもらっていたので。また最近(3年前)では千葉の職場近くのバーでこれも月一でやっていてお金もいただいていたが、こちらも好きにやらせていただいていた。

 今回のイベントや客層の品格が高かったのでこちらも気持ちよく演奏ができた。最近は生バンドもハヤラないので、こういう仕事もだいぶ減ったようだ(この日にやったベースのOさん談)。でも機会があれば、たまにはこういうバイショウもいいな、と昔を思い出しながら書いてみた。

 (写真は直接関係ないのだがマイルス・デイビスの書いた絵) 

土曜日, 11月 15, 2008

21才学生 女子大で下半身露出事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。

大学生活最後の秋の頃であった。学園祭の季節でこの時期は音楽に明け暮れていた訳なのだが、その日の午後は何故か今出川通りにある某D女子大の学園祭に遊びに来ていた。一人で来ていたという訳では無かったと思うがその事件のあった時一人でキャンパスを散策していたように思う。

ある校舎の中で出店を見ていたその時、急激に便意(大)を催しトイレを探した(この間からこのネタが多くて恐縮だが)。
さてそのトイレであるが女子大の校舎なので基本的に女子トイレが圧倒的に多い。もちろん教諭もいるので無いはずは無いのだが。それで学園祭の時期はどうしているかというと女子トイレを男子も共有として開放してあったのだ。女子トイレの入り口に「学園祭期間なので男子も使用可能です」との貼り紙。

僕はその階にあった女子トイレに入った。もちろん合法である。そのトイレがどういう構造だったかを思い出してみる。まず集合型ではなく個室型でドアを入った手前側が洗面所でゆったりした広さで奥の方に洋式の便器がある。女子大のトイレなので壁紙なんかもカラフルだし床には簡単なマットがひいてあったように思う。まあ僕が行っていた共学の大学には無いような造りであった。

僕はこういう場合の常として急いでいたので

まずドアを開け、

鍵をして、

それからズボンを下ろし、

奥の便器に座った。

そして用事を済ませたその時のことである。ドアを開けようとする音がするのだ。外からも使用中のサインになっていると思うのだがドアのノブをガチャガチャと開けようと回している。

まあ、いいか。鍵もかけている訳だし。僕は「使ってますよ!」というのも何となく気恥ずかしく(つまり外の人が女性である確率が高いし)そのまま便座に座っていた。

信じがたいことにドアが開いた! 女子学生が入ってきた。

目があった。。。。。

僕「。。。」
女子学生「。。。」

誤算であった。あろうことか、鍵はどうも半掛りになっていてノブを回しているうちに開いてしまったのだ。

僕「あの、すみません。鍵掛かっていなかったようですね。」(座ったまま)
女子学生「し、失礼しました!!!」

バタン(ドアを閉める音)!

駆け足の音 

僕はバツも悪いし、恥かしいし、その女子学生に万一会うのも困るので命からがらそのD女子大学園祭から逃げ出して来たという訳だ。

その女子大生に下半身を露出してトイレを占拠している男子学生と見做されて学園祭実行委員や大学当局に通告されなかったのは、用をすませて座ったまま言い訳をしている僕の物腰が極めて爽やかだったからであることは間違いない。

いや、やはり顔に「かなりのうっかりもの」と書いてあったと考えるのが正しいのか???

日曜日, 11月 09, 2008

27才住民 万引き未遂事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。


ある夏の夕方だった。その日は急に料理をしようと思い立ちその日の晩御飯を作ることにした。そこで駅の近くにあるスーパーマーケットに向かった。料理といっても何にも出来る訳ではないのだがスパゲティを作ることにしてスーパーで材料を探した。


僕は一つのことにかなり没頭する性質なのだが、買い物中は何をどうやって作ろうかと頭がいっぱいだったようなのだ。僕は買った材料を抱えて家に向かった。


僕はまず、 スーパーを出て


道を渡って歩道を歩く。


そして公園の前を通過。


さらに道沿いのマンションの入り口まで何人かの近くの住民とすれ違う。


次にマンションの入り口の鍵をあけ、自動ドアを通過。


エレベータに乗る。


降りて自分の部屋まで廊下を歩く。


自分の部屋の前に着き鍵を取り出そうと右のポケットに手を入れる。


無いので、さて左のポケットかと左手で持っていた、さっきスーパーで買ったものを右手に持ち替える。


すると、僕が右の手に持っているものは、、、


「うわー!!!!」



僕は思わず叫びそうになった。僕が右手にしているものは何とスーパーのカゴでそこには食材がそのまま入っていたのである。僕はまだスーパーの中にいるのか!? 帰り道に見た風景はすべて幻想だったのか?


いやそうではない。 あろうことか、僕はスーパーからそのままカゴを持って出てきてしまい、スーパーを出ても気付かず、道を歩いても気付かず、人とすれ違っても気付かず、マンションに入っても気付かず、エレベータに乗っても気付かず、自分の部屋の前でカゴを左手から右手に持ち替えるまで気付かなかったのだ。


幸いなことにカゴの中にはレシートが入っていたので支払いは済ませたようだ。没頭していたのでその位記憶が曖昧なのだ。カゴは記念にしばらく家の台所に置いておいたがしばらくしてそのスーパーに返しに行った。


帰り道にすれ違った近隣の人に万引きと誤解されて通報されたり、頭のおかしな人と(これは誤解ではないのだが)通報されなくて本当に良かった。それは僕の日頃の品行が良かったという理由であることは間違いない。 もっとも、まったく悪気の無い顔をして歩いていたはずなので見た人もかなりのうっかりものと思ったのかも知れないのだが。。。

水曜日, 10月 29, 2008

28才会社員 女子トイレ不法占拠事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。


会社に入って何年目かの頃であった。当時は北関東のあるお客様の仕事をしていて上越新幹線で移動することが多かった。上越・東北新幹線が東京駅までつながっておらずに東北の玄関、上野駅から出ていた頃だ。


その日は仕事が終わり帰途につくところで新幹線から上野駅のプラットフォームに下りて在来線に乗り換えようと階段をおりようとしたところ。。。


突然激しい便意を催したのだ。これはまずい。階段を下りてトイレを探す。キョロキョロ。


あった! 遠くの方にトイレの標識が見える。小走りで向かう。そしてトイレに。大の方のブースに入る。助かった! これで便意の方は解決した訳なのだが?



