金曜日, 12月 01, 2006

保土ヶ谷駅乱闘事件を振り返る

 自分で思うのだが僕はどちらかというと我慢強い方だ。たいがいのことには、ぐっと我慢できるつもりでいる。ただ限度を超して嫌なことをされるとどこかでスイッチが入ってしまうようなのだ。

 総武線グリーン車ケンカ未遂事件(http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_11.html)を前に書いたが、電車での同じような事件があった。総武線事件に先立つこと10数年前で僕がまだ20代だったころだ。

 そのオジサンは新橋から乗ってきた。時間は22時ぐらい。僕は会社での仕事を終えて東京駅から横須賀線に乗り自宅の保土ヶ谷に向かっていた。座席は空いていなかったのでドアのそばに立っていた。オジサンは普通のサラリーマン風なのだがどこかでひっかけてきていてベロンベロンになっていた。ネクタイなんかもだらんとしているしワイシャツもズボンからはみ出ている。僕の立っている近くのてすりにようやくつかまり何とか立っているといった状況。前後左右に揺れっぱなしだ。

「ああ、ずいぶん飲んじまってるなあ」
と思いつつ、こちらも疲れているので目をつぶる。
 しばらくして話しかけてきた。

「にいちゃん、あんたまだ若いからわからないだろうけどなあ、、」
「はい?」
「会社ってえのはたいへんなんだぞ。」
「はあ。」
「みんな気楽に考えやがって。」
「・・・」
「こっちの苦労も考えろ、っていうんだ。」

 困ったな。からみ上戸かな。まあ、しょうがない。適当に相手でもするか。

「たいへんですね。」
「何がたいへんだってんだ。まったくわかってねえくせに。」
「・・・」
「まだ世の中のことわかってないだろ?」
「ええ、そうかもしれませんが。」
「そうだろう、そうだろう。」
「はあ。」

 車両かえるのも悔しいから、このままシカトを決め込むか。本でも読もう。僕はカバンから持っていた文庫本を取り出して読み始める。オジサンからは少し体の角度をずらす。

 オジサンはしつこい。まだ色々言ってくる。何か余程いやな事でもあってストレスがたまっているのに違いない。時々、つりかわに全体重をかけてブランとなりながら意識を失い、また復活すると話し出す。

 新橋から乗ってきてずいぶん時間が経つ。このオジサン、どこで降りるんだろう。早く降りて欲しいのだが。

 新川崎を過ぎた。まだ何やら言っている。
 横浜を過ぎた。
「聴いてるのか?にいちゃん。」
「・・・」
「何、かっこつけて本なんか読んでるんだよ。」

 酔っ払いなのでしょうがないと紳士な対応をしていた積もりなのだが裏目に出た。我慢しすぎてスイッチが入ってしまったのだ。
(殺そう,次の駅でひきずり降ろして殺すしかない。)
 自分の心の中に殺意が芽生えたのを感じた。

 保土ヶ谷駅についた。僕はおもむろにオジサンのよれよれになったネクタイを左手で掴んで
「降りろや。」
 とドアからひきずり降ろす。そのままホームに押し倒した。車両に残った人は、驚いてこちらを見ている。押し倒したところで、もう十分だ。酔っ払っているからしばらくホームに寝てるだろう。

 僕は走ると怪しいので何も無かったように早歩きで改札への階段に向かう。まったく不愉快な30分だったな。

 ここで誤算があった。
 オジサンは意外にもすぐ復活して僕が階段を上りきったころで後ろから大声で追いかけてきたのである。もう言葉にもならないことをワーワー言いながら走ってくる。
 どうしよう?
 ここで走って逃げると何かこちらが悪いみたいではないか?
 まあ押し倒しているのだから悪いのだが。早歩きを続ける。改札の近くで追いつかれてもみ合いになった。  

 オジサンは殴ろうとしてかかってくる。こちらは飲んでもいないので、楽に避けられるのだが、オジサンは転びそうになりながら怒鳴りながらさらにかかってくる。こちらは避ける。たちまちあたりは帰宅してきた乗客で人だかりとなった。人だかりに囲まれながらこれを続けると駅員が止めにはいった。
「どうしたっていうんですか?」
他の駅員が警察も呼んだようだ。パトカーが駅に到着する。警官が駅の階段を上ってやってくる。そしてオジサンと僕は駅の事務所に連れて行かれた。

