金曜日, 10月 08, 2010

下の子供のこと


 最近、下の子供のことを「小僧〜」と呼んでいる。家で「よ〜、小僧〜」と声をかけると、
「よ〜」とか「おっす」とか答える。下の子供は高3の受験生だ。

 実はこんな感じに普通になったのは今年の春になってからだ。

 6年前から下の子供と僕の間は気持ちが遠く離れて、必要最低限の会話しかしなくなっていた。僕ははっきり言うと憎まれていた。

 6年前に下の子供が中学に入る前の正月に次のようなことがあった。妻の両親家族と皆で旅行に行ったのだが、旅行先の何かの拍子に皆のいる場で下の子供は僕を馬鹿にした言葉を言った。冗談で言った言葉だった。しかし僕のことを尊敬していれば言わないであろう言葉と僕には思えてひどく腹を立てた。
 旅行から帰って僕はそのことでひどく怒り、下の子供をひどく叱ってぶった。「父親に言うような言葉じゃないだろう!」と言って何度もぶったのだ。下の子供は怖くて泣いてあやまった。

 このことはずっと気になっていた。ずっと後悔していた。きっと僕のことを嫌いになったね。でもどうしようもなかった。過去のことは取り消すことができない。

 その後も普通に話をすることはあった。でもどことなく、ぎくしゃくして話しかけても会話はすぐに途切れた。
 2年前、高校に進学する時に(中高一貫なので受験とかは無かった)、進学のことでまとまった話をした時にはこのような意味のことを言っていた。「僕は父ちゃんのことは尊敬できなくなっていて、何か言われてもそのまま納得できないんだ」というようなことを。僕は悲しかったが、しょうがないと思いその時は何も咎めなかった。

 家族4人(妻と上の子供と)で旅行に行くことも、もちろんあったが、あまり楽しそうではなかった。僕はそういう年頃なのだろうと諦めていた。

 さて去年の夏のことだが、一人で京都に行った時に新幹線の中で僕はこの下の子供との関係を考えていた。いつからこんなにぎくしゃくした関係になっただろう。いつから笑顔をあまり見せないようになっただろう。と。
 僕は家族旅行の写真のことを思い出そうとしていた。まだ笑っている写真が残っているのはいつまでだったろう?と。

 それは考えれば考えるほど明確だった。6年間のその事件以来、下の子供は旅行も会話も敬遠し僕に笑顔を見せなくなっていた。それまでは2人で話したり、歩いたり、外でご飯を食べたりしたし、2人で旅行に行ったこともあったのだ。
 僕はそれを明確に意識した京都行きの新幹線の中で泣いた。改めて後悔をした。

 それから、いつか話そう、と思ったのだ。下の子供に、6年前のことを話して謝ろう。そうしないと解決しない。下の子供もそのうち家を離れるだろう。そうすれば、わかり合える日は来ないかもしれない。来ても何十年も後だ。
 話して謝っても、わかりあえないかもしれない。でも話さないよりはずっとましだ。

 その機会を作ったのは今年の春になってからだった。半年程どうやって話そうかと考えていた。
 「ちょっと話したいことがあるから、たまには外でご飯でも食べない?」
ともちかけて、嫌そうな下の子供にある休日の夜に予定を入れさせた。
 2人で近くの蕎麦屋に行って座敷の落ち着いたところで話をすることにした。家族でよく行くお店だった。
 「久しぶりだな、二人で飯を食うなんて」と言うと
 「初めてじゃね?」と言う。
 「いや、××以来だ」と二人だけで言った旅行のことに触れた。もちろん6年前よりも、もっとずっと前のことだ。
 それから僕は下の子供に話した。

 ・6年前に感情的に怒ったことをとても後悔している
 ・最近になってそのことに改めて気がついて涙が出たことがある
 ・今日はそのことで謝ろうと思っている、悪かったと思う
 ・お前さんのことは本当にかわいい子供だと思っている

 下の子供はこう言った。
「あの時は正直、父ちゃんのことを殺そうと思った。」
「気をつかうのがバカバカしく思えた時期があってそれ以来あまり積極的に口をきかなかった」
「父ちゃんに対してはトラウマがあってもううまくやっていけるような気がしない」
「母ちゃんや兄貴の目線で思うと父ちゃんは悪者に見える」

 いいことはすべて忘れてしまったようで悲しかったが、今日は謝る場なのでだまった聞いていたし、そう思われてもしかたがないと思った。あまり子供の面倒をみなかったのも確かだ。他の話もしたし、随分長いこと話をしていた。
「別に嫌いというわけじゃないんだけど」
とも言っていた。蕎麦屋を出た。

 話をして良かったと思った。その後少しは会話が自然になったような気がした。

 ところで最近この子は半月板と靭帯を痛めて両杖をついている。何週間かはこの状態らしい。それで毎朝、早い時間に車に乗せて学校に送っていくことにした。家から新子安の学校まで20分ぐらいかかる。勉強や受験の話を少しだけする。
 
 こういう形で受験を支えてあげようと思う。来年受かれば上の子と同じように下宿させようと思っている。外で酒を飲む機会も作りたいし、何年もすればいつかわかりあえるだろうと思っている。

(写真は1回だけ行ったこの子のハンドボールの試合。1番のポイントゲッターでチームの勝利に貢献していた)

金曜日, 7月 09, 2010

日本航空剣道場最後の日





 少し前に日本航空バスケットボール部の練習場が経費削減のために移転となった、というニュースが日経新聞に載った。その練習場は東京モノレールの整備場駅にある機装ビルの4Fの体育館にある。
 その横にあるのが日本航空剣道場なのだが、この道場も今日を最後の稽古日として廃止となった。剣道部は同じ整備場駅にある全日空剣道場を間借りして稽古をすることになった。

 1年以上も剣道の稽古をさぼっていたが今日は久しぶりに道場を訪れた。お客様でもあり仕事仲間のAさん、Tさん、同じ会社のN君、女性剣士Kさん、いつも世話になっている整備士のSさん等と久しぶりに道場で会った。稽古の後に3Fの食堂でビールと日本酒で宴会をやった。空港警察署の先生も来ていた。剣道をやっている人というのは飲んでいても誠に気持ちがよい。

 剣道を再開して日本航空剣道部の門を叩いたのは約3年前。稽古をしてビル共同の風呂に入りビールを飲んで帰る。月に一度か二度であるが剣道場はそれなりに懐かしい場所になっていた。合宿も毎年長野の安曇野であり稽古自体はしんどいのだが楽しい想い出となった。

 今日久しぶりに剣道をやって、またもう少しやってみる気になった。来年は四段を受けてみよう。最近のさぼり具合からいって一度では無理だと思うが、何度かチャレンジしてみよう。今日はそういう気になった。

 今日は日本航空剣道場に感謝をしたい。

土曜日, 4月 24, 2010

久々のバイショウ


 関西ではバイショウと言ったのだが、東京ではゴトシというらしい。先週金曜日に久々にバイショウをやった。場所はヒルトンホテルで某団体でのディナー・パーティでのバイショウであった。メンバーはいつもバンド活動をやっているRose(vo)とこの関連で最近付き合いのあるOさん(b)。

 バイショウは商売、ゴトシは仕事のことでミュージシャン用語なのだが音楽演奏をやってお金をもらうことを言う。バンドのライブ活動等と違うのは報酬のためだけに演奏する、という点である。ライブ活動は自分や自分のバンドのやりたい演奏、表現したい音楽をやってお客様に聴いてもらってチャージをいただく(もちろんいただかない場合もある)のだが、バイショウはその場のニーズに合わせて演奏をして報酬をもらう。
 この日の年齢層は60歳代でジャズ・スタンダード中心に10曲程度をトリオで演奏した。RoseのMCもいつも通りGoodでウケはまあまあ良かったように思う。

 大学時代にバイショウは大きな小遣いの源泉だった。大学生活の最後の1−2年はちょくちょくバイショウの話が入るようになっていた。普通の肉体労働系のバイトに比べると時間効率は格段に良かった。25年前は生演奏をやるイベントやお店はもっと多かったのだろう。
 誰か仲間や音楽の先輩が話を持って来たり、どこかの事務局から電話がかかってきたりする。演奏するのは今回のようなホテルでのイベントやダンパ(ダンスパーティ・・・死語)、ピアノラウンジや生演奏付きのバー、キャバレー、スキー場のペンション等である。僕ら学生が音楽事務局から連絡されるのは主にトラ(代役)としてで、事務局の方もプロの人の穴があいて困ることも多いらしく学生の連絡先リストを持っていたようである。

 当時のバイショウを思い出すと、、、

 大阪の繁華街でのキャバレー。店の名前は忘れた。だいたいは京都での学生バンド活動が多かったが大阪でやっていたバンドが一つだけあって1−2回このバイショウに呼ばれた覚えが。。。当時の典型的なキャバレーでステージがあり客のBOX席があっておねえちゃんがいる、という感じの店。ポップスやジャズを譜面を渡されて演奏する。(バイショウの譜面は基本、当日お店に行ってから渡される)
 同じく京都三条にあるベラミという当時の京都では名の知れたキャバレー(山口組田岡組長狙撃事件のあったところ)。ここは仕事がきつい。30分のステージが5回あって報酬がたったのG(ゲー)千(5,000円)。客層もそれなりなので演奏も緊張してやっていた。メイン演奏がクールファイブだったことも。。。
 大阪の某企業のダンパ。当時やっていたソウル系バンドにて。ダンパが一番報酬が良かったし楽しかった。1時間ぐらいの演奏でバンドでC(ツェー)十万(10万円)ぐらい。もっとも十人近くのバンドだったから人数割りだが。
 嵐山の方に赤まんまという店があった。ピアノラウンジ風のお店。ピアノだけでやったり歌の人が入ったり。
 梅田のラウンジの話があって行った時はボーカルのおねえさんが演奏中にしか譜面を配ってくれないのでスリル満点。次の曲の紹介をしながら横から譜面を渡してくる。ピアノはウタバン(歌の伴奏)では前奏を出さなければいけないのでこういうのは非常に厳しいのだ。
 クリスマス・シーズンはホテルでのイベントが多くちょくちょくバイショウ話があった。ベースのHさん(大学先輩)とRoseで京都のホテルでやったことがあった。Hさんがホテルに工事かなんかの作業の人と間違われて大笑い。
 スキー場のペンションでの演奏。若い女の子がたくさんいながら仕事に徹する学生バンドマン。当時も今も真面目?
 
 という感じで1回5千円から1万円ぐらいなのだが、拘束時間は短かいし(通常は3時間ぐらい)何しろ貧乏学生だったもので報酬としてはありがたかった。好きな音楽の演奏でお金になる訳だし勉強にもなるのでできるだけ断らずにやるようにしていた。
 
 バイショウ、特にキャバレー系のやつは基本的にやるべき音楽の種類が決まっており、中にはマンボとか演歌曲も含まれる。当然ながら自分の好きな音楽をやれる訳では無いのでミュージシャンもバイショウの時は結構つらい場合も多いはずだ。なかなか音楽で食べて行くのは難しくて当時も名のあるミュージシャンでも結構バイショウをしていた。

 という訳で会社に入ってから純粋なバイショウらしいバイショウをしたのは今回が初めてだと思う。10年程前に新宿のスナックで月一で演奏していたことがあったが、これは基本的にバンドでやりたい歌をやらせてもらっていたので。また最近(3年前)では千葉の職場近くのバーでこれも月一でやっていてお金もいただいていたが、こちらも好きにやらせていただいていた。

 今回のイベントや客層の品格が高かったのでこちらも気持ちよく演奏ができた。最近は生バンドもハヤラないので、こういう仕事もだいぶ減ったようだ(この日にやったベースのOさん談)。でも機会があれば、たまにはこういうバイショウもいいな、と昔を思い出しながら書いてみた。

 (写真は直接関係ないのだがマイルス・デイビスの書いた絵) 

土曜日, 11月 15, 2008

21才学生 女子大で下半身露出事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。

大学生活最後の秋の頃であった。学園祭の季節でこの時期は音楽に明け暮れていた訳なのだが、その日の午後は何故か今出川通りにある某D女子大の学園祭に遊びに来ていた。一人で来ていたという訳では無かったと思うがその事件のあった時一人でキャンパスを散策していたように思う。

ある校舎の中で出店を見ていたその時、急激に便意(大)を催しトイレを探した(この間からこのネタが多くて恐縮だが)。
さてそのトイレであるが女子大の校舎なので基本的に女子トイレが圧倒的に多い。もちろん教諭もいるので無いはずは無いのだが。それで学園祭の時期はどうしているかというと女子トイレを男子も共有として開放してあったのだ。女子トイレの入り口に「学園祭期間なので男子も使用可能です」との貼り紙。

僕はその階にあった女子トイレに入った。もちろん合法である。そのトイレがどういう構造だったかを思い出してみる。まず集合型ではなく個室型でドアを入った手前側が洗面所でゆったりした広さで奥の方に洋式の便器がある。女子大のトイレなので壁紙なんかもカラフルだし床には簡単なマットがひいてあったように思う。まあ僕が行っていた共学の大学には無いような造りであった。

僕はこういう場合の常として急いでいたので

まずドアを開け、

鍵をして、

それからズボンを下ろし、

奥の便器に座った。

そして用事を済ませたその時のことである。ドアを開けようとする音がするのだ。外からも使用中のサインになっていると思うのだがドアのノブをガチャガチャと開けようと回している。

まあ、いいか。鍵もかけている訳だし。僕は「使ってますよ!」というのも何となく気恥ずかしく(つまり外の人が女性である確率が高いし)そのまま便座に座っていた。

信じがたいことにドアが開いた! 女子学生が入ってきた。

目があった。。。。。

僕「。。。」
女子学生「。。。」

誤算であった。あろうことか、鍵はどうも半掛りになっていてノブを回しているうちに開いてしまったのだ。

僕「あの、すみません。鍵掛かっていなかったようですね。」(座ったまま)
女子学生「し、失礼しました!!!」

バタン(ドアを閉める音)!

駆け足の音 

僕はバツも悪いし、恥かしいし、その女子学生に万一会うのも困るので命からがらそのD女子大学園祭から逃げ出して来たという訳だ。

その女子大生に下半身を露出してトイレを占拠している男子学生と見做されて学園祭実行委員や大学当局に通告されなかったのは、用をすませて座ったまま言い訳をしている僕の物腰が極めて爽やかだったからであることは間違いない。

いや、やはり顔に「かなりのうっかりもの」と書いてあったと考えるのが正しいのか???