先程からトイレに人が入ってくる足音が聞こえるのだが、どうも様子がおかしい。入ってくる人は皆、大の方に。しかも入ってすぐに水を流す。洗面所で手を洗っている時間が妙に長い。


そのうち連れで入ってきた二人が会話を始めた。

「○△○△」
「○△○△」


僕(ブースにて)「。。。。。。。。。。。。」


何と女性の友達どうしが男子トイレの中で話しているではないか!


いやそうではない。 あろうことか、僕は急いだあまり女子トイレに入り、入っても気付かず、大のブースに入って用事を足し、他の女性が入ってきてもさらに気付かず、この会話を聞くまで気付かなかったのだ。


これは困ったことになった。駆け込んだ時にはたまたま洗面所に誰もいなかったということか。しかし男性用トイレ(小)が無いことにもまったく気付かないとは。。。。


これは待つしかない。誰もいなくなるのを待つしかない。入った時も誰もいなかったのだ。すぐにチャンスは訪れるはずだ。


待った。随分待った。長いこと待った。どうも入った時のタイミングはかなりレアだったらしい。乗降客の多い上野の女子トイレは人が絶えることはなかった。


このままだと終電が終わるまで待つしかない。待ったとしても、それで出て駅員に見つかったら? そうすると、これは女子トイレに数時間居座り続けた変態ということになるではないか!


僕はとうとう諦めた。出ることにしたのだ。


「あー、すみません。間違えたんです。いや、ホントなんです。すみません・・・・・・」何だかんだ謝りながら走って出た。トイレから駅の通路に出た瞬間、女子トイレから爆笑が聞こえた。


その後は幸いなことに特に事件にもならずにすんだ。本当に間違えたということを疑われずに女子トイレ侵入そた変態として訴えられなかったのは僕の謝り方が誠意に満ちていたものであったという理由であることは間違いない。 いや、顔に「うっかりもの」とでも書いてあったのか???

(タイトルの年齢は正確ではないが上越新幹線の東京駅開通1991年より推測)

月曜日, 5月 12, 2008

三段合格!


 まったくの稽古不足が続いたために内心これは無理かと思っていたのだが、、、審査に合格した。剣道三段。昨日のことである。

 朝から大田区の審査会場である大森高等学校に向かう(写真は審査後の会場)。段審査というのは実技、剣道形、筆記の3つがあり、東京都の場合は筆記は事前に書いて提出する論文形式だ。まずは受付とともにこの筆記問題を出す。

 次が実技である。この日は初段、二段、三段の審査なので順番に待つ。自分の番は昼過ぎになった。この実技の順番は年齢の若い順なのだが僕は三段の中での一番後35番だったので最年長ということになる。周りはほとんどパワフルな高校生。
 さて実技の順番が来た。気合と沈着さを忘れないようにと自分に言い聞かせて競技場に向かう。実技は二人と対戦して基礎力を見られる。真っ直ぐに相手に向かい体からぶつかる面を打つ。決して下がらずに攻める。剣先を胸元につけてそのまま攻める。また打ってきた出鼻を小手を打ちそのまま前に出る。手応え十分で実技を終わった。

 実技の合格者が次の剣道形の審査となるが発表を待つ時間に形の練習を無心でやっていた。発表の掲示を見ると合格! ほっとした。思いの他きびしく合格者は21人。欠席者はほとんどいなかったので3割以上は落とすという例年にない厳しさであったようだ。

 ここで次の審査試験である剣道形について簡単に触れておく。太刀を使った形が七本あり三段はこの七本の形を審査する。形は打太刀(先に攻める方)と仕太刀(攻めをかわして反撃する方)の二人で行う。動作がすべて決まっており、これをまず完璧に憶えることとそれぞれの所作の意味を理解して太刀振る舞いを行うことが必要だ。剣道形の心がわからないと動作の意味がわからないために、機械的に憶えるだけでは失敗する。

 この日の形は打太刀だった(直前で指示される)。打太刀は師の太刀と言われ形の演武にわたって相手をリードしなければならない。ミスもなく形を終了。たぶん大丈夫であろう。

 筆記は事前準備のために落とされることはまずない。合格した。ほっとした。二段になってからほぼ六年経った。二段になった直後にやめてしまい再開したのが昨年の六月だった(「剣道再再開」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/06/blog-post_15.html)。また昨年の12月に審査を断念したことも以前述べた(「段審査を断念」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/12/blog-post.html)。

 段審査断念から3ヶ月経ってようやく稽古に復帰した。肋骨は何とか練習に耐えられる程度には痛みが薄らいできた。久しぶりの稽古はどうなることかと思ったが、胴紐の結び方を少し混乱して忘れたぐらいで普通にできた。最初の15分がきつかったが、すぐに取り戻すことができた。
 実は翌日はある試合に出なければいけない。もう少し前に稽古再会の予定だったがぎりぎりの再会となってしまった。
 さてその試合は実業団高壮年大会というのだが、、、

