土曜日, 9月 22, 2012

JALインフォテックの日々


 先日9月19日、日本航空が見事に再上場を果たした。公的資金3500億円を国民負担無く返却し史上まれに見る短期間で黒字化を成し遂げたことは喜ばしいことだ。極限状態にあった企業がこうも急激に変わることができたのは稲森和夫さんという卓越した外からの経営者による徹底した経営哲学の啓蒙があったのは勿論だが、甘えを捨てた社員の一丸となった努力と忍耐の継続あるいは犠牲によるものが大きいのだろう。

 昨年の6月まで4年3ヶ月という期間、JALインフォテック(JIT)というIBMとJALとの出資会社にいて出向役員を務めた。何もできなかった、という気持ちが残っている。もう離れて1年以上になりようやく振り返ることができるようになった。

 僕が参加したのはIBMが51%の出資をしていた10年のうちの7年目からの約4年間でありJALがこの会社の株を買い戻すことで幕を引いた。会社のDNAとしては明らかにJALのものを持っていたJITにIBMのプロセスと文化を融合させようとした10年間であったが、特に意識という面で最後まで成功に辿りつけなかった。

 出向した当初のことを思い出す。本当に自分で務まるのかという思いがよぎって通勤定期を買うかどうかを迷った。もちろん買ったのだが。しばらく空席になっていた企画ポジションで入ったのだが、現場ではどうも招かれざる客である雰囲気は間違いなかった。会議では僕の座る席の隣は必ず空いていた。
 JALから出向していた人はIBM出資時代が終わることを望んでいるのは明らかで露骨な発言もあり辛い思いをしたことも何度かあった。目に見えない対立と微妙なバランスの時代が続き(恐らくその前からずっとだったのだろう)、もちろん色々なことが前に進んでいるのだが会社としては少しずつ無理をしながら協調して経営をしていた。
 企画のポジションからもう少し大きな事業組織のラインのポジションに変わった。自分を理解してもらうことの不足により応援してくれる人も少ないため、そのポジションにいることが精一杯だった。やりにくかったのは僕にとっての本社であるIBMのやり方がこの会社の実情と乖離していたことだ。IBMの会社なので当然ながら同じ方針に従うと考えるIBMと現場中心には自分の子会社である意識を変えないJAL。この状況はJITの現場にも当然伝わり、バランスの取りにくさの一因となっていた。

 僕にとってこの会社がやっと一体感を持ち始めたと感じたのは皮肉なことにJALが会社更生法を適用した2010年の1月頃からだ。本当に甘えを捨てて何とかしなければ、と気持ちが全社に浸透し動き出したのは最終局面であるこの時期のような気がする。社長や役員の交代もあり雰囲気が変わったことも大きい。サバイバル・タスクという一連の改革活動を実施した。それは需要促進でありコスト削減でありお客様との一体化であり組織変革と人材育成であった。初めて現場と一体となってこれらを企画し実行し、成果は徐々に現れてきた。
 さらに一体感が強まり社内の議論や活動、お客様との連携が活性化したのはJALがこの会社の株を買い取ることが合意されJIT社員に通知された2011年1月だった。6月30日をもってIBMとの資本関係は解消ということになり方向性が明確になった。本当に会社というものがどう変化するのかというのは面白い。全社の事業部を超えた協業も盛んになされるようになった。
 6月のゴールを迎えるためにはたいへんなことが多かった。4月の四半期の初には6月30日までの営業日を数えた。後何日で終わるという意識は後何日しかないという意識にすぐ変わった。濃密な時が流れていた。

 僕にとってはこの最後の1年半が一番楽しかったという記憶が残っている。この最後の時期のプロパー社員のラインの皆さんやJALとIBMからのボードメンバーは僕にとって決して忘れることがないだろう。

 JALとIBMによる出資会社でアプリケーション保守というサービス領域で国内最大の規模の仕事ができたことは大きな経験となった。また会社役員としての経験は必ずこの先の仕事に活かすことができるだろうと思う。 

(写真は2011年6月にJITに最後に出社した日の朝にオフィスの近くで)