 被害者を装うしかない。事情聴取を受ける。カッコ内は本心。

警官「どうしたんんですか、何があったか話しなさい」
僕「それがひどいんですよ。このオジサンがずっと絡んできて。(うそじゃないよなあ、もともと被害者なんだし)」
警官「ケンカじゃないのか?」
僕「一方的に因縁つけられて追いかけてくるわけですよ。(引きずりおろしたのは僕か)」
警官「殴られたりはしてないのか?」
僕「ええ、だいじょうぶです。(というか先に手出したのはこっちだよなあ)」

 この間オジサンは泥酔の上にハアハア息切れして言葉も出ない。

 結局、警察も駅員一同も僕に同情票を集め、
「わかりました、お帰りください。たいへんでしたね。」
 という話になった。

 「そうですか、まったく迷惑な話です。」
と善人ぶって僕は帰路についた。後ろを振り向くと例のオジサンは警官に羽交い絞めにされてパトカーに乗せられた。署で尋問を受けるのであろう。 まったく自業自得だよね。僕もその日は何も考えずに眠りについた。

 さて翌日の朝。冷静に考えてみると。。。

 確かに言葉の暴力は受けたが物理的にはこちらが手を出しているわけだし、それが知れればやばいかもしれないな。だいたいどこに住んでる人かもわからないし、関係ない保土ヶ谷で降りたということがわかれば不自然だ。オジサンが警察で事実を言えばこちらにお咎めがあるはずだ。

 僕は不安になってきた。
 すると、電話のベルがなった。

「保土ヶ谷警察ですが。昨日の保土ヶ谷駅での騒ぎに関連した○○さん(僕)ですね?」

 き、来た~!!

「お聞きしたいことがあるので署まで出頭いただけませんか?」

 や、やっぱり~!!

 僕は覚悟して署まで出向いた。刑法詳しくないけどちょっとした軽犯罪ぐらいにはなるかもしれんなあ。

 署に行くと巡査風の人に取調室のようなところに連れて行かれた。僕は覚悟をして巡査の言葉を待つ。すると巡査はこう言った。

巡査「昨日はたいへんでしたね。昨日暴力を振るおうとしていた人は保土ヶ谷の△△に住んでいる方で、昨日は事情聴取にも答えられない状況でしたが今朝電話がありました。」
僕「なるほど。」
巡査「それで昨日のことをとても反省しているようです。あなたも不愉快だったと思うのですが許してあげていただけますか? もしよろしければこの書類に署名をお願いします。」

 た、助かった~!!!!

 オジサンはまったく記憶を失っているらしい。しかもたまたま保土ヶ谷駅が最寄の人だったのだ。僕は顔がほころぶのを抑え眉間にしわを寄せて答えた。

僕「まあ、反省しているならしょうがないですね。私も迷惑を蒙りましたが、実害もないので結構です。」
巡査「そうですか。ご足労いただいてありがとうございました。」
僕「いえいえお仕事お疲れ様です。」
 などと言いながら早々に事情調査の合意書のようなものに署名をし、内心は命からがら一刻も早くと思いつつ署を立ち去ったのだ。

 大事に至らずに本当に良かった!

 さて僕はこの事件で、ある反省をして以後気をつけるようにしている。

A.同じ手を出すのであれば立ち上がれなくなるほどボコボコにするべし。
B.どうせなら警察署でもっとつけあがって慰謝料でも請求すれば良かった。
C.正直に言わないと良心の呵責があるのでこれからは何事も正直に報告しよう。
D.どれでもない。( その場合の反省点:                      )

さてそれは上のどれでしょう?

土曜日, 11月 25, 2006

入社式ってどこ?と言っていた頃

 当時同期で入社した中で親しい人にはよくこう言われる。 「○○(僕)が真っ先に辞めると思っていたのに本当に意外だよな。」  こう言う彼を含めてたくさんの人間が転職したり中には起業したりしているのだ。

 僕自身、会社に入った頃は自分が企業なんかでやっていける人間とは思っていなかった。学生時代は音楽しかやっていなかったし、常識も社会性も自信ない。とにかく必死でついていかないと、と思っていた。必死の方向がやや人と異なってはいた訳だけれど。

 1985年3月31日。明日は入社式であり僕は社会人としての一歩を踏み出すことになる。その日は学生時代最後の日であった。僕は旅に出ていてた。今日中に東京の叔母の家(家を見つけるまでしばらく間借りすることになっていた)に戻り、明日から会社通勤だ。
 旅行の道中何度と無く思う。明日はいよいよ入社式だなあ、気分を入れ替えてがんばらなけりゃ!、と。そこで気がついた。 「待てよ。入社式ってどこでやるんだろう。何時に。」