 負けた。相手は3段なのだが勝てない相手ではなかった。悔しかった。延長戦までもつれ込んだが最後に相面(同時に面を打ち合うこと)で先に取られた。飛び込んで打ってきた相手と起こりを待って合わせにいった僕との差が相手に先に打たせてしまった。

 その後も忙しくてまったく稽古ができない状態が続いた。今回は気力で合格したのだと思うが本当に嬉しかった。直前になって形の稽古をや筆記のアドバイスをしてくれた羽田の道場の諸先輩に心より感謝します。

 以下は筆記試験で提出した回答。

(1)応じ技について述べよ。

相手の動きに応じて打つ「後の先」が応じ技であるが、決して受身ではなく相手の技を攻め相手の技を引き出すことにより先を取る。以下技を述べる。
(イ)すり上げ技
相手の竹刀を下から表または裏ですり上げて中心から外して遠山の目付で打突する。
(ロ)返し技
相手の竹刀を自分の竹刀で受けた瞬間に手首のスナップを効かせて竹刀で応じた反対側を打突する。
(ハ)抜き技
相手を攻めた上で相手に打たせ足さばきなどで相手の打突を抜いて反撃に転じる。
(ニ)打ち落とし技
打突してきた相手の竹刀を上からたたいて落とし隙を狙って反撃に転ずる。

(2)残心とは何か

残心とは打突を行った後も油断をせず緊張を保って相手の反撃に応じる心構え気構えを持つことである。
打突後間合いをとってただちに中段等の構えを取る。また相手の反撃に備える適正な間合いがとれない場合は剣先を相手の中心(咽喉部等)に向けて反撃に備える場合もある。
ただちに油断なく身構えないと次の動作に変化ができないため試合においては残心のない打突は、たとえ正確に打突していても有効打突としての一本にならない。また真剣による勝負の場合には相手が決死の気持ちで最後の反撃に出る可能性があるために必要な動作である。
剣道形においては上段または脇構え等による残心が明示的に示されている場合でなくてもすべての形において十分な気位を持って残心を示すことが必要である。

(3)剣道の先生より受けた良い点について記せ(これは出題として難問!)

剣道を始めた子供の頃に剣道は礼に始まって礼に終わるということを教わった。先生や先輩はもちろんのこと仲間に対してもけじめをつけて礼をする習慣がついたように思う。剣を合わせて向かい合う相手に対して尊敬の念を持ち勝負を終えた後も勝ち負けに限らず敬意を形に表す。剣道は対人的格闘技であるので、ややもすると闘争的本能を発揮しやすくなる。この本能を礼儀によって人間的に統制するところに礼の意義がある。
礼法の重要さを改めて認識したのは大人になってからである。礼法は社会における様々な競争や葛藤において人間性を持って人に接する方法を示唆している。
また礼法だけではなく、気剣体一致の言葉に表されるように構え、蹲踞や間合い、または打突において精神性や気力の充実が必要とされる。体を鍛えながら心を磨くことができる点が剣道の良さと思う。

土曜日, 9月 08, 2007

新入営業社員殺害未遂事件の真相


 先々週の富士山登山の直後に始めてハンドマッサージをしてもらいその時はとても気持ちが良かったのだが、何故か右親指の腱鞘炎が再発してしまった。もうすぐライブもあるし仕事でPCのキーボードを叩くのにも支障があるので心配である。まあそれは何とかなるとして。さて、この腱鞘炎の原因なのだがピアノの練習のし過ぎ、、、とかいうとかっこいいのだがそうではないのだ。

 この件は僕が会社関係の飲み会で起こした事件の中で最もやばいものの一つで実はあまり書きたくなかったのだが、この際書かざるを得まい。この腱鞘炎はM平という当時の営業新入社員のたたりと思われるからだ。それは2003年夏のこと。

 この件は「僕が酒に酔ってある新入社員であったM平がその時に言ったことに激怒しビール瓶で頭をかち割って殺そうとしたところ、酔っていた為にビール瓶が途中ですっぽ抜けて宙を飛んだために殺人にはいたらずM平は一命をとりとめた、これが原因でM平が退社した」、という極めて恐ろしい話が通説になっている。この事件の現場に居合わせた会社の後輩のKには、「あれを見てkohsさんにまともなこと言っても通じないということがよくわかりましたよ」等と言われる。まあ面白い話なのだが(面白くないか)、さすがにその話が出るたびに「いやいや、そんなことはないんだよ。本当に殺そうと思った訳じゃないんだよ。(当然なのだが)」と返したりしている。だが真相は本当にそんな積もりはまったくなく通説のようなことはなかったということを皆さんに(大概の方は関係ないが)知ってもらうために書いておきたい。

 その頃はSEマネージャになっており千葉の仕事が中心であった(センターとまことやの日々http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/03/blog-post_16.html参照)。何かにつけよく飲んでいたことは前のトピックスで書いたが(参照)、その日は何かまとまった宴会で一緒に仕事をしているSEやカウンターパートの営業含めて20人以上で飲んでいた。何かの打ち上げか暑気払いかそのような宴会だったと思う。店は千葉市富士見町というところにある五味鳥という店の2会で、この店の2階は一部屋しかない障子のある部屋で貸切状態であった。貸切で我々が飲み会をすると何かと事件が起こる可能性が高く過去にもこの店では一波乱があったようだ。

 M平について触れておこう。その年の営業の新入社員なので若い社員でもあり、あまり悪く書きたくないのだが自惚れやで礼儀に欠け接する人の第一印象はあまり好きになれないという印象を与える新人であった。一応断っておくがこういう人に対しても僕は長い目でみる方であり、良いか悪いかわからないがすぐに口うるさく注意することなく少しずつ変えていこうとするタイプの積もりなのである。M平の言動は何かと話題になり営業部でも要教育新人として先輩・上司から指導を受けていた。さてそのM平と居酒屋「五味鳥」で起こした事件が「新入営業社員殺害未遂事件」なのだが、どういうことかというと...