日曜日, 11月 09, 2008

27才住民 万引き未遂事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。


ある夏の夕方だった。その日は急に料理をしようと思い立ちその日の晩御飯を作ることにした。そこで駅の近くにあるスーパーマーケットに向かった。料理といっても何にも出来る訳ではないのだがスパゲティを作ることにしてスーパーで材料を探した。


僕は一つのことにかなり没頭する性質なのだが、買い物中は何をどうやって作ろうかと頭がいっぱいだったようなのだ。僕は買った材料を抱えて家に向かった。


僕はまず、 スーパーを出て


道を渡って歩道を歩く。


そして公園の前を通過。


さらに道沿いのマンションの入り口まで何人かの近くの住民とすれ違う。


次にマンションの入り口の鍵をあけ、自動ドアを通過。


エレベータに乗る。


降りて自分の部屋まで廊下を歩く。


自分の部屋の前に着き鍵を取り出そうと右のポケットに手を入れる。


無いので、さて左のポケットかと左手で持っていた、さっきスーパーで買ったものを右手に持ち替える。


すると、僕が右の手に持っているものは、、、


「うわー!!!!」



僕は思わず叫びそうになった。僕が右手にしているものは何とスーパーのカゴでそこには食材がそのまま入っていたのである。僕はまだスーパーの中にいるのか!? 帰り道に見た風景はすべて幻想だったのか?


いやそうではない。 あろうことか、僕はスーパーからそのままカゴを持って出てきてしまい、スーパーを出ても気付かず、道を歩いても気付かず、人とすれ違っても気付かず、マンションに入っても気付かず、エレベータに乗っても気付かず、自分の部屋の前でカゴを左手から右手に持ち替えるまで気付かなかったのだ。


幸いなことにカゴの中にはレシートが入っていたので支払いは済ませたようだ。没頭していたのでその位記憶が曖昧なのだ。カゴは記念にしばらく家の台所に置いておいたがしばらくしてそのスーパーに返しに行った。


帰り道にすれ違った近隣の人に万引きと誤解されて通報されたり、頭のおかしな人と(これは誤解ではないのだが)通報されなくて本当に良かった。それは僕の日頃の品行が良かったという理由であることは間違いない。 もっとも、まったく悪気の無い顔をして歩いていたはずなので見た人もかなりのうっかりものと思ったのかも知れないのだが。。。

水曜日, 10月 29, 2008

28才会社員 女子トイレ不法占拠事件の真相

ふとしたことである事件を思い出した。これに関しての誤解を解くべき時が来たように思う。


会社に入って何年目かの頃であった。当時は北関東のあるお客様の仕事をしていて上越新幹線で移動することが多かった。上越・東北新幹線が東京駅までつながっておらずに東北の玄関、上野駅から出ていた頃だ。


その日は仕事が終わり帰途につくところで新幹線から上野駅のプラットフォームに下りて在来線に乗り換えようと階段をおりようとしたところ。。。


突然激しい便意を催したのだ。これはまずい。階段を下りてトイレを探す。キョロキョロ。


あった! 遠くの方にトイレの標識が見える。小走りで向かう。そしてトイレに。大の方のブースに入る。助かった! これで便意の方は解決した訳なのだが?



先程からトイレに人が入ってくる足音が聞こえるのだが、どうも様子がおかしい。入ってくる人は皆、大の方に。しかも入ってすぐに水を流す。洗面所で手を洗っている時間が妙に長い。


そのうち連れで入ってきた二人が会話を始めた。

「○△○△」
「○△○△」


僕(ブースにて)「。。。。。。。。。。。。」


何と女性の友達どうしが男子トイレの中で話しているではないか!


いやそうではない。 あろうことか、僕は急いだあまり女子トイレに入り、入っても気付かず、大のブースに入って用事を足し、他の女性が入ってきてもさらに気付かず、この会話を聞くまで気付かなかったのだ。


これは困ったことになった。駆け込んだ時にはたまたま洗面所に誰もいなかったということか。しかし男性用トイレ(小)が無いことにもまったく気付かないとは。。。。


これは待つしかない。誰もいなくなるのを待つしかない。入った時も誰もいなかったのだ。すぐにチャンスは訪れるはずだ。


待った。随分待った。長いこと待った。どうも入った時のタイミングはかなりレアだったらしい。乗降客の多い上野の女子トイレは人が絶えることはなかった。


このままだと終電が終わるまで待つしかない。待ったとしても、それで出て駅員に見つかったら? そうすると、これは女子トイレに数時間居座り続けた変態ということになるではないか!


僕はとうとう諦めた。出ることにしたのだ。


「あー、すみません。間違えたんです。いや、ホントなんです。すみません・・・・・・」何だかんだ謝りながら走って出た。トイレから駅の通路に出た瞬間、女子トイレから爆笑が聞こえた。


その後は幸いなことに特に事件にもならずにすんだ。本当に間違えたということを疑われずに女子トイレ侵入そた変態として訴えられなかったのは僕の謝り方が誠意に満ちていたものであったという理由であることは間違いない。 いや、顔に「うっかりもの」とでも書いてあったのか???

(タイトルの年齢は正確ではないが上越新幹線の東京駅開通1991年より推測)

月曜日, 5月 12, 2008

三段合格!


 まったくの稽古不足が続いたために内心これは無理かと思っていたのだが、、、審査に合格した。剣道三段。昨日のことである。

 朝から大田区の審査会場である大森高等学校に向かう(写真は審査後の会場)。段審査というのは実技、剣道形、筆記の3つがあり、東京都の場合は筆記は事前に書いて提出する論文形式だ。まずは受付とともにこの筆記問題を出す。

 次が実技である。この日は初段、二段、三段の審査なので順番に待つ。自分の番は昼過ぎになった。この実技の順番は年齢の若い順なのだが僕は三段の中での一番後35番だったので最年長ということになる。周りはほとんどパワフルな高校生。
 さて実技の順番が来た。気合と沈着さを忘れないようにと自分に言い聞かせて競技場に向かう。実技は二人と対戦して基礎力を見られる。真っ直ぐに相手に向かい体からぶつかる面を打つ。決して下がらずに攻める。剣先を胸元につけてそのまま攻める。また打ってきた出鼻を小手を打ちそのまま前に出る。手応え十分で実技を終わった。

 実技の合格者が次の剣道形の審査となるが発表を待つ時間に形の練習を無心でやっていた。発表の掲示を見ると合格! ほっとした。思いの他きびしく合格者は21人。欠席者はほとんどいなかったので3割以上は落とすという例年にない厳しさであったようだ。

 ここで次の審査試験である剣道形について簡単に触れておく。太刀を使った形が七本あり三段はこの七本の形を審査する。形は打太刀(先に攻める方)と仕太刀(攻めをかわして反撃する方)の二人で行う。動作がすべて決まっており、これをまず完璧に憶えることとそれぞれの所作の意味を理解して太刀振る舞いを行うことが必要だ。剣道形の心がわからないと動作の意味がわからないために、機械的に憶えるだけでは失敗する。

 この日の形は打太刀だった(直前で指示される)。打太刀は師の太刀と言われ形の演武にわたって相手をリードしなければならない。ミスもなく形を終了。たぶん大丈夫であろう。

 筆記は事前準備のために落とされることはまずない。合格した。ほっとした。二段になってからほぼ六年経った。二段になった直後にやめてしまい再開したのが昨年の六月だった(「剣道再再開」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/06/blog-post_15.html)。また昨年の12月に審査を断念したことも以前述べた(「段審査を断念」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/12/blog-post.html)。

 段審査断念から3ヶ月経ってようやく稽古に復帰した。肋骨は何とか練習に耐えられる程度には痛みが薄らいできた。久しぶりの稽古はどうなることかと思ったが、胴紐の結び方を少し混乱して忘れたぐらいで普通にできた。最初の15分がきつかったが、すぐに取り戻すことができた。
 実は翌日はある試合に出なければいけない。もう少し前に稽古再会の予定だったがぎりぎりの再会となってしまった。
 さてその試合は実業団高壮年大会というのだが、、、

 負けた。相手は3段なのだが勝てない相手ではなかった。悔しかった。延長戦までもつれ込んだが最後に相面(同時に面を打ち合うこと)で先に取られた。飛び込んで打ってきた相手と起こりを待って合わせにいった僕との差が相手に先に打たせてしまった。

 その後も忙しくてまったく稽古ができない状態が続いた。今回は気力で合格したのだと思うが本当に嬉しかった。直前になって形の稽古をや筆記のアドバイスをしてくれた羽田の道場の諸先輩に心より感謝します。

 以下は筆記試験で提出した回答。

(1)応じ技について述べよ。

相手の動きに応じて打つ「後の先」が応じ技であるが、決して受身ではなく相手の技を攻め相手の技を引き出すことにより先を取る。以下技を述べる。
(イ)すり上げ技
相手の竹刀を下から表または裏ですり上げて中心から外して遠山の目付で打突する。
(ロ)返し技
相手の竹刀を自分の竹刀で受けた瞬間に手首のスナップを効かせて竹刀で応じた反対側を打突する。
(ハ)抜き技
相手を攻めた上で相手に打たせ足さばきなどで相手の打突を抜いて反撃に転じる。
(ニ)打ち落とし技
打突してきた相手の竹刀を上からたたいて落とし隙を狙って反撃に転ずる。

(2)残心とは何か

残心とは打突を行った後も油断をせず緊張を保って相手の反撃に応じる心構え気構えを持つことである。
打突後間合いをとってただちに中段等の構えを取る。また相手の反撃に備える適正な間合いがとれない場合は剣先を相手の中心(咽喉部等)に向けて反撃に備える場合もある。
ただちに油断なく身構えないと次の動作に変化ができないため試合においては残心のない打突は、たとえ正確に打突していても有効打突としての一本にならない。また真剣による勝負の場合には相手が決死の気持ちで最後の反撃に出る可能性があるために必要な動作である。
剣道形においては上段または脇構え等による残心が明示的に示されている場合でなくてもすべての形において十分な気位を持って残心を示すことが必要である。

(3)剣道の先生より受けた良い点について記せ(これは出題として難問!)

剣道を始めた子供の頃に剣道は礼に始まって礼に終わるということを教わった。先生や先輩はもちろんのこと仲間に対してもけじめをつけて礼をする習慣がついたように思う。剣を合わせて向かい合う相手に対して尊敬の念を持ち勝負を終えた後も勝ち負けに限らず敬意を形に表す。剣道は対人的格闘技であるので、ややもすると闘争的本能を発揮しやすくなる。この本能を礼儀によって人間的に統制するところに礼の意義がある。
礼法の重要さを改めて認識したのは大人になってからである。礼法は社会における様々な競争や葛藤において人間性を持って人に接する方法を示唆している。
また礼法だけではなく、気剣体一致の言葉に表されるように構え、蹲踞や間合い、または打突において精神性や気力の充実が必要とされる。体を鍛えながら心を磨くことができる点が剣道の良さと思う。

土曜日, 9月 08, 2007

新入営業社員殺害未遂事件の真相


 先々週の富士山登山の直後に始めてハンドマッサージをしてもらいその時はとても気持ちが良かったのだが、何故か右親指の腱鞘炎が再発してしまった。もうすぐライブもあるし仕事でPCのキーボードを叩くのにも支障があるので心配である。まあそれは何とかなるとして。さて、この腱鞘炎の原因なのだがピアノの練習のし過ぎ、、、とかいうとかっこいいのだがそうではないのだ。

 この件は僕が会社関係の飲み会で起こした事件の中で最もやばいものの一つで実はあまり書きたくなかったのだが、この際書かざるを得まい。この腱鞘炎はM平という当時の営業新入社員のたたりと思われるからだ。それは2003年夏のこと。

 この件は「僕が酒に酔ってある新入社員であったM平がその時に言ったことに激怒しビール瓶で頭をかち割って殺そうとしたところ、酔っていた為にビール瓶が途中ですっぽ抜けて宙を飛んだために殺人にはいたらずM平は一命をとりとめた、これが原因でM平が退社した」、という極めて恐ろしい話が通説になっている。この事件の現場に居合わせた会社の後輩のKには、「あれを見てkohsさんにまともなこと言っても通じないということがよくわかりましたよ」等と言われる。まあ面白い話なのだが(面白くないか)、さすがにその話が出るたびに「いやいや、そんなことはないんだよ。本当に殺そうと思った訳じゃないんだよ。(当然なのだが)」と返したりしている。だが真相は本当にそんな積もりはまったくなく通説のようなことはなかったということを皆さんに(大概の方は関係ないが)知ってもらうために書いておきたい。

 その頃はSEマネージャになっており千葉の仕事が中心であった(センターとまことやの日々http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/03/blog-post_16.html参照)。何かにつけよく飲んでいたことは前のトピックスで書いたが(参照)、その日は何かまとまった宴会で一緒に仕事をしているSEやカウンターパートの営業含めて20人以上で飲んでいた。何かの打ち上げか暑気払いかそのような宴会だったと思う。店は千葉市富士見町というところにある五味鳥という店の2会で、この店の2階は一部屋しかない障子のある部屋で貸切状態であった。貸切で我々が飲み会をすると何かと事件が起こる可能性が高く過去にもこの店では一波乱があったようだ。

 M平について触れておこう。その年の営業の新入社員なので若い社員でもあり、あまり悪く書きたくないのだが自惚れやで礼儀に欠け接する人の第一印象はあまり好きになれないという印象を与える新人であった。一応断っておくがこういう人に対しても僕は長い目でみる方であり、良いか悪いかわからないがすぐに口うるさく注意することなく少しずつ変えていこうとするタイプの積もりなのである。M平の言動は何かと話題になり営業部でも要教育新人として先輩・上司から指導を受けていた。さてそのM平と居酒屋「五味鳥」で起こした事件が「新入営業社員殺害未遂事件」なのだが、どういうことかというと...