 まあ、そんなような人間だったのだ。気持ちはひきしまっていたつもりなのだが前日までそんな確認もせず旅行に出ているだなんて。もちろん会社からの通知は来ていただろう。寮に住んでいたので郵便物を僕がちゃんと受け取らなかったかどこかに紛れてしまったのだろう。

 入社式は当然、本社でやるものと思っていたし時間も9:00からだろう、と漠然と考えていたのだがよく考えると大きな会社だからどこか別の会場かもしれないし、初日はもっと早く集合するかもしれないではないか。  誰かに聞かなくちゃ。だがあいにく今日は日曜日なのである。会社は休み。困ったな、と。とりあえず9:00に本社に行ってみる?それから誰かに聞けば何とかなる? いやいや全然違う場所だったら大遅刻だ。何しろ東京って広いからなあ。

 会社の代表電話番号にかけてみることにした。録音メッセージが流れる。その中で緊急の場合は何番と言っている。その番号にかける。警備の人らしき人が出た。明日の入社式のことですけど、と聞いてもちょっとわかりません、との答え。そりゃそうだろう。僕は言った。 「それでは申し訳ありませんがどなたでも結構なんで会社にいる社員の方に回していただけませんか?」  警備の人も明日からの新入社員なのでまあムゲに電話を切るようなこともなく、何とか休日出勤をしているどこかの部門の人につないでくれたのだ。その人に尋ねる。 「今年入社するものなのですが、実は明日の入社式の場所と時間がわからないのです。教えていただくわけにいかないでしょうか?」

 その人も困ってしまったようだった。そりゃそうだろう。大きな会社なので人事関連の仕事でもしていない限りその年の入社式がどこか、なんて知ったことか。ところがその人は困っている僕を哀れに思い、社内の情報を調べてくれると言うのだ。 「ありがとうございます!」  僕は叔母の電話番号を伝えて電話が鳴るのを待つ。小一時間して電話が鳴った。その人が教えてくれた。やはり入社式は某ホテルの会場で時間は9:00。助かった~!
 入社式に来れなくてクビになったら洒落にならんもんな~。

 入社して配属された部門の新人オリエンテーションでこの話をしたら、新人の中では結構受けたのだがオリエンテーションが終わってからその部門の新人を預かる課長はこそっと僕を呼んでこう言った。
「○○、お前はもう少し個性を隠さないと会社ではやっていけんな。」

 その頃は経済状況も会社の業績も今より余裕があったのと、特に僕の配属された部門が社内の技術部門でそういう意味ではゆったりしていた。新入社員研修は期間として1年3ヶ月もあって最初は自習書をひたすら読まされた。僕は僕なりにこのように考えていた。会社に来ているのだから会社で本を読むなんてもったいない。会社にいる時はできるだけ先輩と話をして仕事のことや会社のことを少しでも知る努力をしよう。それから夜は会社の人と飲みに行こう。本を読んで勉強するのは家に帰ってからでもできるのだから。

 実際にそのように行動していると毎日色々な人と飲み会をやることになり、金を使う使う、新人の薄給の身分をわきまえず使うものだからクレジット・カードの借金が毎月毎月積もっていった。やっと返せたのは冬のボーナスだったかな。

 僕は酒が好きだし、まあたくさん飲む方だ。強いかというとそうでもなく、翌日は二日酔いの時も多い。ある二日酔いの午前中にもう起きていられなくて最近覚えた会議室の予約を行い、同期の新人をドアの入り口近くの席に見張りとしてすわらせて会議室で寝ていたこともある。

 まあビジネス・マナーなんて常識は普通考えればわかることも身に付けていない。ある日などは朝時間がなくてひげを剃らずに家を出て、通勤の途中で缶コーラを買い、会社に入って自分の席に座り、まずタバコを一服。灰皿は会社にあるのだが面倒なのでコーラの空き缶へ。あげくの果てに自席でおもむろに電気シェーバーを取り出しそのままグイーン・グイーンとひげを剃り始めた。  僕のことを色々世話を見てくれていて夜も付き合ってくれる先輩のKさんが、これにはさすが驚いて、
「○○、○○、ちょっと来い!」
と僕を人のいないところに引っ張って
「いいか、○○、まずタバコを吸う時は灰皿を使え。ひげは剃って来い。もし会社で剃らざるを得ないんだったらトイレに行ってやれ。」  と、もう幼稚園児みたいなことを注意してもらったのだ。
 このK先輩が後に会社でソフトウェア製品を担当していた時にお世話になった。あのヤンチャ坊主が会社で何とかなってるなんて、と思ってるに違いない。