 ・・・・・・・・・


 実はあまり憶えていないのである。理由はかなり酔っていたからだ(あまり珍しいことではないが)。その日も一気あり(いまだに我々はこの文化、ちなみに流行語大賞「いっき」は入社した1985年)、スピーチありで散々飲んでいた。店は座敷であり、大勢で飲んでいる喧騒の中でM平は何人か離れた席にいた。その時どういう話をしていてこの事件になったかはさすがに気になったのでその時その場にいた人に聞いてみたのだが皆泥酔しているためあまり覚えていない。ただ、何となくはこんな話らしい。

 M平と他の何人かと何か仕事の青臭い話で議論をしていた。ところで僕は酒の席で真面目に仕事の議論をするのが実はあまり好きではない。感情・感覚の話は酒の席でも意味があるのだが、理論的な話は何の進展もないからである。そこで「そういう考え方もあるね」とか「まあ細かいことはいいんじゃないか」などと流すことにしている(仕事の時はもちろんちょっと違うが)。その時は何かM平が青臭い議論をふっかけていて先輩にそれは違うんじゃないの、的な話をしていたらしい。僕はあまり愉快ではなかったのだがM平を責める訳でもなく「まあそういう考え方もあるかもしれないけど」などと流していたらしい(何度も言うが憶えておらずその時近くにいたKの後日談。Kも細かくは憶えていないのだが)。

 憶えているのは次のシーンからである。

 M平が「kohsさん、YesかNoかはっきりしてください」と言う。
 僕はその一言でキレてしまう。 「M平、ちょっとこっち来い!」
 M平はやむなく移動して僕の横へ。
 僕は座ったまま右手でM平の胸ぐらを掴んで畳の上に押し倒す。座敷のテーブルの角がM平の頭の斜め上にある。
 そのまま右手で近くにあったビール瓶の口の部分を持って振り上げる。

 (ここが大事なのだが当然ビール瓶でM平を殴ろうと思った訳ではなくテーブルの角のところまで振り下ろして寸止めをしようというパフォーマンスだったのだ。いやいずれ普通の社会人の常軌は逸しているのだが。)

 ところが酔っているためにビール瓶は空中で手を離れる。
 ビール瓶はそのまま1列テーブルの先を越して座敷の窓にある障子まで飛んでいく。
 多少ビールが残っていたらしく障子にビールの跡を残し瓶はテーブルの向こうに落下。
 僕の手はM平の顔の真上で止まる。
 その後、何秒かM平はおびえた顔をして僕とテーブルの間で横たわっている。
 僕は「まあ、いいよ」(何がまあいいんだか)と言ってM平は席に戻る。

 これが新入営業社員殺害未遂事件の真相なのである。つまり当然殴る積もりはなく、ビール瓶が途中ですっぽ抜けなくてもM平が殺されることは無かったのである。

 その後、M平は先輩に諭されて「お前は今日は帰った方がいい」ということになり、「失礼します」と言って帰っていった。その後はその話題にはあまり触れることなく、その「五味鳥」での宴会を終わり2次会、3次会といつものヘビーな飲み会が続く。

 さて翌日だが、朝起きてこの事件を思い出し、M平もさぞ怖い思いをしただろう、と彼のオフィスに顔を出す。
 「おお、昨日は悪かったなあ。殺す気はなかったから悪う思わないでくれ。」などと会話していると、営業部ではちょっとした話題になっていて近くにいた営業部長が心配そうに近づいてきて「激しい飲み会だったらしいね。大丈夫なのか。」などと声をかける。

 それから何ヶ月かしてM平が会社を辞めるという話を聞いた。理由は彼は大学院出で父親も教授か何かなのだが、やはり学問の道に進みたいので卒業した大阪の大学に戻るというものだった。これが「会社の先輩(僕)に飲み会で殺されかけたので退社」という話になったものである。

 いや、元々企業で社会生活を営むには少し厳しかったのを本人も気付いたのだろう。「殺害未遂事件」が何らかの要因になったとは思っていないのだが、もしそうだとしても本人にとっては良かったに違いない。

 冒頭の腱鞘炎に関してだがビール瓶をにぎってテーブルの角に持っていく間に筋を違えたらしく、しばらく痛かった。この何週間はキーボードも叩けず、ピアノも弾けず。

 さて、これが「新入営業社員殺害未遂事件」の真相なのであるが読んでいただいた皆様はどのように感じられただろうか?

未遂事件の顛末に関して
 A.事の顛末は納得性があり自分でもそうするだろう。
 B.殺すつもりはなかったとしてもあり得ない行動でありM平が殺傷された可能性はあったのではないか?
 C.絶対に殺すつもりだったのを美化して書いているに違いない。

M平退社に関して
 A.M平が会社を辞めたのは彼自身の問題として当然の帰結である。
 B.M平退社とこの事件は何らかの因果関係があると思われる。
 C.M平は明らかにこんな恐ろしい会社にはいられないと思い退社している。

金曜日, 8月 03, 2007

「いやらしりとり」とネ倉○さんの話



 大学時代の数年間をある寮で過ごした(ネオンと黒壁の寮部屋での出来事http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/07/blog-post_15.html参照)。その寮でやっていた実にくだらなくも面白い遊びが「いやらしりとり」である。

「いやらしりとり」はある時期に主にバンド仲間により寮の僕の部屋で夜な夜な行われていた。この遊びはあまりにくだらないのと、しりとりの実例のほぼすべてが放送禁止用語のために公共のblogに晒すことがはばかられるために、雰囲気しか説明できない。