 ・・・・・・・・・


 実はあまり憶えていないのである。理由はかなり酔っていたからだ(あまり珍しいことではないが)。その日も一気あり(いまだに我々はこの文化、ちなみに流行語大賞「いっき」は入社した1985年)、スピーチありで散々飲んでいた。店は座敷であり、大勢で飲んでいる喧騒の中でM平は何人か離れた席にいた。その時どういう話をしていてこの事件になったかはさすがに気になったのでその時その場にいた人に聞いてみたのだが皆泥酔しているためあまり覚えていない。ただ、何となくはこんな話らしい。

 M平と他の何人かと何か仕事の青臭い話で議論をしていた。ところで僕は酒の席で真面目に仕事の議論をするのが実はあまり好きではない。感情・感覚の話は酒の席でも意味があるのだが、理論的な話は何の進展もないからである。そこで「そういう考え方もあるね」とか「まあ細かいことはいいんじゃないか」などと流すことにしている(仕事の時はもちろんちょっと違うが)。その時は何かM平が青臭い議論をふっかけていて先輩にそれは違うんじゃないの、的な話をしていたらしい。僕はあまり愉快ではなかったのだがM平を責める訳でもなく「まあそういう考え方もあるかもしれないけど」などと流していたらしい(何度も言うが憶えておらずその時近くにいたKの後日談。Kも細かくは憶えていないのだが)。

 憶えているのは次のシーンからである。

 M平が「kohsさん、YesかNoかはっきりしてください」と言う。
 僕はその一言でキレてしまう。 「M平、ちょっとこっち来い!」
 M平はやむなく移動して僕の横へ。
 僕は座ったまま右手でM平の胸ぐらを掴んで畳の上に押し倒す。座敷のテーブルの角がM平の頭の斜め上にある。
 そのまま右手で近くにあったビール瓶の口の部分を持って振り上げる。

 (ここが大事なのだが当然ビール瓶でM平を殴ろうと思った訳ではなくテーブルの角のところまで振り下ろして寸止めをしようというパフォーマンスだったのだ。いやいずれ普通の社会人の常軌は逸しているのだが。)

 ところが酔っているためにビール瓶は空中で手を離れる。
 ビール瓶はそのまま1列テーブルの先を越して座敷の窓にある障子まで飛んでいく。
 多少ビールが残っていたらしく障子にビールの跡を残し瓶はテーブルの向こうに落下。
 僕の手はM平の顔の真上で止まる。
 その後、何秒かM平はおびえた顔をして僕とテーブルの間で横たわっている。
 僕は「まあ、いいよ」(何がまあいいんだか)と言ってM平は席に戻る。

 これが新入営業社員殺害未遂事件の真相なのである。つまり当然殴る積もりはなく、ビール瓶が途中ですっぽ抜けなくてもM平が殺されることは無かったのである。

 その後、M平は先輩に諭されて「お前は今日は帰った方がいい」ということになり、「失礼します」と言って帰っていった。その後はその話題にはあまり触れることなく、その「五味鳥」での宴会を終わり2次会、3次会といつものヘビーな飲み会が続く。

 さて翌日だが、朝起きてこの事件を思い出し、M平もさぞ怖い思いをしただろう、と彼のオフィスに顔を出す。
 「おお、昨日は悪かったなあ。殺す気はなかったから悪う思わないでくれ。」などと会話していると、営業部ではちょっとした話題になっていて近くにいた営業部長が心配そうに近づいてきて「激しい飲み会だったらしいね。大丈夫なのか。」などと声をかける。

 それから何ヶ月かしてM平が会社を辞めるという話を聞いた。理由は彼は大学院出で父親も教授か何かなのだが、やはり学問の道に進みたいので卒業した大阪の大学に戻るというものだった。これが「会社の先輩(僕)に飲み会で殺されかけたので退社」という話になったものである。

 いや、元々企業で社会生活を営むには少し厳しかったのを本人も気付いたのだろう。「殺害未遂事件」が何らかの要因になったとは思っていないのだが、もしそうだとしても本人にとっては良かったに違いない。

 冒頭の腱鞘炎に関してだがビール瓶をにぎってテーブルの角に持っていく間に筋を違えたらしく、しばらく痛かった。この何週間はキーボードも叩けず、ピアノも弾けず。

 さて、これが「新入営業社員殺害未遂事件」の真相なのであるが読んでいただいた皆様はどのように感じられただろうか?

未遂事件の顛末に関して
 A.事の顛末は納得性があり自分でもそうするだろう。
 B.殺すつもりはなかったとしてもあり得ない行動でありM平が殺傷された可能性はあったのではないか?
 C.絶対に殺すつもりだったのを美化して書いているに違いない。

M平退社に関して
 A.M平が会社を辞めたのは彼自身の問題として当然の帰結である。
 B.M平退社とこの事件は何らかの因果関係があると思われる。
 C.M平は明らかにこんな恐ろしい会社にはいられないと思い退社している。

金曜日, 8月 03, 2007

「いやらしりとり」とネ倉○さんの話



 大学時代の数年間をある寮で過ごした(ネオンと黒壁の寮部屋での出来事http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/07/blog-post_15.html参照)。その寮でやっていた実にくだらなくも面白い遊びが「いやらしりとり」である。

「いやらしりとり」はある時期に主にバンド仲間により寮の僕の部屋で夜な夜な行われていた。この遊びはあまりにくだらないのと、しりとりの実例のほぼすべてが放送禁止用語のために公共のblogに晒すことがはばかられるために、雰囲気しか説明できない。

 ルールの原則は普通のしりとりで「ん」がついたらダメ。言葉は単語でもよいのが、文章でも良い。ただし、思いっきりやらしい、か、そこそこやらしいけれどかなり笑えるか、でなければならない。その発言が妥当かどうかはその場にいる過半数の賛同を得られなければならない。5人から10人ぐらいでやるのが適していると思われる。

 最初は単語から始まるが、だんだんと難易度を増し、次第にかなり凝った文章となる。普通のしりとりと同じで「る」で終わった時のバリエーションなんかはかなりの工夫が必要となる。その人の普段考えている煩悩・妄想または性癖が察せられて趣の深いものとなってくる。特に普段おとなしい、あまり女性付き合いもなかろう、と思われる堅物のベースのE等がとんでもないことを言うと「お前それ、めっちゃくちゃ、やらしいわ~!」などと盛り上がる。

 そんなある日、バンド関連でピアノをやっていた他の大学の研究室かなんかにいた先輩が不幸なことに僕の家に遊びに来てこの「いやらしりとり」をやることになった。この人はビル・エバンス風の繊細な演奏をする人で超純粋培養されたお勉強一筋の人らしくて、このようなたわけた遊びに加わるのは可哀想なのであるが、そこは401号室の規則にのっとり容赦は無い。

 この人は倉○さんと言う方だったが、極めておとなしい先輩だったために失礼な話なのだが「ネ倉○さん」と呼ばれていた。

 しばらくして酒がまわってくると、

「ネ倉○さん、これからいやらしりとりという遊びをやりますから。順番一番最後でええですから、一周したらだいたい要領わかると思いますし、入ってください。」

とおもむろに「いやらしりとり」が始まる。

 ×××、○○○○○、△△△、□□□で○○○をする、×××を日に何回どうたらこうたら、、、、などと続く。最後が「く」で終わり、ネ倉○さんの番となる。

「く、だね、じゃあ行くよ、、、、、じゃあ、、、黒いカラス。。。。」

一同、「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」

「いや、違うんですよ。いやらしいことを少しでも言うてもらわんとあかんのですよ。」、「1回パスしますから、次の番の時はよろしく頼みますわ。僕らの言うのを聞いて参考にしてください。」と2周目を続ける。

 そしてネ倉○さんの次の番が回ってきた。前の人が何で終わったかは覚えていないのだが「じ」で終わったために、ネ倉○さんは、

「じ、だね。じゃあ行くよ、、、、、『女子高生の初体験』。。。。。」

「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」一同しばらく間を置いてから、、、

「んで終わってますよ。んはあかんのですよ。」

「これは可哀想ですけど罰則をやっていただかんといかんですねえ。」

ということになり、罰則をしていただくことになったのだが、その罰則が何かということはこれはそれこそblogに書くのは憚られるのである。我々はその場でやるのであるが、さすがにネ倉○さんにその場でやらせるのは忍びがたきものもあり(僕らはその場でやるのだが)、じゃあトイレでもええですよ、という話になり、ネ倉○さんは寮のトイレに向かったのであった。その後、彼は部屋に戻らず、それどころか我々の中で彼の姿をこれ以降見たものは誰もいないのであった。

 この罰則が何かは、絶対にこういう場所では書けないのでご想像いただきたい。さわやかさと破廉恥さを伴った罰則であった。この罰則と今一緒にバンドをやっているボーカルのE嬢の関連が深いのだがこれも彼女の人格に誤解を与えるものであるため残念ながらここでは明らかにすることができない。

 という訳で肝心なところの記述ができなくて申し訳ないのだが、いずれにせよかなりくだらないことを連夜行っていたことは間違いがなく、消息不明となったネ倉○さんを思い出すと我々の中ではいまだにおかしくてしょうがないのであった。

 写真は「いやらしりとり」をやっていたころによく行った近くのカレー屋さんの「ビーヤント」。実は先週高校の同窓会で京都に行ってビーヤントのおばさんの健在を確認。これについてはまた書きます。

日曜日, 7月 15, 2007

ネオンと黒壁の寮部屋での出来事

熊野寮外観(HPより)


 京大熊野寮で大学時代の4年間を過ごした(注:4年で卒業したわけではない、1年目は下宿)。そのうち2年間をA-401号室というネオンと黒壁のある部屋で過ごしたのだが、ネオンも黒壁も僕が創造した産物でこの部屋は再起不能かと思われる。

 僕がこの401号室で空き放題に暮らすようになった経緯は次のようなものである。

 入学して今出川通りのお茶屋さんの3階に下宿(本当の昔ながらの部屋を借りる下宿)。当然のことながら素行上の理由(夜が騒がしい)で1年で出て行ってくれと言われる。

 かなり貧乏だったために寮生活をすることに。何しろ寮費は月700円で寮食は学食より安い!(しばらくして3倍の2,100円に値上げしたのだがそれでも下宿に比べると格安) 最初の1年は二人部屋、先輩のKさんといっしょだったが、この人が一度社会に出てからまた大学に入りなおした苦労人で、いろいろと親切にしてもらった。これが2年目。

 ところで寮は2つあって吉田寮(木造)とこの熊野寮。この2つの寮は昔から学生運動の拠点のように考えられていた。当時はまだ学生運動が下火ながらも続いていた頃で、やはり○○派の生き残りみたいな人がいるにはいたのである。僕はまったくのノンポリなのだがそれでも付き合いでシュプレヒコールやデモ行進に参加したことがある。当局(警視庁などの国家権力を指す)の捜査が入ることもあり、ある朝起きたら寮は機動隊に囲まれていた。何が困るってバイトにいけないのが何より困った。

 この寮には在寮期間中に一年だけ一人部屋に住むことができる。3年目は一人部屋に移り、E先輩からもらった土管で作った大スピーカーでJAZZをがんがんかけまくっていたので寮の広い敷地を隔てた表の丸田町通りまで聞こえていたという。

 そして4年目に規則上、二人部屋に移ることになった。この時に同じ寮で軽音楽部でベースをやっていたHと策略を練った。二人でA-401号室に入ることとし、当時彼女のマンションに同棲していたHを幽霊寮員として一人部屋化を図ったのだ。

 まず、部屋の壁を塗り替えてリフォームを図ろうとすべての壁を真っ黒に、桟の部分を青に塗ってしまった。この部屋は二人部屋使用なので18畳ぐらいあって結構だいへんだった。なぜ黒だったかというと、当時は黒ファッションが好きでライブの時なんかもよく黒装束服を着ておりこの色が僕のシンボルだったような気がしていたからだ。

 黒壁化は僕的にはかなり気に入っていた。訪れる友人は半分は僕だからしょうがないと諦め、四分の一があきれ、残りが「この部屋は再起不能やなあ。」顔をしかめた。つまり賛同する人はいなかった。

 その部屋には音楽関連その他の大勢の人が遊びに来て、打ち合わせ兼飲み会、音楽鑑賞兼飲み会、座談会兼飲み会など、純粋な飲み会など(つまりすべて飲み会)が繰り広げられた。土管スピーカーで音楽を聴きながら。

 ・バンドの打ち合わせ。曲を聞きながらみんなで次のライブの構想を練る。
 ・手に入れたトカゲ酒(瓶の中に本物のトカゲ入り)を後輩に飲ませる。「オレの酒が飲めんのか」的なパワハラのノリで。
 ・炊事場で友人のドラマーで中華料理店の息子が焼きそばとから揚げを作ってくれる。「肉に味を付けるんや」とさすがに旨い!
 ・H先輩と二人で飲みすぎでウォッカを二人で3本空けた結果、翌日病院送りとなり点滴を、、、情けない!
 ・銭湯に行くのが面倒な時は炊事場で石鹸で洗髪をする。
 ・「いやらしりとり」という遊びをする(これは寮生活の中で最もくだらなくも面白い記憶なのだが、書き方が難しいので後日)。
 ・純真な後輩が遊びにくるともっともらしい嘘を言って騙して遊ぶ(そんなに悪質ではないのでご心配なく)

 さてもう一つのネオンの方は何かというと、これは「看板及び標識の収集」をしていたことに関連する。その頃の僕は収集盗癖があり、何の罪悪感も感じていなかったのであるが、寮の部屋を独り占めしたことを良いことにネオン付きの看板及び交通標識を部屋のインテリアとして収集していた。

 酒を飲むと、「この看板ええなあ~」と言っていきなりコンセントを引き抜いて担いで持って帰るのである。喫茶店とかゲームセンターなんかのネオンがチカチカ光る結構大きいシロモノである。自分でやる場合もあるし人にやらせる場合もある。一緒に飲んでいた後輩に「お前ら、今日はこれを持って帰る。そこの二人で持って帰るんや。」「ええ! 勘弁してくださいよ。こんなん、めちゃ重いですよ~。」という後輩に「小さいことは言うな、行動開始や。」と無理やり担がせて寮の部屋まで持って帰るのであった。そうしているうちに寮の部屋はネオンの看板でいっぱいになった。

 交通標識も欲しいなあ、と思い「徐行」の看板を一つ、失敬する。後輩と飲んだ帰りに「このバス亭欲しいなあ。」、「ほな、持って帰りましょうか。」と動かしてみるのだが、これはさすがに重い! 10mで挫折した。(翌日市営バスの熊野神社前は10m西に移動していたはずなのだが何日かで誰かが元に戻したようだ。)

 さて、その401号室の生活も1年が過ぎ学生生活も5年目となった。幽霊寮員のHの件もさすがにこれ以上は寮管理者をごまかせず同居人を受け入れることになった。K君というのだが、これが都合のいいことにボクシング部員であった。何故都合が良いかというと僕は2回生の夏までボクシング部員で彼の一応先輩ということになるので体育会系の慣わしとして何でも言うことを聞くのである。
 ある日、こちらはバンド練習の後の飲み会で酔っ払って帰る。時間は深夜3時ごろ。401号室にバタンとドアを開けて入るとK君が慌ててムクっと起きて、「あっ、今日1:00ぐらいにEさんという方がいらしゃって、自分の部屋で飲んでるそうです。これで通じますか。」という。「ああ、わかった、わかった。」といいEのところに一升瓶を持って飲みに行くのだ。