 それでも要領がいいので研修の成績はまずまず。課題を自主的にやるような研修の時は早めにそこそこのレベルで終えてしまって似たようなタイプの新人と抜け出て喫茶店にさぼりに行く。気持ちは一生懸命の積もりなのだが、やってることは学生以下だったように思う。
 そのツケはすぐにやってきた。やはり社会人としてまともな感覚を持っている同期の人にはとてもかなわず、研修の成績もどんどん落ちていく。僕が本当に世の中の厳しさを身にしみるのは研修期間に希望を出して社内技術部門から現場に異動し、初めてのお客様を担当した頃だ(初めてのお客様に学んだこと参照)。

 それでも必死にくいついたので、何とか今もこの会社で仕事をしているという訳だ。

 入社した時の同じ部門の同期というのはずいぶん長く付き合いが続くものだ。  頭の回転の早いOは転職した後に自分の会社を起業、今はフリーのWebデザイナーをやっている。皆にからかわれてJohn呼ばれていた男も実は優秀で転職を繰り返して外資系日本法人の社長をやったりしている。OやJohnとは時々会って話すが世界が違ってとても面白い。英語が完璧だったKはストレージ会社に転職。どうしているだろう。当時から優秀だったSや入社した時からしっかりしたビジネスマンだったIは同じ会社の重鎮として重要な仕事をしている。女性のSさんもエンジニアとして最重要なお客様のプロジェクト最前線にいる。今でも助け合える仲間達だ。

 という訳で入社当時は社会人としてまったく自信が無かった僕も何とか社会で生きていくに必要なことを身に付けた。偉そうに新入社員の面倒も見る。 「入社式ってどこでやるんだろう?」というのは秘密。でもないか。時々話している。というか現に今も書いてるし。

 もちろん今でもヤンチャな面は残っているようだ。ちょっとワイルドで型破り、そういうマネージャでありたいと思っている。

金曜日, 11月 24, 2006

父のこと

 僕にも純真な頃があって小学校2年生までサンタクロースを信じていた。大阪の枚方市に住んでいて家には小さな庭があった。その冬に僕はサンタクロースにお願いをしたのだ。

「鉄棒欲しい!」って。

 クリスマスの朝が来た。僕は正直、小学校の校庭にあるような本当の鉄棒がもしかしたら本当に来るのではないか、と考えていたのだ。どうやって来るのだろう。トラックに乗って?

 母が言う。「○○(僕)、良かったわね。鉄棒が来たよ。」

 その鉄棒は庭に出現していた。庭にあった2本の木を利用して鉄パイプを枝にひっかけてロープと布で固定した不恰好なものだった。それで僕は父が鉄棒を作ったことを知ったのだ。昨日僕が寝てから必死で作ったに違いない。

 小さい頃の父の記憶は不思議と海なのだ。海水浴で父の背中に乗って冷たい海を泳ぐ。一人にさせられて不安に思った頃に水の中から父が顔を出す。その時の父の若い頃の顔を僕は今でも思い出すことができる。

 小学校高学年の頃だ。父と父の仕事の仲間と尾瀬に行った。歩いた、歩いた。板で渡された湿原の道を。いっしょにいた人の顔も何人かは覚えているのだ。もう一度父と行ってみたいと思っていたのに。

 父は公務員でダムや水路の建設や管理の仕事をしていた。父の仕事場には中学の頃よく連れて行かれた。ダムを制御する中央パネルがあって水深や水圧を知らせるのだ。台風があって水量が増すと夜中でも父は車で仕事に出て対応をしていた。人の命に関わる仕事なのだ、と言っていた。

 僕は長い間、父に反発していた。どうしても尊敬できない期間が何年もあったのだ。それは僕が音楽をやりたいと思っていた時期だ。芸術大学に行きたかった僕と父は毎日のように議論をした。父は有名大学でないと大学でないと思っているように思えた。僕が最後に折れたのは父の次の言葉によるものだ。
「○○、たとえばプロのラグビーの選手になるとしてもW大(私立)やK大(私立)を出て有名選手になった方がかっこいいだろう?」
それで僕は勉強をして普通の大学に行って、それから音楽をやろうと決めたのだ。