 ルールの原則は普通のしりとりで「ん」がついたらダメ。言葉は単語でもよいのが、文章でも良い。ただし、思いっきりやらしい、か、そこそこやらしいけれどかなり笑えるか、でなければならない。その発言が妥当かどうかはその場にいる過半数の賛同を得られなければならない。5人から10人ぐらいでやるのが適していると思われる。

 最初は単語から始まるが、だんだんと難易度を増し、次第にかなり凝った文章となる。普通のしりとりと同じで「る」で終わった時のバリエーションなんかはかなりの工夫が必要となる。その人の普段考えている煩悩・妄想または性癖が察せられて趣の深いものとなってくる。特に普段おとなしい、あまり女性付き合いもなかろう、と思われる堅物のベースのE等がとんでもないことを言うと「お前それ、めっちゃくちゃ、やらしいわ~!」などと盛り上がる。

 そんなある日、バンド関連でピアノをやっていた他の大学の研究室かなんかにいた先輩が不幸なことに僕の家に遊びに来てこの「いやらしりとり」をやることになった。この人はビル・エバンス風の繊細な演奏をする人で超純粋培養されたお勉強一筋の人らしくて、このようなたわけた遊びに加わるのは可哀想なのであるが、そこは401号室の規則にのっとり容赦は無い。

 この人は倉○さんと言う方だったが、極めておとなしい先輩だったために失礼な話なのだが「ネ倉○さん」と呼ばれていた。

 しばらくして酒がまわってくると、

「ネ倉○さん、これからいやらしりとりという遊びをやりますから。順番一番最後でええですから、一周したらだいたい要領わかると思いますし、入ってください。」

とおもむろに「いやらしりとり」が始まる。

 ×××、○○○○○、△△△、□□□で○○○をする、×××を日に何回どうたらこうたら、、、、などと続く。最後が「く」で終わり、ネ倉○さんの番となる。

「く、だね、じゃあ行くよ、、、、、じゃあ、、、黒いカラス。。。。」

一同、「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」

「いや、違うんですよ。いやらしいことを少しでも言うてもらわんとあかんのですよ。」、「1回パスしますから、次の番の時はよろしく頼みますわ。僕らの言うのを聞いて参考にしてください。」と2周目を続ける。

 そしてネ倉○さんの次の番が回ってきた。前の人が何で終わったかは覚えていないのだが「じ」で終わったために、ネ倉○さんは、

「じ、だね。じゃあ行くよ、、、、、『女子高生の初体験』。。。。。」

「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」一同しばらく間を置いてから、、、

「んで終わってますよ。んはあかんのですよ。」

「これは可哀想ですけど罰則をやっていただかんといかんですねえ。」

ということになり、罰則をしていただくことになったのだが、その罰則が何かということはこれはそれこそblogに書くのは憚られるのである。我々はその場でやるのであるが、さすがにネ倉○さんにその場でやらせるのは忍びがたきものもあり(僕らはその場でやるのだが)、じゃあトイレでもええですよ、という話になり、ネ倉○さんは寮のトイレに向かったのであった。その後、彼は部屋に戻らず、それどころか我々の中で彼の姿をこれ以降見たものは誰もいないのであった。

 この罰則が何かは、絶対にこういう場所では書けないのでご想像いただきたい。さわやかさと破廉恥さを伴った罰則であった。この罰則と今一緒にバンドをやっているボーカルのE嬢の関連が深いのだがこれも彼女の人格に誤解を与えるものであるため残念ながらここでは明らかにすることができない。

 という訳で肝心なところの記述ができなくて申し訳ないのだが、いずれにせよかなりくだらないことを連夜行っていたことは間違いがなく、消息不明となったネ倉○さんを思い出すと我々の中ではいまだにおかしくてしょうがないのであった。

 写真は「いやらしりとり」をやっていたころによく行った近くのカレー屋さんの「ビーヤント」。実は先週高校の同窓会で京都に行ってビーヤントのおばさんの健在を確認。これについてはまた書きます。

日曜日, 7月 15, 2007

ネオンと黒壁の寮部屋での出来事

熊野寮外観(HPより)


 京大熊野寮で大学時代の4年間を過ごした(注:4年で卒業したわけではない、1年目は下宿)。そのうち2年間をA-401号室というネオンと黒壁のある部屋で過ごしたのだが、ネオンも黒壁も僕が創造した産物でこの部屋は再起不能かと思われる。

 僕がこの401号室で空き放題に暮らすようになった経緯は次のようなものである。

 入学して今出川通りのお茶屋さんの3階に下宿(本当の昔ながらの部屋を借りる下宿)。当然のことながら素行上の理由(夜が騒がしい)で1年で出て行ってくれと言われる。

 かなり貧乏だったために寮生活をすることに。何しろ寮費は月700円で寮食は学食より安い!(しばらくして3倍の2,100円に値上げしたのだがそれでも下宿に比べると格安) 最初の1年は二人部屋、先輩のKさんといっしょだったが、この人が一度社会に出てからまた大学に入りなおした苦労人で、いろいろと親切にしてもらった。これが2年目。

 ところで寮は2つあって吉田寮(木造)とこの熊野寮。この2つの寮は昔から学生運動の拠点のように考えられていた。当時はまだ学生運動が下火ながらも続いていた頃で、やはり○○派の生き残りみたいな人がいるにはいたのである。僕はまったくのノンポリなのだがそれでも付き合いでシュプレヒコールやデモ行進に参加したことがある。当局(警視庁などの国家権力を指す)の捜査が入ることもあり、ある朝起きたら寮は機動隊に囲まれていた。何が困るってバイトにいけないのが何より困った。