 さてこんな寮生活も終わり、社会に出ることになった。看板類は横の談話室と言われる誰も使っていなかった共有部屋へ移動。さぞかし迷惑だったろう。寮の誰かが捨てたに違いない。部屋の黒壁はどうなっただろうか。何しろ色が真っ黒なのでその上から塗りなおしてもかなり無理がある。そのままかもしれないなあ。
 (付記:7月に恐る恐る見に行ってみた。部屋の中は見れなかったがドアは同じで僕が塗った青色のまま。当時貼ったライブアンダーザスカイ’84のステッカーまでそのまま。ドアは開き戸から何故か引き戸に改造されていた。談話室は人が住んでいたようだ。もちろん看板はない。)

 ところで最近同じマンションの違う部屋に住み替えることにした。その部屋の番号がA-401。偶然の符号ながらネオンでいっぱいになったり壁が真っ黒にならないことを祈るばかりである。

月曜日, 7月 02, 2007

日本橋酒気帯びひき逃げ未遂事件を振り返る


 上の事件が何年前のことだったかというと下の子供が幼稚園だったような気がするし、当時乗っていた車から考えても8-9年前と思う。

 その日は下の子供を車の後ろに乗せて何かの用事で都内を走っていた。自分の会社の近くを通りがかったのでせっかくだから子供に会社を見せようと思い自分のフロアの近辺まで連れて行く。その後、昼食時になったので新日本橋の近くにあるうなぎ屋さん(昔から好きで今でも時々行く店)に行くことにした。

 近頃は酒気帯び・酒酔い運転の取り締まりが厳しくなったが、昔のことでもあり、特に僕は多少の酒は気にせず飲んでいたので昼食についついビールを一杯。良い気分で店を出て駐車場から車を出した。その店は昭和通に面しており歩道を越えて昭和通に出そうとした時のことだった。

 歩道を低速度で走っている自転車がうかつなことに目に入らず接触。自転車の人は向こう側に倒れてしまった。怪我はなさそうだが自転車は傷がついたか?(まあそれぐらいの当たりだったのだが) 自転車の男は20代後半ぐらいで、やはり怒っていて無言ながら自転車を起こしながらこちらを睨んでいる。まずいなあ、大事にならないうちに早く自転車代払って示談で済まそう。と思って車をとび降りる。

「すみません! だいじょうぶですか。。。」

と声をかける。するとすごくすごくアンラッキーなことが起こった。何故かその直後にチャリのお巡りが2人、たまたま巡回していたのか、やって来てしっかり現場を取られてしまった!

「とりあえず近くの署まで来てもらいましょう。」

 署の近くに車を停めて小さな派出所程度の警察署に子供と一緒に連行される。子供は飴でも食べていなさい、と言われて待合室に。僕は事情聴取に。

 調査の質問が始まって5分くらい。

「あなた飲んでるでしょう?」

 やっぱ、ばれるよなあ。覚悟する。

「実は。。ビールを1本だけ。。」

「酒気帯びで事故起こしたら普通の会社とかだと懲戒免職なんだよ。」

「...」

 困ったなあ。

「とにかく被害者の人の聴取が終わるまでしばらく待ってなさい。」

 1人で小部屋に待たされる。横の部屋では被害者の自転車青年の事情聴取が行われているようだ。 まったくこんなことで本当に免職とかになったらかなり気まずいなあ。「すまん!」だけでは家族にもすまんだろうなあ。

 何分か待っていると、すごくラッキーなことが起こった。署の人が来て、

「どうも相手の自転車の人、あんたと同じ会社の人みたいだよ。話してみる?」

 何と! いくらうちの会社の社員が多いからと言って、休みの日の会社から近いところでもないところに、たまたま自転車で走っている人とたまたま駐車上から出てきた車の運転手が同じ会社だなんて! 

 自転車青年のところに行く。

「同じ会社なんだって? 部署はどこですか? SEなの? へえ、じゃあミッドレンジ・サーバーだね? いや悪かった、申し訳なかった。最上級の自転車買って弁償するから、云々かんぬん。」

という訳で自転車を弁償することで事なきを得る。いや、ほんとに危ないところだった。銀行口座を聞いてそれなりの額を振り込んで示談となる。さて事なきを得たその後の話としては下の幼稚園の子供の事である。この子はどちらかというと現金で母親派でありよく裏切られることが多いのだが。。。気まずい思いをさせたと思い声をかける。

「すまんなあ、S(下の子の名前)、怖くなかったか?」

「いや、別に。。。」

「まったくビールなんて飲まなきゃよかったなあ。」

「え、うん。。。」

などと帰りの車の中でぎこちのない会話をする。それが家に帰ったとたん、母親のところに駆け寄って、

「お母さん、今日はたいへんだったんだよ! お父さんがお酒飲んで運転して警察につかまっちゃって。僕はもう怖くて、怖くて、、云々かんぬん・・・・・」

う~む、これは殺すしかないな、この下の子供は。。。とこの時、心に決めたのであった。(似たようなことがこの後、この子と二人で旅行した時にももう一度。それはまた。写真はこの頃だったと思われる下の子供がミニ四駆に夢中の時代)

 とにかく、九死に一生を得て酒気帯びひき逃げ→懲戒免職は免れた事件であった。自転車青年はまだ弊社にいるであろうか? 

金曜日, 5月 18, 2007

宇治のブラバン時代


 つい先日、母校である高校(といっても途中で転校したので卒業してないが)のコミュニティーが無いか探していたらみつかって(http://mixi.jp/view_community.pl?id=444127)、先生の名前を知っているトピックスがみつかったので加入してコメントしてみた。当時いっしょだった人の何人かと思わずネットで知り合うことができた。(写真はコミュニティの管理人殿より借用) この頃の話を思い出して書いてみよう。

 宇治市の宇治中学校というところに3年生の時に転校したのは西暦で言うと1976年の春。その前は三重県の中学校にいて部活は剣道をやっていたのだが、転校することがわかってから転校先の剣道部でなめられたらいかん、と思い練習に励んでいた。ところが、転校してみると何と剣道部が無かった。。。。

 というわけで吹奏楽部に入ってトロンボーンをやることにした。入部した理由をよく人に聞かれる時期があったが、何が、「という訳なの?」と言われると竹刀に一番近いのはどう考えてもトロンボーンやろ? と答えることにしていた。中学3年生から高校2年生まで宇治市に住んでいたのだが、やはりこの3年間を象徴するのはブラバン!という気がするのだ。

 宇治中の吹奏楽部はとても練習熱心で今から考えてもレベルが高かったのではないか、と思う。同じクラスのtbのKちゃん(男子、と当時風に言っておこうか)が部長をやっていた。彼はホントに絵に書いたような優等生でみんなから慕われていた。トランペットのN(男子)は高校も同じだったので最近でも時々会う。副部長は隣のクラスのTだが彼にはよくいじめられた。同級生ではやはり高校まで一緒だったフルートのSさん(女子)、ホルンのUさん(女子)、ユーフォニウム後にパーカッションのI(男子、当時おもちゃ屋)。高校は違うがフルートのFさん(女子)、ホルンのKさん(女子)なんかを思い出す。後輩はtbのN君、F君やトランペットのF君とかがいた。担当の先生は個性的なK先生と面倒見のいいM先生。やった曲で思い出すのは何だろう? コンクールで死ぬほど練習した曲名、思い出せないなあ。曲は思い出せるのだが。あとは旧友とか空軍大戦略(映画音楽)とかのマーチかな。

 高校受験をした。木幡という京阪電車の駅から坂を上って行く東宇治高校に入学することになった。この頃は吹奏楽というか音楽が自分の人生の大きな比重を占めるようになっていた(「音楽との出会い」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。ピアノは淀に住んでいる先生のところに習いに行っていた。高校の吹奏楽部に入った。同期ではアルトサックスのYさん、テナーサック数のFさん、トロンボーンのN、チューバのO、ユーフォニウムのI、パーカッションのKさんとIW、クラリネットのSさんとKさん、フルートのSAさん、トランペットのNとKちゃん,ホルンのUさんとSさんがいた。何故だいたい思い出せるかというと、Iがとてもマメで同窓会をよくセットして連絡してくれるのでわりと最近でもよく会うからだ。Kちゃんとは大学に入ってからKIXというオリジナル・バンドをしばらくやっていた(「学生時代の音楽活動を想う」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)。

 何しろ宇治にいた3年間の一番の思い出はブラバンなのだが、東宇治高校の1年上の先輩は結構強烈で影響を受けたので紹介しておく。
 男子編。トランペットのKセン(K先輩という意味)が何しろ印象深い。ブラバンの部長をやっていてよく一緒に遊んでもらった。タバコを教わったり、部活が終わるとTシャツに着替えてビール飲みに行ったり。簡単に不良と一言で言えない不思議な人だった。高校は中退でイギリスに留学してその後は色々あって今は生きているやらわからない。ドラムのU先輩はちょっと病的ではあったがクールな感じの人でKセンとよくつるんでいた。この人も確かイギリスに留学したと思う。ユーフォニウムO先輩(男子)はかなりむちゃくちゃな人で暴力事件をちょくちょく起こしていた、と思うのだがこの人も色々あって今は生きているやらわからないのだ。僕はトロンボーンのI先輩とかチューバのT先輩とかが結構好きで二人とものんびりしたいい味を出していた。
 女子編。クラリネットのT先輩はすごくきれいな女性だったなあ。ホルンのA先輩はすごく真面目で理屈っぽく思えたのだけど今から思うととてもいい人だったかも。好きだったのはフルートのY先輩だった(これは初めての告白かな、まあ時効ということで)。

 ブラバンは実は2年生の時に一度やめてしまったのだ。進学のことで色々考えて父とも口論のあげく(参照)やめたのだが、どうしてもやりたくなって夏あたりからまた復活した。本当は2年生になってから僕が部長をやるような流れだったので、何人かの人から色々と責められた。この頃のことは多少の後悔とともに何とも言えない思い出になっている。
 この時代にやった曲で印象にあるいくつか。夏にコンクールがあって体育会的に練習するのだが、OBのH先輩やT先輩(先の女性のT先輩の兄)が指導をしてくれた。クラシックでは「ダッタン人の踊り」とか「交響曲第3番オルガン(サンサーンス)」とかをやった。ブラスバンド用の曲というのはやはりその編成用にできているのでクラシックとはまた違ったドラマティックな曲が多くて好きだった。「メイン・ストリーム」とか「第一組曲」とかこの頃やった好きな曲の記憶がある。Kセンの趣向でフルバンド(JAZZのビッグバンド)の曲をいくつかやったのがとても楽しかった。「ムーンライト・セレナーデ」とか「追憶」とか「サムシング」とかが記憶にある。後はPOPS系で「スカイハイ」とか「ルパン三世のテーマ」とかかな。言われればたぶん、ああ!って思い出す曲がいっぱいだろうなあ。

 宇治川の中瀬に塔の島というところがあってそこで毎年オープン・エアー・コンサートというのがあった。とても恥ずかしい思い出が一つ。屋外に作られた舞台で演奏中にバランスを崩して椅子ごとそのまま後ろにコケた! 不注意もあり今でも思い出すと恥ずかしい! 恥ずかしいと言えばもう一つなのだが、自転車通学をしていたのだが、学校の帰りに同期のYさん(前述)を後ろに乗せて、すごいドジなことに彼女を落としてしまったのだ。彼女は擦り傷を受けてしまい僕は面目もない。。。この2つが当時、まだとても子供だった時代の印象的な思い出だ。

 ブラバン以外の諸々の思い出。

 2年生の時に仲がよかったHと当時はやり始めていたスペースインベーダーをしに六地蔵のボーリング場へ(授業中)、ブロック崩しもよくやったなあ。同じく2年生のクラスで面白くて人気のあったYやTなんかは顔が目に浮かぶ。1年生の時に文化祭で「ぞうさん」をコーラス・アレンジして優勝。2年生の時は「ウルトラマン・シリーズ」をやったけどこれは2番煎じでだめ。 クラスの催しでフィーリング・カップル的なことをやってピッタンコだった人がほんとに好きだったのだがフラれる。校長室で校長先生から訓示を受ける、今から思えばこの方は人格者だったなあ。

 残念ながら高校3年生より関東の学校に転校することになった(「ルーズな進学校での一年」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_18.html)。でも宇治の3年間は成功も失敗もあり。僕にとって特別な時期だったような気がするのである。

金曜日, 3月 09, 2007

「項羽と劉邦」の登場人物に学ぶ

(「項羽と劉邦」に見る人物観(上)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_11.html参照)
(「項羽と劉邦」に見る人物観(中)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_16.html参照)
(「項羽と劉邦」に見る人物観(下)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_22.htmlより続く)

 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の話に従って感じ入ったところを書き出してみた。多くの登場人物が魅力に溢れ、僕にとっての学ぶべき人生観となっている。いずれも歴史上の大人物でありそのまま生き方を真似ることはできないので、それぞれの局面や状況によってこの人のように生きたい、と思うのだ。以下はどのような状況ではこの人の生き方を学びたいかということを考えてみた。
 ちなみに僕はIT企業に勤めているのだが、学びたい観点は自分の身の回りの仕事に関連することが書いてあるのであまり広くない特定の世界になっているかもしれない。

1.長期的な権力とリーダーシップを取る
 <例えば大企業の経営者になるということ>

 長期政権を維持した漢の国王として劉邦は美徳をもって語られている(日本での典型は徳川家康)。人のいうことに耳を傾け、つまらぬプライドは捨て、キャラクターとして人に愛されて人間的であるためにたくさんの人間に助けてあげようと気持ちを起こさせる。人間的に強い態度を常に出し続けるというタイプではなく時には弱音をはき、逃げ出すこともあるのだが自分が大きな袋であるということを自分に言い聞かせていたのではないだろうか? 結果、様々な才能がそのもとに集まり、張良のような最高のブレーンと韓信のような最強の部隊に支えられて天下を取った。寛容で人の欲というものをよく理解した褒賞を行うことによりその後も政権を確保し続けたのだと思う。大会社の経営者になるためには劉邦のスタイルは意識と態度の点で大きく参考にされるだろう。しかし劉邦のように生きる努力をするということに意味があるか? それはNOだと思うのだ。出会った人々に対して劉邦のような意識を持ち態度を取ることは意味があるだろうが、天下を取ったことは結果であり劉邦のような人間はきっとたくさんいてこのように生きれば天下が取れるということではないように思えるのである。

 僕は大企業でなくても良いが会社の経営をやることを目標に会社生活を営んでいる。成功したトップの例として劉邦の意識と態度を頭の片隅におきながら違うリーダーシップのスタイルを複数取る努力を続けて生きていきたいのである。