 この寮には在寮期間中に一年だけ一人部屋に住むことができる。3年目は一人部屋に移り、E先輩からもらった土管で作った大スピーカーでJAZZをがんがんかけまくっていたので寮の広い敷地を隔てた表の丸田町通りまで聞こえていたという。

 そして4年目に規則上、二人部屋に移ることになった。この時に同じ寮で軽音楽部でベースをやっていたHと策略を練った。二人でA-401号室に入ることとし、当時彼女のマンションに同棲していたHを幽霊寮員として一人部屋化を図ったのだ。

 まず、部屋の壁を塗り替えてリフォームを図ろうとすべての壁を真っ黒に、桟の部分を青に塗ってしまった。この部屋は二人部屋使用なので18畳ぐらいあって結構だいへんだった。なぜ黒だったかというと、当時は黒ファッションが好きでライブの時なんかもよく黒装束服を着ておりこの色が僕のシンボルだったような気がしていたからだ。

 黒壁化は僕的にはかなり気に入っていた。訪れる友人は半分は僕だからしょうがないと諦め、四分の一があきれ、残りが「この部屋は再起不能やなあ。」顔をしかめた。つまり賛同する人はいなかった。

 その部屋には音楽関連その他の大勢の人が遊びに来て、打ち合わせ兼飲み会、音楽鑑賞兼飲み会、座談会兼飲み会など、純粋な飲み会など(つまりすべて飲み会)が繰り広げられた。土管スピーカーで音楽を聴きながら。

 ・バンドの打ち合わせ。曲を聞きながらみんなで次のライブの構想を練る。
 ・手に入れたトカゲ酒(瓶の中に本物のトカゲ入り)を後輩に飲ませる。「オレの酒が飲めんのか」的なパワハラのノリで。
 ・炊事場で友人のドラマーで中華料理店の息子が焼きそばとから揚げを作ってくれる。「肉に味を付けるんや」とさすがに旨い!
 ・H先輩と二人で飲みすぎでウォッカを二人で3本空けた結果、翌日病院送りとなり点滴を、、、情けない!
 ・銭湯に行くのが面倒な時は炊事場で石鹸で洗髪をする。
 ・「いやらしりとり」という遊びをする(これは寮生活の中で最もくだらなくも面白い記憶なのだが、書き方が難しいので後日)。
 ・純真な後輩が遊びにくるともっともらしい嘘を言って騙して遊ぶ(そんなに悪質ではないのでご心配なく)

 さてもう一つのネオンの方は何かというと、これは「看板及び標識の収集」をしていたことに関連する。その頃の僕は収集盗癖があり、何の罪悪感も感じていなかったのであるが、寮の部屋を独り占めしたことを良いことにネオン付きの看板及び交通標識を部屋のインテリアとして収集していた。

 酒を飲むと、「この看板ええなあ~」と言っていきなりコンセントを引き抜いて担いで持って帰るのである。喫茶店とかゲームセンターなんかのネオンがチカチカ光る結構大きいシロモノである。自分でやる場合もあるし人にやらせる場合もある。一緒に飲んでいた後輩に「お前ら、今日はこれを持って帰る。そこの二人で持って帰るんや。」「ええ! 勘弁してくださいよ。こんなん、めちゃ重いですよ~。」という後輩に「小さいことは言うな、行動開始や。」と無理やり担がせて寮の部屋まで持って帰るのであった。そうしているうちに寮の部屋はネオンの看板でいっぱいになった。

 交通標識も欲しいなあ、と思い「徐行」の看板を一つ、失敬する。後輩と飲んだ帰りに「このバス亭欲しいなあ。」、「ほな、持って帰りましょうか。」と動かしてみるのだが、これはさすがに重い! 10mで挫折した。(翌日市営バスの熊野神社前は10m西に移動していたはずなのだが何日かで誰かが元に戻したようだ。)

 さて、その401号室の生活も1年が過ぎ学生生活も5年目となった。幽霊寮員のHの件もさすがにこれ以上は寮管理者をごまかせず同居人を受け入れることになった。K君というのだが、これが都合のいいことにボクシング部員であった。何故都合が良いかというと僕は2回生の夏までボクシング部員で彼の一応先輩ということになるので体育会系の慣わしとして何でも言うことを聞くのである。
 ある日、こちらはバンド練習の後の飲み会で酔っ払って帰る。時間は深夜3時ごろ。401号室にバタンとドアを開けて入るとK君が慌ててムクっと起きて、「あっ、今日1:00ぐらいにEさんという方がいらしゃって、自分の部屋で飲んでるそうです。これで通じますか。」という。「ああ、わかった、わかった。」といいEのところに一升瓶を持って飲みに行くのだ。

 さてこんな寮生活も終わり、社会に出ることになった。看板類は横の談話室と言われる誰も使っていなかった共有部屋へ移動。さぞかし迷惑だったろう。寮の誰かが捨てたに違いない。部屋の黒壁はどうなっただろうか。何しろ色が真っ黒なのでその上から塗りなおしてもかなり無理がある。そのままかもしれないなあ。
 (付記:7月に恐る恐る見に行ってみた。部屋の中は見れなかったがドアは同じで僕が塗った青色のまま。当時貼ったライブアンダーザスカイ’84のステッカーまでそのまま。ドアは開き戸から何故か引き戸に改造されていた。談話室は人が住んでいたようだ。もちろん看板はない。)

 ところで最近同じマンションの違う部屋に住み替えることにした。その部屋の番号がA-401。偶然の符号ながらネオンでいっぱいになったり壁が真っ黒にならないことを祈るばかりである。

月曜日, 7月 02, 2007

日本橋酒気帯びひき逃げ未遂事件を振り返る


 上の事件が何年前のことだったかというと下の子供が幼稚園だったような気がするし、当時乗っていた車から考えても8-9年前と思う。

 その日は下の子供を車の後ろに乗せて何かの用事で都内を走っていた。自分の会社の近くを通りがかったのでせっかくだから子供に会社を見せようと思い自分のフロアの近辺まで連れて行く。その後、昼食時になったので新日本橋の近くにあるうなぎ屋さん(昔から好きで今でも時々行く店)に行くことにした。

 近頃は酒気帯び・酒酔い運転の取り締まりが厳しくなったが、昔のことでもあり、特に僕は多少の酒は気にせず飲んでいたので昼食についついビールを一杯。良い気分で店を出て駐車場から車を出した。その店は昭和通に面しており歩道を越えて昭和通に出そうとした時のことだった。

 歩道を低速度で走っている自転車がうかつなことに目に入らず接触。自転車の人は向こう側に倒れてしまった。怪我はなさそうだが自転車は傷がついたか?(まあそれぐらいの当たりだったのだが) 自転車の男は20代後半ぐらいで、やはり怒っていて無言ながら自転車を起こしながらこちらを睨んでいる。まずいなあ、大事にならないうちに早く自転車代払って示談で済まそう。と思って車をとび降りる。

「すみません! だいじょうぶですか。。。」

と声をかける。するとすごくすごくアンラッキーなことが起こった。何故かその直後にチャリのお巡りが2人、たまたま巡回していたのか、やって来てしっかり現場を取られてしまった!

「とりあえず近くの署まで来てもらいましょう。」

 署の近くに車を停めて小さな派出所程度の警察署に子供と一緒に連行される。子供は飴でも食べていなさい、と言われて待合室に。僕は事情聴取に。

 調査の質問が始まって5分くらい。

「あなた飲んでるでしょう?」

 やっぱ、ばれるよなあ。覚悟する。

「実は。。ビールを1本だけ。。」

「酒気帯びで事故起こしたら普通の会社とかだと懲戒免職なんだよ。」

「...」

 困ったなあ。

「とにかく被害者の人の聴取が終わるまでしばらく待ってなさい。」

 1人で小部屋に待たされる。横の部屋では被害者の自転車青年の事情聴取が行われているようだ。 まったくこんなことで本当に免職とかになったらかなり気まずいなあ。「すまん!」だけでは家族にもすまんだろうなあ。

 何分か待っていると、すごくラッキーなことが起こった。署の人が来て、

「どうも相手の自転車の人、あんたと同じ会社の人みたいだよ。話してみる?」

 何と! いくらうちの会社の社員が多いからと言って、休みの日の会社から近いところでもないところに、たまたま自転車で走っている人とたまたま駐車上から出てきた車の運転手が同じ会社だなんて! 

 自転車青年のところに行く。

「同じ会社なんだって? 部署はどこですか? SEなの? へえ、じゃあミッドレンジ・サーバーだね? いや悪かった、申し訳なかった。最上級の自転車買って弁償するから、云々かんぬん。」

という訳で自転車を弁償することで事なきを得る。いや、ほんとに危ないところだった。銀行口座を聞いてそれなりの額を振り込んで示談となる。さて事なきを得たその後の話としては下の幼稚園の子供の事である。この子はどちらかというと現金で母親派でありよく裏切られることが多いのだが。。。気まずい思いをさせたと思い声をかける。

「すまんなあ、S(下の子の名前)、怖くなかったか?」

「いや、別に。。。」

「まったくビールなんて飲まなきゃよかったなあ。」

「え、うん。。。」

などと帰りの車の中でぎこちのない会話をする。それが家に帰ったとたん、母親のところに駆け寄って、

「お母さん、今日はたいへんだったんだよ! お父さんがお酒飲んで運転して警察につかまっちゃって。僕はもう怖くて、怖くて、、云々かんぬん・・・・・」

う~む、これは殺すしかないな、この下の子供は。。。とこの時、心に決めたのであった。(似たようなことがこの後、この子と二人で旅行した時にももう一度。それはまた。写真はこの頃だったと思われる下の子供がミニ四駆に夢中の時代)

 とにかく、九死に一生を得て酒気帯びひき逃げ→懲戒免職は免れた事件であった。自転車青年はまだ弊社にいるであろうか? 

金曜日, 5月 18, 2007

宇治のブラバン時代


 つい先日、母校である高校(といっても途中で転校したので卒業してないが)のコミュニティーが無いか探していたらみつかって(http://mixi.jp/view_community.pl?id=444127)、先生の名前を知っているトピックスがみつかったので加入してコメントしてみた。当時いっしょだった人の何人かと思わずネットで知り合うことができた。(写真はコミュニティの管理人殿より借用) この頃の話を思い出して書いてみよう。

 宇治市の宇治中学校というところに3年生の時に転校したのは西暦で言うと1976年の春。その前は三重県の中学校にいて部活は剣道をやっていたのだが、転校することがわかってから転校先の剣道部でなめられたらいかん、と思い練習に励んでいた。ところが、転校してみると何と剣道部が無かった。。。。

 というわけで吹奏楽部に入ってトロンボーンをやることにした。入部した理由をよく人に聞かれる時期があったが、何が、「という訳なの?」と言われると竹刀に一番近いのはどう考えてもトロンボーンやろ? と答えることにしていた。中学3年生から高校2年生まで宇治市に住んでいたのだが、やはりこの3年間を象徴するのはブラバン!という気がするのだ。