2.危機的状況を乗り切り成功に導く
 <例えば事業リーダーとして前面に立って奇跡的な成功を導くこと>

 危機を乗り切る場合や飛躍的な成功をする状況では卓越した能力と爆発的な情熱により周囲を従わせることが必要となる。このような状況では項羽のように自らが前面に立って率先垂範するスタイルが必要となる。この人についていれば必ず勝てるのだ、という感をいだかせる個としての強烈なパワーを持っている。人を愛し(親しい人だけではあるが)、愛される魅力的な人物だったに違いない。

 時として比較的短期的に危機を乗り切らなければならない状況がある。とんでもないトラブルを解決させて修復しなければいけない場合やとても間に合わないと思えるスケジュールで仕事をやり遂げなければならない場合。こういう時は僕は恐らく項羽のようなリーダーをイメージして行動しているかもしれない。自分が先頭に立つ。ゴールとやり方を示す。メンバーにそれを必ず遂行させる。必ずしも良いスタイルではないのだが必要な場合があるのだ。困るのはこういう場面での僕を見てそういう人間だと思われることが多いことだ。そうでもないんですよ、ほんとに。 

3.戦略により強大な組織を成長させる
 <例えば長期戦略を持ち経営企画として組織経営を助けるということ>

 登場人物の中でやはり人気が高いのが張良なのではないだろうか? 司馬遷の見た絵姿より察せられるといわれる美少女のような容貌と病弱な体と史上最高の軍師であったことのアンバランスも確かに魅力的である。始皇帝を暗殺しようとした若い頃の情熱と激しさを秘めながら常に劉邦に良策を与える。どちらかというと机上の戦略家であった張良に劉邦は全面的な指揮権を与えるために張良は本領を発揮する。張良の凄さは長期的に色んな状況におけるストラテジストであったことである。戦局だけではなく政治においても戦略を持ち漢帝国を長期的に支えた。
  范増 は楚においてどうであったか。范増もやはり深い智謀の持ち主であり楚のブレーンであった。しかし張良とは違い才能を自分の未来に活かすのではなく、蓄えた才能を若い項羽に与えた老練なアドバイザーだったのだと思う。
 
 20代や30代前半までは僕は間違いなくこういう生き方に憧れていた。三国志では諸葛孔明が一番好きだったし、企画とか戦略という言葉は今でも好きだ。天才的なブレーンよりも大きな勢力を持つリーダー志向にどこかで生き方が変わったみたいだ。范増の年になったらまた戻るのかもしれないなあ。

4.思いを達成するために自己実現にこだわる
 <例えば思想と知恵を持ってソリューションやアーキテクチャーを提供するということ>

 自分の才能を買ってくれる人であればその才能を活かしたいというタイプで智謀に富んだ人物の一人は陳平だ。 張良とともに劉邦軍の計略を支えた。蒯通は韓信という最強の将軍を材料にして自分の描く覇者のイメージを具現化しようとした。候公もまた自分の能力を買ってくれる主を求めて劉邦に仕え項羽との戦いにおける重要な解決策を示した。彼らの共通点は自分の主を題材とした自己実現であった。そして彼らの主は彼らの策をよく取り入れたのである。

 会社に勤める僕にとって会社が自己実現の題材であるという点はまったく同じだ。また会社の持つ能力や資産を利用してお客様に解決策や思いを提案するという点も近いかもしれない。一点違うとすれば彼らは人を題材としてそれを行い、その人が王になることを望んだが僕が題材としているのはあくまでも企業組織であるという点である。

5.完璧なスタッフ・ワークによって組織機能を支える
 <例えば企業運営に必要な機能を淡々とやり遂げるということ>

 企業に必ず必要な人間で有能でなければならない。蕭何はもの静かで分析的で淡々と事務をこなし難局にも表情を動かさない人物を想像させる。漢軍の勝利の影には必ず蕭何の法令とロジスティックスと人事があった。韓信を採用し一時逃亡したのを引き止めたのも蕭何であった。

 残念ながら僕にはこの資質が0のように思える。 蕭何のような人物を探すばかりである。

6.ストーリーを持って相手を説得し組織を救う
 <例えばTopに対して短時間で解決策を説得できる営業やコンサルタントであるということ>
 
 春秋戦国の時代の流れをくむ縦横家は皆そうだったのだろう。理論と情熱をもって人を説き伏せる。売ることにより利益を求めるのではなく説得すること自体に生きがいを求めるという点を除けばセールスに近い。れき食其は劉邦軍において外交上何度か難しい説得を引き受け、最後は斉王に対する説得に成功するが戦略上の手違いにより煮られる。そのことに何の後悔も無かっただろう。隋何は虫も殺さぬ婦人的な性格を持ちながら項羽軍の大勢力であった英布の寝返りを説得して成功する。これをやるにあたって隋何が死を覚悟していたことを張良は気づき劉邦に教えるのである。二人とも儒者であったことは形式主義がこの頃の縦横家のスタイルを支えていたのではないか。

 エレベーター・ピッチという言葉があるが極めて短期間に大きなディールが成立する場合がある。時宜を得て完璧なシナリオを語ることに命をかけることは一つの生き方かもしれない。必ずしも真実でなくてもその場における完全なるシナリオの説得。騙されたとしてもそれが気持ちのいい種類の説得なのである。スピードを要する仕事には必要と思う。


7.目的を達成するために大きな権力を持つ
 <例えばプロジェクト・マネージャとして大きな組織権力を持つということ>

  一番好きな登場人物である韓信のことを書く。純粋に軍事と言うものを仕事と捉えて仕事における情熱において成功した人物である。その目的を達するために必然的に大きな勢力を持つことになり主である劉邦もの疑惑を生じさせ殺されかけることになる。権力を持ちたいと思って仕事をしたのではなく、仕事を成功させるために権力を必要としたところが大好きなのである。項羽に評価されずに劉邦軍の蕭何の面接を受けたときの話は紹介した。純粋な自信を元に押し出しの強いところがスタートとして大切だと思っている。その後歴戦において勝ち続けて漢軍の中央機構に関して顧ることなく諸国を自分の領域とするのである。その勢力は劉邦はもちろんのこと項羽や秦帝国をも凌ぐことになる。その後どうするというのは大きな疑問を投げかけるのだがここまでの影響力を持って敵からは恐れられ、味方から畏怖の念を起こさせるリーダーというのは僕はやはり憧れている。成功した後の立ち回りがもう少しだけうまければ漢成立後にも生き残ることができたであろう。
 誰につくべきかを考えずに同じように純粋に仕事に専念した天才が章邯であり、韓信と同じタイプのリーダーと思っている。人望も高い。趙高 の中央政治に関してはわかっていながら仕事に集中するためにわかろうとしない努力をした。秦帝国が存続するという確信があって戦っていたかというとおそらく違うだろう。
 さて李斯はどうだっただろうか? 彼は政治を意識して身を立てて秦の重職についたが趙高の政治計略にはまり失敗をした。仕事そのものに対する執着はなかったであろう。

 僕はプロジェクト・マネージャとして仕事をしている時に韓信のように生きたいと思う。自分の仕事を成功させるためにより大きな勢力を得て、より大きな権力を持ち続ける努力をするのだ。 自分の属する会社や組織が長期的に成功をするかどうかを計算して選択をしたい。章邯は自分を犠牲にしたのだが現代社会人の生き方として僕はそれはしたくない。それでは最大の勢力を得た後にどうすべきなのか? 韓信は自分を排除しようとする漢政府の動きが読めなかった。政治的センスのある部下を持ち耳を傾けるべきであったろう。自分のキャパシティぎりぎりの勢力をもったところで生き方を変えて別のタイプのリーダーシップを取ることができればベストなのではないだろうか。

8.バランス良く第3勢力として生き延びる
 <例えば関連会社の社長として影響力を与え続けるステークホルダーであるということ>

 彭越は半漁半盗の親分であり地方において勢力を持ち続けた。劉邦についたが常に微妙なバランスを取り続けて正規軍と一線を画してのらりくらりとした戦闘を展開する。劉邦は一大勢力を敵にするわけにいかず疎な協業関係を結んで楚に対するのだ。広大な領土と地位を与えられた彭越は楚を滅ぼすにあたっての重要な役割を担う。
 韓信にも第3勢力の要素があった。しかしこちらは純粋な軍事家が大きな勢力を持ちすぎたためにそうせざるを得なかったのではないか。
 彭越も韓信も後に劉邦の妻呂后の政略により殺されることになる。

 最近、この生き方をとてもおもしろく感じることがある。会社の内外を問わず多かれ少なかれ派閥が存在して時に反目する場合がある。その時にどちらも正しくないと思えるのであればある勢力を確保してバランス良く泳ぐ行き方をしばらくはせざるを得ない。勢力を維持することが必須である。またいつまでもこの状態を保つのは極めて困難であることは歴史も示している。

(完)

金曜日, 1月 26, 2007

仕事、冬の時代に学んだこと

 どんな状況でも楽しみながら仕事をしているのですごく脳天気な人間と思われているが、そんな僕にとって仕事、冬の時代というべき時期があった。会社の仕事のことで泣いたことなどほとんどないのだがこの時は悔しくて涙が止まらなかった。やせ我慢する方なのでもちろん人前で泣くわけではないのだが、人知れず何時間も号泣した経験の一つ。

 僕がぎりぎり20代の頃、まとまった仕事を任される機会があった。ある地方銀行のお客様で情報システムを構築する仕事。そのお客様は某メーカーのシステムを使い続けていて、うちの会社のシステムを初めて採用した新規顧客だ。こういうお客様はITに関する文化が違い理解いただくのに苦労するものだ。僕は構築提案から入った。うちの会社の価値を享受いただきコスト的にも見合うのはパッケージ開発しかない。いくつかの同業態のパッケージ化を検討した。この経験は初めてではなかったのでいくつかの評価観点を設けて比較を行った。結果、西南方面の銀行のパッケージが最適と思い提案した。提案は受け入れられ、僕はそのままプロジェクト・マネージャ(PM)をやることになった。やりがいのある仕事だと思った。

 しばらく横浜の自宅から出張形式で仕事をしていたが、現場監督であるPMが現場にいなければ仕事にならない、と家族を連れて地方都市に転勤した。

 プロジェクト計画を作った。期間は2年と3ヶ月。要員は平均約20名。完璧な計画ができたと思った。ただしそれをお客様が理解していただければ。僕は若くて未熟であった。パッケージの修正率を抑えることとプロジェクト工程の精緻さに気が入って、お客様のシステムに対する想いと業務を理解していなかったのだ。
 
 お客様のカウンター・パートの人はOさんといって僕より一回り上の年齢の凄まじい人だった。その感情的なことと思い込みが激しく非条理なところはお客様の組織の中でも特異な存在のようだった。僕の業務理解不足と経験不足はすぐにOさんにはわかったに違いない。日々の攻防が始まった。何しろ人格を否定するような責め方をするのだ。しかも政治的にいやらしい感じではなくすごく純心な人で思ったことをそのまま口に出すタイプの人なのだ。僕にもくだらないプライドがあり、言い続けられることは精神的に耐えられなかった。

 肉体的にも極限状態となった。Oさんの要望を満たすことが信頼を得る必要条件であったため、優先順位の低いことでも彼のためにやらなければならなかったのだ。この考えが間違いと気付くのは随分後のことだったが、その時はいたしかたなかった。普通の日の睡眠を3~4時間にして土日の両方を出ても彼の要望には追いつかない。その状況が数ヶ月続いた。

 僕は少しずつ精神的に肉体的に参っていった。

 計画は少しずつ遅れていった。表面上は遅れずに品質上遅れていったのだ。Oさんにそれを理解してもらおうと努力した。しかし彼はまったく僕を相手にしなかった。そして予定通りにプロジェクトが進んでいるという自信を持ち続けた。彼もまた経験が無かったということは後からは理解できた。

 プロジェクト・メンバー全員にアンケートを出した。何が問題か?何をすれば解決できるか?いい意見をたくさんもらった(手書きでもらったその紙は今でも机の中にある)。しかし実行に移せることは少なかった。そして僕とOさんとの関係を見てメンバーの心も僕から離れていった。僕はお客様からも自分のメンバーからも孤立していった。

 次に僕は会社に訴えた。僕は任されていたために管理されることがなく、状況の報告を要求されなかったことも禍したのだ。自分の上司に訴えた。このままでは絶対に期日どおりの開発ができないこと。Oさんを替えるように会社として働きかけるべきであること。そうすれば成功すると思えること。本当はそれが本質ではなかったことにも気付かなかったのだ。その頃に上司だった人はとても優秀なシステム・アーキテクトでどちらかというと政治的な切った張ったは苦手な人だった。Oさんはこの人のこともなめきっていたし、この人もお客様に働きかけることはできなかった。また会社からははもっと切羽詰まったプロジェクトがありこれはまだましな方だと言われて有効な対応を取ることはできなかった。

 とうとう破局がやってきた。稼動予定日の3ヶ月前のことだ。当時お客様のIT部長であり役員である人は人格者で僕はいろいろな相談をしていたのだが、Oさんを飛び越えて話すのを避けたのに加えて精神的に参り始めてからはあまりこの人にも真実を伝えられないでいた。諸々の報告結果からこの人がプロジェクトの状況を「危機的な状況にある」と判断したのだ。もちろん正しかった。開発の遅れと機器手配の遅れにより予定通りの稼動は不可能、というものだが本質はそんなものではなくプロジェクト管理が破綻していていたからなのだ。それもこの人は理解していた。僕の会社に対する大きな激しいクレームが届けられた。
 
 すべての見直しがなされた。体制的には簡単に言うとOさんはお客様の組織内でリーダーから外され、僕は自分の会社の中で外された。お客様のPMは副部長クラスのYさんとなり、自分の会社のPMは大ベテランのHさんとなった。(Hさんは昨年会社を辞められたがその直前に話をする機会があり、本人はそのつもりだったのでプロジェクト・マネージメントはどうあるべきだということを紙にまとめて手渡してくれた。)
 僕もOさんも逃げるわけにはいかない。そのままプロジェクト内にアドバイザーという名目で残されたが失敗したリーダーとして辛い立場となった。その他にも採算を度外視して要員を投入し新体制によるプロジェクト計画の見直しの後にスケジュールは約半年の遅延となった。

 僕は一時すごい虚無感にとらわれた。今まで一生懸命やってきたことは何だったのだろう。自分が立てた計画は何の意味があったのだろう。もはや僕はリーダーでも何でもなくこの何年かやってきたことは何の価値もなかったというのか。
 でも逃げてはいけないと思った。どんなことにも耐えて最後までやろう。プロジェクトが終わってシステム開発が完了するまで。