 宇治中の吹奏楽部はとても練習熱心で今から考えてもレベルが高かったのではないか、と思う。同じクラスのtbのKちゃん(男子、と当時風に言っておこうか)が部長をやっていた。彼はホントに絵に書いたような優等生でみんなから慕われていた。トランペットのN(男子)は高校も同じだったので最近でも時々会う。副部長は隣のクラスのTだが彼にはよくいじめられた。同級生ではやはり高校まで一緒だったフルートのSさん(女子)、ホルンのUさん(女子)、ユーフォニウム後にパーカッションのI(男子、当時おもちゃ屋)。高校は違うがフルートのFさん(女子)、ホルンのKさん(女子)なんかを思い出す。後輩はtbのN君、F君やトランペットのF君とかがいた。担当の先生は個性的なK先生と面倒見のいいM先生。やった曲で思い出すのは何だろう? コンクールで死ぬほど練習した曲名、思い出せないなあ。曲は思い出せるのだが。あとは旧友とか空軍大戦略(映画音楽)とかのマーチかな。

 高校受験をした。木幡という京阪電車の駅から坂を上って行く東宇治高校に入学することになった。この頃は吹奏楽というか音楽が自分の人生の大きな比重を占めるようになっていた(「音楽との出会い」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。ピアノは淀に住んでいる先生のところに習いに行っていた。高校の吹奏楽部に入った。同期ではアルトサックスのYさん、テナーサック数のFさん、トロンボーンのN、チューバのO、ユーフォニウムのI、パーカッションのKさんとIW、クラリネットのSさんとKさん、フルートのSAさん、トランペットのNとKちゃん,ホルンのUさんとSさんがいた。何故だいたい思い出せるかというと、Iがとてもマメで同窓会をよくセットして連絡してくれるのでわりと最近でもよく会うからだ。Kちゃんとは大学に入ってからKIXというオリジナル・バンドをしばらくやっていた(「学生時代の音楽活動を想う」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)。

 何しろ宇治にいた3年間の一番の思い出はブラバンなのだが、東宇治高校の1年上の先輩は結構強烈で影響を受けたので紹介しておく。
 男子編。トランペットのKセン(K先輩という意味)が何しろ印象深い。ブラバンの部長をやっていてよく一緒に遊んでもらった。タバコを教わったり、部活が終わるとTシャツに着替えてビール飲みに行ったり。簡単に不良と一言で言えない不思議な人だった。高校は中退でイギリスに留学してその後は色々あって今は生きているやらわからない。ドラムのU先輩はちょっと病的ではあったがクールな感じの人でKセンとよくつるんでいた。この人も確かイギリスに留学したと思う。ユーフォニウムO先輩(男子)はかなりむちゃくちゃな人で暴力事件をちょくちょく起こしていた、と思うのだがこの人も色々あって今は生きているやらわからないのだ。僕はトロンボーンのI先輩とかチューバのT先輩とかが結構好きで二人とものんびりしたいい味を出していた。
 女子編。クラリネットのT先輩はすごくきれいな女性だったなあ。ホルンのA先輩はすごく真面目で理屈っぽく思えたのだけど今から思うととてもいい人だったかも。好きだったのはフルートのY先輩だった(これは初めての告白かな、まあ時効ということで)。

 ブラバンは実は2年生の時に一度やめてしまったのだ。進学のことで色々考えて父とも口論のあげく(参照)やめたのだが、どうしてもやりたくなって夏あたりからまた復活した。本当は2年生になってから僕が部長をやるような流れだったので、何人かの人から色々と責められた。この頃のことは多少の後悔とともに何とも言えない思い出になっている。
 この時代にやった曲で印象にあるいくつか。夏にコンクールがあって体育会的に練習するのだが、OBのH先輩やT先輩(先の女性のT先輩の兄)が指導をしてくれた。クラシックでは「ダッタン人の踊り」とか「交響曲第3番オルガン(サンサーンス)」とかをやった。ブラスバンド用の曲というのはやはりその編成用にできているのでクラシックとはまた違ったドラマティックな曲が多くて好きだった。「メイン・ストリーム」とか「第一組曲」とかこの頃やった好きな曲の記憶がある。Kセンの趣向でフルバンド(JAZZのビッグバンド)の曲をいくつかやったのがとても楽しかった。「ムーンライト・セレナーデ」とか「追憶」とか「サムシング」とかが記憶にある。後はPOPS系で「スカイハイ」とか「ルパン三世のテーマ」とかかな。言われればたぶん、ああ!って思い出す曲がいっぱいだろうなあ。

 宇治川の中瀬に塔の島というところがあってそこで毎年オープン・エアー・コンサートというのがあった。とても恥ずかしい思い出が一つ。屋外に作られた舞台で演奏中にバランスを崩して椅子ごとそのまま後ろにコケた! 不注意もあり今でも思い出すと恥ずかしい! 恥ずかしいと言えばもう一つなのだが、自転車通学をしていたのだが、学校の帰りに同期のYさん(前述)を後ろに乗せて、すごいドジなことに彼女を落としてしまったのだ。彼女は擦り傷を受けてしまい僕は面目もない。。。この2つが当時、まだとても子供だった時代の印象的な思い出だ。

 ブラバン以外の諸々の思い出。

 2年生の時に仲がよかったHと当時はやり始めていたスペースインベーダーをしに六地蔵のボーリング場へ(授業中)、ブロック崩しもよくやったなあ。同じく2年生のクラスで面白くて人気のあったYやTなんかは顔が目に浮かぶ。1年生の時に文化祭で「ぞうさん」をコーラス・アレンジして優勝。2年生の時は「ウルトラマン・シリーズ」をやったけどこれは2番煎じでだめ。 クラスの催しでフィーリング・カップル的なことをやってピッタンコだった人がほんとに好きだったのだがフラれる。校長室で校長先生から訓示を受ける、今から思えばこの方は人格者だったなあ。

 残念ながら高校3年生より関東の学校に転校することになった(「ルーズな進学校での一年」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_18.html)。でも宇治の3年間は成功も失敗もあり。僕にとって特別な時期だったような気がするのである。