 幸いなことにHさんも同時に参加したサブリーダー格の同期のMも、またお客様もプロジェクトとして協調路線となりその後のプロジェクトを何とか進めることができた。最後は会社側の1リーダーとして稼動の儀式に参加させてもらった。この6ヶ月は何も考えずに、「逃げない」ということだけを自分に言い聞かせた。

 すべてが終わり、僕は転勤先から東京の本社に戻ることになった。この頃は戻る時期も既にわかっていたので家族は子供の幼稚園の都合で先に横浜に戻っていた。荷物をすべてダンボールに詰めて部屋に山積みにして明日は引越しという最後の晩だった。仕事を終えて家に帰り布団だけ残して最後の箱詰めを行った。

 そしてダンボールの山に囲まれながら、部屋に座り込むと僕はここに来て初めて泣いたのだ。
 「僕は負けたのだ。負けてこの地を去るのだ。仕事に失敗し僕を信頼した会社の期待に応えられなかったのだ。僕について来た人々を不幸にしたのだ。」
と思うと悔しくて涙が止まらなかった。大声をあげて泣いた。眠れもしなかった。目の前に積まれたダンボールの山を見ながら何時間も泣いた。

 ここでの仕事は僕にとって大きな意味を持つことになった。プロジェクトの失敗経験はもちろん大きな教訓となった。それに加えて大きく学んだことは2つあった。

 人との仕事上のやり取りに関してどんなに厳しくても激怒されても、あの時のOさんに比べるとまだましだと思うと精神的に耐えられるようになったのが一つ。そういう意味でOさんには妙に感謝している。

 どんな状況でも絶対に逃げない、ということに関してが二つ目だ。仕事に対して精神的に信じる拠り所があれば、立場がどうであれ逃げない自信がついた。次に同じような状況になっても決して逃げないだろう。

 比較的長く辛い時期を過ごしたこの頃は、僕にとって仕事冬の時代であった。身につけたことをバネにして新しい仕事に臨んでいるつもりである。
 それからの仕事も成功ばかりではないが自分の精神面を強くした経験としてこの冬の時代に身に付けたことが役に立っている気がするのである。  

土曜日, 1月 20, 2007

茶道体験

 ほぼ毎年、年初に自分のプランを立てる。仕事のこと、音楽のこと、生活のこと、健康のこと、成長のこと。お茶をやってみたいと思ったのは今から3年前の2004年の年初だった。

 なぜそう思ったのかをはっきり説明できないのだが、上の子供とやっていた剣道(前の年に2段を取得、これについてはまた別途)をやめてしばらくたったころで次のように考えていた。
 日本人のアイデンティティを持つために日本の文化を理解できることをやってみたい。他国の人に日本人が何であるかを説明できるものを僕は持っていないのではないか?

 高校1年生の時に僕は京都の宇治市にいて東宇治高校(宇治のブラバン時代参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/05/blog-post_18.html)というところに通っていた。担任の先生が体育の先生でサッカー部顧問のK先生といったが、彼はスポーツをやりながらお茶をやっていた。何でこんな男の先生がお茶なんて、と思いながらも「ちょっとかっこええなあ」と思っていた。

 母がずっとお茶をやっていた。茶室での母など見たこともないし興味もなかったが、本棚にはお茶の本、大事にしているお茶の道具を時々持ち出して稽古に行くのを覚えている。母は膝を悪くしてから本格的にお茶をやるのはやめてしまったが不審庵(表千家)の教授で今でもカルチャー・センターで聾唖者の方に教えているとのこと。

 そんなようなこともあってお茶をやってみたいと思ったのだとおもうが、その年は仕事上の大きなトラブルとその後の大きな契約とプロジェクト・スタートがあり何もできずその後お茶をやる機会を失っていた。そんな時に仕事仲間でお茶を習っているかつきちが気楽に教えてくれる先生なので来てみないかと誘ってくれたため、それなら是非と行くことにしたのだ。

 本当に何も知らないのも失礼かと思い、入門書を買って読む。言葉だけでも覚えようかと。昨年の11月に初めてお稽古に参加。一から教えていただき身の引きしまる思いだ。剣道でもそうだが作法や型を一生懸命に覚えるというのはそれだけでも心が磨かれるような気がするものだ。本日2回目の会に行く。今日は新年会だったのでいつもとは違う趣でありくだけた感じで楽しかった。

 立ち振る舞いを覚えるのと精神的な落ち着きを身につけるためにもやってみて価値のあるものと思った。続けてみよう。

 母のところに行きお茶を始めてみることにしたことを言うと驚いていた。基本的なことを教えてくれ、というといくつか教えてくれた。茶碗、楊枝、服紗、茶巾、お懐紙などを僕に譲ってくれた。

 しばらく続けてみたいと思う。以下は先生や母から教わったことの備忘録である。本当は体で覚えないといけないのだと思うが何しろ覚えが悪いため書かないと忘れてしまうので書くことにする。書くこと自体がお茶をやっている方にとっては邪道と思うのだがご容赦いただきたい。覚えたことを順次追加・修正していくが 流派によっても違うし、まったくの初心者なので理解も浅いためあくまでも僕にとってのメモとなっている。間違いも多いので教わりしだいわかった部分は直していくが参照するのは危険と思うのでこの点もご了承いただきたい。

(以下割愛)

日曜日, 1月 14, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その2)


 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。前回はまた音楽をやり直してみようと思ってからバンド活動を再開し、ピアノを弾くことを諦められずにまた弾き始めたことを書いた(社会人になってからのバンド活動を想う(その1)参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/01/blog-post.html)。それからのこと、つまりこの10年ぐらいを書いてみたい。 (一部mixi仲間に関してはハンドル・ネームを使わせてもらっているのでご容赦ください)

 社会人になって最初に再開したバンドは学生時代の気の知れた仲間を集めた「ほくそ笑みブラザーズ」というバンドだったがボーカルのE嬢が旦那のN(テナーサックス)の仕事でアメリカに行ってしまった。E嬢なき後の「ほくそ笑みブラザーズ」の話。
 その時(1997年)に仕事で担当していたお客様の接待中にお客様の業務部長(当時次長だったか?)のカラオケ、大都会を聞いてこれは!と思いバンドやりませんか、とモーションをかける。とてもいい人でこの後しばらくやることになったのがS田さんだ。歌もうまいし落ち着いていてステージ映えもするボーカリスト。まずはポップス曲、ロック曲を16ビートにアレンジしてやった。Time after time とか Honky Tonk Womanとか。 メンバーはベースが当時「ゆめゆめJail」というバンドでやっていたS、ドラムスが「まつ」関連で紹介してもらったTK大のE沢くん、オリジナル・メンバーのギター・コジロウ、キーボードH。それからコーラスにTの奥さんの友達のYちゃん。一時期はやはりその頃の僕のお客様関連で知り合ったAさんというボーカルが入っていた時もあった。ホーンセクションは死神ホーンセクションと呼んでいてオリジナル・メンバーのアルト・サックスK、テナー・サックスY(通称死神博士),バリトン・サックス・えんたく(特技「女」)。

 しばらくするとビートルズの曲を集めて16ビート・アレンジでやるようになった。メンバーはほぼ同じ。Elinor Rigby、Drive my car、Sgt. Pepper's lonely hearts club band、Lovely Rita など。 ビートルズは僕がPOPSを聴くきっかけになった音楽だ(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。対バンでライブをやった。この頃から自分のやりたい音楽をテーマを決めて一つずつやっていこうと思い始めた。

  ビートルズの次が「We need Miles」バンド。Miles Davisは僕がJazzをやり始めた理由でありやり続けている理由でもあるミュージシャンだ。Electric Milesに挑戦! 「ほくそ笑みブラザーズ」の対バンで知り合った「まごごろの家」というバンドがあった。宗教団体でも介護施設でもなくTR大のOBと現役のバンド。リーダーでドラムスのMは最高にファンキーな男だった。このバンドのメンバーに声をかける。「まごころの家」からドラムスがM、ギターがN、キーボードがA、ベースがM、トロンボーンがF。「ほくそ笑みブラザーズ」系からアルト・サックスK、テナー・サックスY,バリトン・サックスえんたく、キーボードH。
 ライブでやった曲は今から思うととてもチャレンジでTutu, U and I、One phone call などはいいとしてライブでやっていたStar Peopleからの曲を中心としたメドレーや何と Jack Johnson のダイジェスト再現までやった。ご法度のような気もするが演奏はかなり面白いものになった。ブレークのパターンをいくつか作ってテンション溢れたライブとなった。 六本木First Stage(http://www2.odn.ne.jp/firststage/)にて。1998年ごろ。

 次は「e-Hancockバンド」Herbie HancockのElectricアルバムから。と言ってもだいぶ後期だが。メンバーはMilesバンドとほぼ同じだがベースがTR大現役のSくん、キーボードに対バンで知り合ったKさん、ボーカルに「ほくそ笑みブラザーズ」のS田さんとやはり仕事で知り合ってすでに一緒に流しのバンド活動をやっていたM嬢、ドラムスは後述のParadise Go Go!関連で知り合ったUさん、「まごころの家」のMくんはパーカッションで。曲はFeetsよりYou bet your love、SunlightよりI thought it was、Dis is da drumから一曲、Tell me a bed time story など。1999年だと思ったがやはりFirst StageでのライブとTR大の学園祭で演奏させてもらった。この頃は「まごころの家」の関係で毎年のようにTR大の学園祭で演奏していた。知らない現役の人は僕のことをOBだと思っていたかもしれない。

 そして「I wish!」。言うまでもなくStevie Wonderのカバー・バンドだ。Key of Life 全曲やるぞ~!と立ち上げた。全曲はできなかったがそれでもまるまる2ステージのレパートリーを持っていた。ボーカルはS田さん、コーラスにYちゃん率いるBagus,パーカッションに「ゆめゆめJail」つながりのO戸くん。後はほくそ笑み系でギター・コジロウ、アルトサックスK、トロンボーンF、バリトンサックスえんたく、ベースS、キーボードがHと僕。2回ライブをやった。まあまあ安定した演奏で良いライブができた。

 M嬢との流しのバンド活動に関して。M嬢はジャズ・ボーカルを勉強中であったがとても活動的で上野アリエスなどで定期的にライブをやっていた。1998年頃から「First Friday Orchestra」というバンドを結成した。メンバーはM嬢、ベースSと僕がコアでトランペット&パーカッションAO(学生時代Foul Playersで共演、「まつ」関連バンドでのつきあい)、テナーサックスえんたく(このところずっとやっている、特技は「女」)が入れれば入る。

 First Friday の由来について。当時新宿に「まあチキン」というスナックがあってココットさんというママがいた。何故この店に出入りするようになったかというと、「ほくそ笑みブラザーズ」のリハの後で居酒屋で打ち上げをやっていると隣のオジサン・オバサンのグループが盛り上がって歌を歌いだした。それもなかなか本格的。意気投合して一緒に歌っているうちにそのうちの一人であるココットさんの店で合同演奏会をやることになったのだ。ココットさんは若い頃ほとんどプロとして活動してきたボーカルの人でほんとにうまかった。後はクラシック・ピアニストのOさん(女性)。男性も何人かいて会社員だが昔はかなり鳴らした感じのシャンソン・ボーカリストだった。合同演奏会自体は僕が先走りすぎて一部のオジサン・オバサンに反感を買いはらはらしたが、最後は何とか気持ちを通じることができた。そして月1でこの店でライブをやらせていただくことになったのである。第1金曜日の夜と決めたのでFirst Friday Orchestra。
 仕事のある平日なので余程うまくスケジュールする必要があったが1年以上無欠勤でライブ活動を続けた。曲はすべてJazzスタンダードの歌もの。歌伴は今まであまりやっていなかったのと曲数も広げなければいけなかったため勉強になった。終わった後はそのままお店で飲んで夜中になるとセッション風に演奏をし続けた。とても楽しい思い出となった。

 M嬢とはJazz以外にもソウル系の曲をとりあげてやったことがある。「Soul Edition」というバンドでドラムスがAO、ギターがT、ベースがS。対バンのライブを2回ぐらいやったと思う。
 この頃、会社の同じ部門にI村とRという人がいた。I村は同じキーボードでParadise go go!(同名のアイドルバンドとは別) という息の長いバンドをやっている陽気な男。Rはヨーデルの世界では名が知れていると自分で言っておりバイオリンも弾ける生まれつきのエンタテーナーだった。この頃からI村の企画でライブ・イベントをやるようになった。またRも司会、バイオリン等でイベントに参加した。「Soul Edition」でもI村企画の対バンのイベントでRを入れてステージをやった。AOとRと僕でヨーデル風アカペラに挑戦したがこれは失笑を買った。

 2002年にE嬢が日本に戻ってきた。さっそくバンドを再開することにした。Jazzスタンダードのボーカル・バンドを始めた。 ドラムスはAO、ベースはKonceptのK、アルトサックスK、テナーサックスえんたく(後に脱退)、トロンボーンFでずいぶん長いことやっている。年に3~4回ライブをコンスタントにやるようにしているためだいぶバンドとしての余裕ができてきた。E嬢がMCで場を盛り上げてくれるから助かる。定例的にやっているのは学生時代からの付き合いでH大学出身テナーサックスのTの経営している「なってるハウス」。「まつ」のイベントにも不定期で出演している。

 2003年にボーカル,コーラスのYちゃんからTower of Powerのカバー・バンドをやらないかと誘われる。TOPのオルガン・パート弾けるなんて、それだけで嬉しかったのですぐに加入。Revive Brainというとてもレベルの高いバンドですごく勉強と刺激になった。リード・ボーカルは関西系でD大出身のKちゃん。共通の知人も何人かいた。コーラス&パーカッションは同じく関西系のKやん。金融マンとは思えぬファンキーさ。コーラスはYちゃんとAちゃんの二人(Yちゃんは後に脱退)。ドラムスは会社員もやりながらプレイヤーとプロデューサーを両立させているEさん。すごいバイタリティーと思う。ベースはIくんで付き合いやすいキャラですごい努力家だ。ギターがEarth Wind & Fighters(知る人ぞ知るEW&Fのカバー・バンド)のギタリストで最高の音楽性と寛容な人間性を持つすばらしい人だった。ホーン・セクションがすごい。楽器を職業でやっている人が中心でペットのコージさん、ボントロのチーズさん、テナーサックスのノムヲさん、トランペットのTDLさんに加えてアルトサックスのK(D大、ほくそ笑み関連)。TOPのホーン・パートを毎回ほとんど一発で合わせていた。高田馬場でのイベントを皮切りにFriday、Thums upなど横浜中心にライブを数回やった。惜しくも解散してしまったがすばらしいメンバーだった。

 解散に前後してコージさんに声をかけられてMaynerd Fergusonを追求されるバンドに参加する。演奏レベルが高くて音楽や楽器にかける情熱がすばらしい人ばかりで、ピアノは僕なんかでいいのだろうかと感じるぐらい。その名もMF Tributeバンド(http://www7.plala.or.jp/tp/mf/)。トランペットはリーダーのMFパートのコージさん以下、トップのカルロス、Magnum、マネージャのYoshiさんで全員が素晴らしいプレイヤーだ。ボントロは熱いプレーのスティーブとRevive Brainでも一緒だったチーズ。スティーブが出張中にKさんがトラの時期があった。アルトサックスにKさんとテナーサックスのノムヲさん。ノムヲさんと僕は寸暇を惜しんで酒を飲む習性が似ている。リズムセクションはプロでやっているベースのsato-hiroくんとRevive BrainのドラムスのEさん。このリズム・セクションでのスリリングな展開が最近とても楽しみになっている。  昨年の横浜のLaf & Stingでのファースト・ライブをスタートにBフラットでの対バン、DugホールでのMF追悼ライブ(会場マネージャは以前ほくそ笑みでやってもらってたトランペットのKさん)。Maynerd Ferguson氏は2006年8月23日に亡くなった。このバンドは実は9月に氏が来日する際にクリニックを受け前座をやる予定だった!氏の急な逝去にはバンド一同本当に悲しんだ。  トランペッターのエリック宮城さんにバンドとしてクリニックを受けた時は本当に勉強になった。やはりプロの音楽力の深さはもの凄い。かつ辛抱強く教えていただきエリックさん人間の深さを感じた。先の追悼ライブでは何曲か共演していただいた。
 Magnumの依頼で実力派で本格的な活動をしている藤沢SJS(喇叭ヲタクさんリーダー)のイベントに参加させてもらった。大きなホールでプロ・トランペッターの田中哲也氏と共演しとても気持ちよかった。K大時代の同期でK大フルバンのバンマスだったTと再会。
 このMF Tributeというバンドは本当に僕のピアノなどでは不足なのだがみんな暖かく受け入れてくれるので何とかやっている。これからもライブ活動を続けていくだろう。

  この何年か仕事で千葉氏の外房線鎌取という駅の近辺に住んでいるのだが地元でのささやかな音楽活動ということでAnchor Down(http://www.age.ac/~tomas/i/pagebar_anchor.shtml)というバーで月一回のライブを行っている。もう2年近くになる。当初はベースのKさんが入っていたが仕事が忙しくなり(東京から平日移動しなければならない),今はパーカションのO戸くんと二人でやっている。

 そして最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げた。始めたばかりなのでまだどうなるかわからないのだが、ソウルフルなボーカル・バンドをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 自分を表現すること、音楽を通じて人と会話できてお互いを高め合えること、そして素晴らしい仲間と知り合えること! バンド活動により音楽を続けていくことによりいくつになっても豊かな人生を歩んでいきたいと想うのだ。

火曜日, 1月 02, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その1)


 最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げることにした。大人のゆったりしたそれでいてパワフルなソウルをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。ただし全部書くとすごく長くなると思うので最初の10年ぐらいを忘れないうちに書いてみる。

 学生時代にはかなり真面目に音楽をやっていたが(「学生時代の音楽活動を想う」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)、大学を卒業して会社に入った時は中途半端に音楽をやるのがいやでもうバンド活動はやめようと思っていた。学生時代に書き溜めていたコピー・ノート(ジャズの人はフレーズや曲を聞いてコピーして自分のものにする)を学生時代を過ごした京都で未練を断ち切るために燃やしてしまったぐらいだ。
 今までと180度違う会社の世界で何とか生き抜こうと必死だった頃大きな事故にあって(「バイク・リベンジ!」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_116251630224272367.html)長い期間、入院をしたのが音楽を再開するきっかけとなった。2度目の入院の時だった。ベッドの上で僕は無性に曲が書きたくなったのだ。家の人に5線紙を買ってきてもらって楽器もないのにベッドの上で曲を書いた。メロディもコードもすぐに頭に浮かんだ。歌なんか歌えないのに歌詞も作った。それでまたバンドをやることにしたのだ。

 学生時代の仲間に声をかけた。ボーカルのE嬢、テナー・サックスのN(E嬢の夫)、キーボードの後輩のH、ギターのTだ。E嬢、N、Tとは学生時代に同じバンドで知った仲だ。Hは同業なので同じバンドでは無いが最もよく遊んだ後輩で信頼できるプレイヤー。ホーン・セクションでもう一人、Hと同期のD大の有名なビッグバンドのコンマスであったKがアルトサックスで参加してくれた。ドラムはD大出身で当時から活躍していたスタジオ・ミュージシャンのSが手伝ってくれることになった。
 キーボードのHに参加してもらったのは、もう僕はピアノはちゃんと弾けないだろうと思っていたからだ。作曲に徹してバンドではベース・ラインをキーボードで弾こうと思いベーシスト無しでスタートした。
 バンド名は「ほくそ笑みブラザーズ」。Hと僕の二人のキーボーディストのコラボレーション・イメージだ。だいたいピアニストとかキーボーディストとか言うのはアレンジをやったりバンド全体を見なければいけない場合が多く、またギタリストみたいにすかっとさわやかではないので、いつも演奏しながらほくそ笑んでいることが多いのだ。それで 「ほくそ笑みブラザーズ」。  曲は僕が先に書き溜めたものから始めてHも素晴らしい曲をこのバンドのために書いてくれた。リズムにはシークエンサーを使った。ドラムスはこれを補足する形で入ってもらったので難しかったと思う。その後、ベースのI(学生時代にChicのコピー等をやったバンドで一緒)を入れて僕も半分ピアノを弾いた。結成して1年ぐらいで恵比寿でライブを行った。ちょうど僕が結婚する少し前のことだ。
 スタジオでレコーディングを行った。僕のオリジナルとHのオリジナルとDee Dee BridgewaterのBad for meの3曲。最後にライブをやったのはE嬢とNがアメリカに行く前の1996年だった。この時はしばらくこのバンドで演奏ができないことがわかっていたので気合が入っており、ビデオが残っているが結構気に入ってる。この頃はホーン・セクションに何名か加わっていた。テナー・サックスにK大後輩のY(通称死神博士)、ペットに今Dag(楽器屋)でマネージャのような仕事をしているKさん、ボントロにD大出身のT。ドラムスがSから変わってK大の先輩のTさん。この人も素晴らしい。当時「いたち」という京都で有名なバンドのドラマーだった尊敬の先輩だ。
 このバンドはその後も不定期にずっと続き今でも休止状態だが解散していない。

 その次にやったバンドはフルバンドでギル・エバンス・オーケストラの曲をHがすべてコピー・アレンジしてやったGEバンド。本当にHはすごい。耳もセンスも抜群である。Hは主にコンマスに徹していて僕がピアノを弾いた。曲はLiberty City、Eleven、Gone gone goneなど。藤沢のClajaでライブをやったのとK大学のフルバン(現役、OB)が集まって横浜でフルバン大会をやった。この頃(1995年?)僕はもう一度トロンボーンをやる気になり(高校のブラバン以来、「音楽との出会い」参照)大学の後輩からCornの楽器を安く譲ってもらって練習を始めていた。GEバンドではボントロも吹いた。

 同じ頃、ボントロでコンボをやりたい、と思い始めドラムのAO(Foul Playersというバンドで学生時代いっしょにやった)から「まつ」というJazzサークル(?http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/index.html)を紹介してもらった。AOもドラマーだがここのところトランペットを本気でやっていて一緒にコンボ・バンドに入れてもらうことになった。リーダーはベースのKさんでバンド名はKoncept。Kさんは理論派ベーシストで(生活はあまり理論派ではないようだが)、この後も長くバンド活動をやることになる。フロントはAOがペット、テナーサックスがE(K大学の名物男、特技は「女」。これもまた後で紹介しないと...)、ボントロが僕。リズム・セクションがピアノがK原さん、ドラムスがO村さん。 スタンダードから始めてモードやKさんのオリジナル等をやった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1998/bonen.html)。

 調子に乗ってボントロで「まつ」メンバーで結成されている「まつビッグバンド」に参加させてもらう。ギターのセミプロでS崎さんという方が譜面提供、コンマス、指導をしてくれていた。この人は性格的にもとても素晴らしい人で丁寧な譜面を書いていただき僕みたいなボントロでも使ってくれて、とても楽しかった。

 さらにホーン・セクションをやりたくてベースのI(学生時代にDEWというバンドで一緒)がやっている「FB’s」に入れてもらう。池袋のYAMAHAでリハと飲み。とても新鮮だった。ギターはD大出身のA、ドラムスはスタジオ・ミュージシャンのS、アルト・サックスは「ほくそ笑み」でも一緒のK。ボーカルはYAMAHAの先生で女性の名前は忘れてしまったのだが、本格的にやっているいい感じの人だった。しばらく続けたが僕がボントロからピアノに戻りつつあったために脱退した。

 「まつ」関連が続く。「まつ」の催しでコンボで演奏することに。今度はピアノで。メンバーはKonceptからテナーのE、ドラムスのO村さん、ベースのKさん。ところが本番直前になってあろうことかO村さんが亡くなってしまったのだ。ショックだった。若いのに。ドラム無しの弔いライブとなった。荏原文化センターというところで力いっぱい弾いた(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/njf/index.html)。曲はKさんのオリジナル。

 さらに「まつ」イベントで例年新宿ピットインを借り切って忘年会ライブをやるのだが長年やりたいと思っていたKeith Jarrettのアメリカン・カルテットの曲を2曲やった。The Richという曲とShadeという曲。テナー・サックスは学生時代からのつきあいのT(なってるハウス店長)、E(特技「女」)、ベースはKonceptのKさん、ドラムスはDちゃん。みんな超強力で僕のやったコンボの中で最高の経験の一つとなった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1999/bonen3.html)。

 ともかく大きな事故がきっかけでまた音楽をやり直してみようと思った。ピアノを弾くことなんて諦めていたのだけれど、バンド活動を始めているうちにやはりどうしても弾きたくなった。ここから先の後半の10年は自分がやりたかった音楽をひとつずつ、少しずつ進めていくことになった。音楽は僕のアイデンティティーの一つだということがやっとわかったのだ。

ありがとう、音楽! ありがとう、いっしょにやってくれた皆さん!
 

金曜日, 12月 01, 2006

保土ヶ谷駅乱闘事件を振り返る

 自分で思うのだが僕はどちらかというと我慢強い方だ。たいがいのことには、ぐっと我慢できるつもりでいる。ただ限度を超して嫌なことをされるとどこかでスイッチが入ってしまうようなのだ。

 総武線グリーン車ケンカ未遂事件(http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_11.html)を前に書いたが、電車での同じような事件があった。総武線事件に先立つこと10数年前で僕がまだ20代だったころだ。

 そのオジサンは新橋から乗ってきた。時間は22時ぐらい。僕は会社での仕事を終えて東京駅から横須賀線に乗り自宅の保土ヶ谷に向かっていた。座席は空いていなかったのでドアのそばに立っていた。オジサンは普通のサラリーマン風なのだがどこかでひっかけてきていてベロンベロンになっていた。ネクタイなんかもだらんとしているしワイシャツもズボンからはみ出ている。僕の立っている近くのてすりにようやくつかまり何とか立っているといった状況。前後左右に揺れっぱなしだ。

「ああ、ずいぶん飲んじまってるなあ」
と思いつつ、こちらも疲れているので目をつぶる。
 しばらくして話しかけてきた。

「にいちゃん、あんたまだ若いからわからないだろうけどなあ、、」
「はい?」
「会社ってえのはたいへんなんだぞ。」
「はあ。」
「みんな気楽に考えやがって。」
「・・・」
「こっちの苦労も考えろ、っていうんだ。」

 困ったな。からみ上戸かな。まあ、しょうがない。適当に相手でもするか。

「たいへんですね。」
「何がたいへんだってんだ。まったくわかってねえくせに。」
「・・・」
「まだ世の中のことわかってないだろ?」
「ええ、そうかもしれませんが。」
「そうだろう、そうだろう。」
「はあ。」

 車両かえるのも悔しいから、このままシカトを決め込むか。本でも読もう。僕はカバンから持っていた文庫本を取り出して読み始める。オジサンからは少し体の角度をずらす。

 オジサンはしつこい。まだ色々言ってくる。何か余程いやな事でもあってストレスがたまっているのに違いない。時々、つりかわに全体重をかけてブランとなりながら意識を失い、また復活すると話し出す。

 新橋から乗ってきてずいぶん時間が経つ。このオジサン、どこで降りるんだろう。早く降りて欲しいのだが。

 新川崎を過ぎた。まだ何やら言っている。
 横浜を過ぎた。
「聴いてるのか?にいちゃん。」
「・・・」
「何、かっこつけて本なんか読んでるんだよ。」

 酔っ払いなのでしょうがないと紳士な対応をしていた積もりなのだが裏目に出た。我慢しすぎてスイッチが入ってしまったのだ。
(殺そう,次の駅でひきずり降ろして殺すしかない。)
 自分の心の中に殺意が芽生えたのを感じた。

 保土ヶ谷駅についた。僕はおもむろにオジサンのよれよれになったネクタイを左手で掴んで
「降りろや。」
 とドアからひきずり降ろす。そのままホームに押し倒した。車両に残った人は、驚いてこちらを見ている。押し倒したところで、もう十分だ。酔っ払っているからしばらくホームに寝てるだろう。

 僕は走ると怪しいので何も無かったように早歩きで改札への階段に向かう。まったく不愉快な30分だったな。

 ここで誤算があった。
 オジサンは意外にもすぐ復活して僕が階段を上りきったころで後ろから大声で追いかけてきたのである。もう言葉にもならないことをワーワー言いながら走ってくる。
 どうしよう?
 ここで走って逃げると何かこちらが悪いみたいではないか?
 まあ押し倒しているのだから悪いのだが。早歩きを続ける。改札の近くで追いつかれてもみ合いになった。  

 オジサンは殴ろうとしてかかってくる。こちらは飲んでもいないので、楽に避けられるのだが、オジサンは転びそうになりながら怒鳴りながらさらにかかってくる。こちらは避ける。たちまちあたりは帰宅してきた乗客で人だかりとなった。人だかりに囲まれながらこれを続けると駅員が止めにはいった。
「どうしたっていうんですか?」
他の駅員が警察も呼んだようだ。パトカーが駅に到着する。警官が駅の階段を上ってやってくる。そしてオジサンと僕は駅の事務所に連れて行かれた。

 被害者を装うしかない。事情聴取を受ける。カッコ内は本心。

警官「どうしたんんですか、何があったか話しなさい」
僕「それがひどいんですよ。このオジサンがずっと絡んできて。(うそじゃないよなあ、もともと被害者なんだし)」
警官「ケンカじゃないのか?」
僕「一方的に因縁つけられて追いかけてくるわけですよ。(引きずりおろしたのは僕か)」
警官「殴られたりはしてないのか?」
僕「ええ、だいじょうぶです。(というか先に手出したのはこっちだよなあ)」

 この間オジサンは泥酔の上にハアハア息切れして言葉も出ない。

 結局、警察も駅員一同も僕に同情票を集め、
「わかりました、お帰りください。たいへんでしたね。」
 という話になった。

 「そうですか、まったく迷惑な話です。」
と善人ぶって僕は帰路についた。後ろを振り向くと例のオジサンは警官に羽交い絞めにされてパトカーに乗せられた。署で尋問を受けるのであろう。 まったく自業自得だよね。僕もその日は何も考えずに眠りについた。

 さて翌日の朝。冷静に考えてみると。。。

 確かに言葉の暴力は受けたが物理的にはこちらが手を出しているわけだし、それが知れればやばいかもしれないな。だいたいどこに住んでる人かもわからないし、関係ない保土ヶ谷で降りたということがわかれば不自然だ。オジサンが警察で事実を言えばこちらにお咎めがあるはずだ。

 僕は不安になってきた。
 すると、電話のベルがなった。

「保土ヶ谷警察ですが。昨日の保土ヶ谷駅での騒ぎに関連した○○さん(僕)ですね?」

 き、来た~!!

「お聞きしたいことがあるので署まで出頭いただけませんか?」

 や、やっぱり~!!

 僕は覚悟して署まで出向いた。刑法詳しくないけどちょっとした軽犯罪ぐらいにはなるかもしれんなあ。

 署に行くと巡査風の人に取調室のようなところに連れて行かれた。僕は覚悟をして巡査の言葉を待つ。すると巡査はこう言った。

巡査「昨日はたいへんでしたね。昨日暴力を振るおうとしていた人は保土ヶ谷の△△に住んでいる方で、昨日は事情聴取にも答えられない状況でしたが今朝電話がありました。」
僕「なるほど。」
巡査「それで昨日のことをとても反省しているようです。あなたも不愉快だったと思うのですが許してあげていただけますか? もしよろしければこの書類に署名をお願いします。」

 た、助かった~!!!!

 オジサンはまったく記憶を失っているらしい。しかもたまたま保土ヶ谷駅が最寄の人だったのだ。僕は顔がほころぶのを抑え眉間にしわを寄せて答えた。

僕「まあ、反省しているならしょうがないですね。私も迷惑を蒙りましたが、実害もないので結構です。」
巡査「そうですか。ご足労いただいてありがとうございました。」
僕「いえいえお仕事お疲れ様です。」
 などと言いながら早々に事情調査の合意書のようなものに署名をし、内心は命からがら一刻も早くと思いつつ署を立ち去ったのだ。

 大事に至らずに本当に良かった!

 さて僕はこの事件で、ある反省をして以後気をつけるようにしている。

A.同じ手を出すのであれば立ち上がれなくなるほどボコボコにするべし。
B.どうせなら警察署でもっとつけあがって慰謝料でも請求すれば良かった。
C.正直に言わないと良心の呵責があるのでこれからは何事も正直に報告しよう。
D.どれでもない。( その場合の反省点:                      )

さてそれは上のどれでしょう?

土曜日, 11月 25, 2006

入社式ってどこ?と言っていた頃

 当時同期で入社した中で親しい人にはよくこう言われる。 「○○(僕)が真っ先に辞めると思っていたのに本当に意外だよな。」  こう言う彼を含めてたくさんの人間が転職したり中には起業したりしているのだ。

 僕自身、会社に入った頃は自分が企業なんかでやっていける人間とは思っていなかった。学生時代は音楽しかやっていなかったし、常識も社会性も自信ない。とにかく必死でついていかないと、と思っていた。必死の方向がやや人と異なってはいた訳だけれど。

 1985年3月31日。明日は入社式であり僕は社会人としての一歩を踏み出すことになる。その日は学生時代最後の日であった。僕は旅に出ていてた。今日中に東京の叔母の家(家を見つけるまでしばらく間借りすることになっていた)に戻り、明日から会社通勤だ。
 旅行の道中何度と無く思う。明日はいよいよ入社式だなあ、気分を入れ替えてがんばらなけりゃ!、と。そこで気がついた。 「待てよ。入社式ってどこでやるんだろう。何時に。」

 まあ、そんなような人間だったのだ。気持ちはひきしまっていたつもりなのだが前日までそんな確認もせず旅行に出ているだなんて。もちろん会社からの通知は来ていただろう。寮に住んでいたので郵便物を僕がちゃんと受け取らなかったかどこかに紛れてしまったのだろう。

 入社式は当然、本社でやるものと思っていたし時間も9:00からだろう、と漠然と考えていたのだがよく考えると大きな会社だからどこか別の会場かもしれないし、初日はもっと早く集合するかもしれないではないか。  誰かに聞かなくちゃ。だがあいにく今日は日曜日なのである。会社は休み。困ったな、と。とりあえず9:00に本社に行ってみる?それから誰かに聞けば何とかなる? いやいや全然違う場所だったら大遅刻だ。何しろ東京って広いからなあ。

 会社の代表電話番号にかけてみることにした。録音メッセージが流れる。その中で緊急の場合は何番と言っている。その番号にかける。警備の人らしき人が出た。明日の入社式のことですけど、と聞いてもちょっとわかりません、との答え。そりゃそうだろう。僕は言った。 「それでは申し訳ありませんがどなたでも結構なんで会社にいる社員の方に回していただけませんか?」  警備の人も明日からの新入社員なのでまあムゲに電話を切るようなこともなく、何とか休日出勤をしているどこかの部門の人につないでくれたのだ。その人に尋ねる。 「今年入社するものなのですが、実は明日の入社式の場所と時間がわからないのです。教えていただくわけにいかないでしょうか?」

 その人も困ってしまったようだった。そりゃそうだろう。大きな会社なので人事関連の仕事でもしていない限りその年の入社式がどこか、なんて知ったことか。ところがその人は困っている僕を哀れに思い、社内の情報を調べてくれると言うのだ。 「ありがとうございます!」  僕は叔母の電話番号を伝えて電話が鳴るのを待つ。小一時間して電話が鳴った。その人が教えてくれた。やはり入社式は某ホテルの会場で時間は9:00。助かった~!
 入社式に来れなくてクビになったら洒落にならんもんな~。

 入社して配属された部門の新人オリエンテーションでこの話をしたら、新人の中では結構受けたのだがオリエンテーションが終わってからその部門の新人を預かる課長はこそっと僕を呼んでこう言った。
「○○、お前はもう少し個性を隠さないと会社ではやっていけんな。」

 その頃は経済状況も会社の業績も今より余裕があったのと、特に僕の配属された部門が社内の技術部門でそういう意味ではゆったりしていた。新入社員研修は期間として1年3ヶ月もあって最初は自習書をひたすら読まされた。僕は僕なりにこのように考えていた。会社に来ているのだから会社で本を読むなんてもったいない。会社にいる時はできるだけ先輩と話をして仕事のことや会社のことを少しでも知る努力をしよう。それから夜は会社の人と飲みに行こう。本を読んで勉強するのは家に帰ってからでもできるのだから。

 実際にそのように行動していると毎日色々な人と飲み会をやることになり、金を使う使う、新人の薄給の身分をわきまえず使うものだからクレジット・カードの借金が毎月毎月積もっていった。やっと返せたのは冬のボーナスだったかな。

 僕は酒が好きだし、まあたくさん飲む方だ。強いかというとそうでもなく、翌日は二日酔いの時も多い。ある二日酔いの午前中にもう起きていられなくて最近覚えた会議室の予約を行い、同期の新人をドアの入り口近くの席に見張りとしてすわらせて会議室で寝ていたこともある。

 まあビジネス・マナーなんて常識は普通考えればわかることも身に付けていない。ある日などは朝時間がなくてひげを剃らずに家を出て、通勤の途中で缶コーラを買い、会社に入って自分の席に座り、まずタバコを一服。灰皿は会社にあるのだが面倒なのでコーラの空き缶へ。あげくの果てに自席でおもむろに電気シェーバーを取り出しそのままグイーン・グイーンとひげを剃り始めた。  僕のことを色々世話を見てくれていて夜も付き合ってくれる先輩のKさんが、これにはさすが驚いて、
「○○、○○、ちょっと来い!」
と僕を人のいないところに引っ張って
「いいか、○○、まずタバコを吸う時は灰皿を使え。ひげは剃って来い。もし会社で剃らざるを得ないんだったらトイレに行ってやれ。」  と、もう幼稚園児みたいなことを注意してもらったのだ。
 このK先輩が後に会社でソフトウェア製品を担当していた時にお世話になった。あのヤンチャ坊主が会社で何とかなってるなんて、と思ってるに違いない。

 それでも要領がいいので研修の成績はまずまず。課題を自主的にやるような研修の時は早めにそこそこのレベルで終えてしまって似たようなタイプの新人と抜け出て喫茶店にさぼりに行く。気持ちは一生懸命の積もりなのだが、やってることは学生以下だったように思う。
 そのツケはすぐにやってきた。やはり社会人としてまともな感覚を持っている同期の人にはとてもかなわず、研修の成績もどんどん落ちていく。僕が本当に世の中の厳しさを身にしみるのは研修期間に希望を出して社内技術部門から現場に異動し、初めてのお客様を担当した頃だ(初めてのお客様に学んだこと参照)。

 それでも必死にくいついたので、何とか今もこの会社で仕事をしているという訳だ。

 入社した時の同じ部門の同期というのはずいぶん長く付き合いが続くものだ。  頭の回転の早いOは転職した後に自分の会社を起業、今はフリーのWebデザイナーをやっている。皆にからかわれてJohn呼ばれていた男も実は優秀で転職を繰り返して外資系日本法人の社長をやったりしている。OやJohnとは時々会って話すが世界が違ってとても面白い。英語が完璧だったKはストレージ会社に転職。どうしているだろう。当時から優秀だったSや入社した時からしっかりしたビジネスマンだったIは同じ会社の重鎮として重要な仕事をしている。女性のSさんもエンジニアとして最重要なお客様のプロジェクト最前線にいる。今でも助け合える仲間達だ。

 という訳で入社当時は社会人としてまったく自信が無かった僕も何とか社会で生きていくに必要なことを身に付けた。偉そうに新入社員の面倒も見る。 「入社式ってどこでやるんだろう?」というのは秘密。でもないか。時々話している。というか現に今も書いてるし。

 もちろん今でもヤンチャな面は残っているようだ。ちょっとワイルドで型破り、そういうマネージャでありたいと思っている。

金曜日, 11月 24, 2006

父のこと

 僕にも純真な頃があって小学校2年生までサンタクロースを信じていた。大阪の枚方市に住んでいて家には小さな庭があった。その冬に僕はサンタクロースにお願いをしたのだ。

「鉄棒欲しい!」って。

 クリスマスの朝が来た。僕は正直、小学校の校庭にあるような本当の鉄棒がもしかしたら本当に来るのではないか、と考えていたのだ。どうやって来るのだろう。トラックに乗って?

 母が言う。「○○(僕)、良かったわね。鉄棒が来たよ。」

 その鉄棒は庭に出現していた。庭にあった2本の木を利用して鉄パイプを枝にひっかけてロープと布で固定した不恰好なものだった。それで僕は父が鉄棒を作ったことを知ったのだ。昨日僕が寝てから必死で作ったに違いない。

 小さい頃の父の記憶は不思議と海なのだ。海水浴で父の背中に乗って冷たい海を泳ぐ。一人にさせられて不安に思った頃に水の中から父が顔を出す。その時の父の若い頃の顔を僕は今でも思い出すことができる。

 小学校高学年の頃だ。父と父の仕事の仲間と尾瀬に行った。歩いた、歩いた。板で渡された湿原の道を。いっしょにいた人の顔も何人かは覚えているのだ。もう一度父と行ってみたいと思っていたのに。

 父は公務員でダムや水路の建設や管理の仕事をしていた。父の仕事場には中学の頃よく連れて行かれた。ダムを制御する中央パネルがあって水深や水圧を知らせるのだ。台風があって水量が増すと夜中でも父は車で仕事に出て対応をしていた。人の命に関わる仕事なのだ、と言っていた。

 僕は長い間、父に反発していた。どうしても尊敬できない期間が何年もあったのだ。それは僕が音楽をやりたいと思っていた時期だ。芸術大学に行きたかった僕と父は毎日のように議論をした。父は有名大学でないと大学でないと思っているように思えた。僕が最後に折れたのは父の次の言葉によるものだ。
「○○、たとえばプロのラグビーの選手になるとしてもW大(私立)やK大(私立)を出て有名選手になった方がかっこいいだろう?」
それで僕は勉強をして普通の大学に行って、それから音楽をやろうと決めたのだ。

 これは僕なりの反抗だった。父の視野が狭く見えたし、学歴を重んじるステレオタイプな考え方が嫌だったのだ。それで父の卒業した大学に入った。

                ・・・・・・  
 
 父と次に話し合えたのは大学の3回生の時だ。当時両親は名古屋にいて僕は帰省した時に初めて父と飲んだのだ。栄町の寿司屋で会計の時に学生時代の僕にはとんでもなく高額だったので父に悪いなと思ったのを覚えている。その時の父は家庭での父とは違う側面を持っていた。僕の知らない側面だ。僕はそう感じたことを言った。父は「そりゃそうだよ。」と答えた。

 父を本当に理解したのは僕が会社に入って仕事をしてみてからだ。やっとわかったのだ。普通に働くだけで十分たいへんなのだということが。父はもうリタイアしたが、つい最近まで会社の顧問をしていた。僕は父の年になってそのように働けるか今でも自信が無いのだ。

 父は5年前に大きな病気にかかって倒れたのだが、幸いなことに大事に至らず何とか母に支えられて普通の生活をすることができるようになった。記憶や感覚は以前と比べると衰えたと本人も言っている。

 僕は父に対してまだまだ腹を割って話せていないのだ。感謝しているとか、こういう点が好きだとか、嫌いだとか。この間、名古屋で初めて飲んだ話をしてみた。彼は忘れていた。僕は色々なことを自分の心の中に閉じ込めていたことを後悔した。

 父に言ってみよう。鉄棒のこと、反発していたこと、尊敬していたこと、感謝していたこと。素直に言ってみよう。「お父さん、ありがとう!」って。尾瀬にもまた行けるかもしれないね。