 これは僕なりの反抗だった。父の視野が狭く見えたし、学歴を重んじるステレオタイプな考え方が嫌だったのだ。それで父の卒業した大学に入った。

                ・・・・・・  
 
 父と次に話し合えたのは大学の3回生の時だ。当時両親は名古屋にいて僕は帰省した時に初めて父と飲んだのだ。栄町の寿司屋で会計の時に学生時代の僕にはとんでもなく高額だったので父に悪いなと思ったのを覚えている。その時の父は家庭での父とは違う側面を持っていた。僕の知らない側面だ。僕はそう感じたことを言った。父は「そりゃそうだよ。」と答えた。

 父を本当に理解したのは僕が会社に入って仕事をしてみてからだ。やっとわかったのだ。普通に働くだけで十分たいへんなのだということが。父はもうリタイアしたが、つい最近まで会社の顧問をしていた。僕は父の年になってそのように働けるか今でも自信が無いのだ。

 父は5年前に大きな病気にかかって倒れたのだが、幸いなことに大事に至らず何とか母に支えられて普通の生活をすることができるようになった。記憶や感覚は以前と比べると衰えたと本人も言っている。

 僕は父に対してまだまだ腹を割って話せていないのだ。感謝しているとか、こういう点が好きだとか、嫌いだとか。この間、名古屋で初めて飲んだ話をしてみた。彼は忘れていた。僕は色々なことを自分の心の中に閉じ込めていたことを後悔した。

 父に言ってみよう。鉄棒のこと、反発していたこと、尊敬していたこと、感謝していたこと。素直に言ってみよう。「お父さん、ありがとう!」って。尾瀬にもまた行けるかもしれないね。

水曜日, 11月 22, 2006

六本木乱闘未遂事件を振り返る

 今いっしょに僕の片腕となって仕事をしているIのことだ。Iは僕より1年下の後輩だが人間味がありお客様や仲間からも人気があり、僕も仕事やプライベートの面で教えられることが多い。彼とは彼が入社した時から何年か同じ部門だったのだが、この3年程また同じプロジェクトで仕事をしている。Iと僕が若い頃(入社3~4年目ぐらい)の話。

 バブルの頃だった。仕事も忙しかったのだが、飲みに行く時はバカみたいに飲んだりカラオケ(当時はボックスではなくパブ)で歌ったりして遊んでいた。そんなある日。

 場所は六本木交差点から東京タワー方面に少し行ったあたり。その時一緒にいたのは当時8年上の先輩だったSさん(男)、同期のK(これは女性)、I(男)、それに僕。大人数でこの近くで飲んだ後でこのグループとなり二次会の場所を探していた。Iが「このあたりの知ってる店ちょっと探してきますよ。」と軽い調子で言って少し先を歩く。Kと僕が後から。Sさんはお酒はあまり強くないのでかなり酔ってるらしく、やや千鳥足で少し後を歩いている。このSさんという人は極めて温厚で人が良すぎるぐらい良く虫をも殺さぬ優しい人だ。

 Iは鼻歌を歌いながら先を歩いている。そのさらに先に10~15人ぐらいの会社員のグループが歩いていてIは早足で一人で歩いているのでそのグループに追いついた。するとおもむろにIはそのグループの一人に後ろから蹴りを入れ始めた。
僕「あれ!I、知らない奴に蹴り入れてない?」
K「本当だ!蹴ってる、蹴ってる!」  
 蹴られた奴は当然怒り出して、「何すんだよ~!」、という感じでIと揉め出した。これはまずい!僕とKは現場に駆け寄る。悪いのは圧倒的にこちら。相手は人数も多い。非常に不利! 僕は走りながらどうしようか考えた。「しらばっくれて、逆ギレするしかない!」

 追いついてこう言った。以下カッコ内は本心。

僕「こら~!何してんだおまえら、うちの人間が何かやったとでも言うのか!(確実にやってるよなあ)」
蹴られた人「いきなり、蹴ってきやがったんだよ!」
僕「バカか。知らない奴をいきなり蹴るサラリーマンがいるか!(いるいる)」
蹴られた人の仲間が気づいて「どうしたんだ、何揉めてるんだ」
蹴られた人「こいつがいきなり蹴りやがったんだよ!」
僕「何、因縁つけてんのか、何でお前らを蹴らなきゃいけないんだよ。(いや、ホントになんで蹴ってるんだろ)」

 この時千鳥足のSさんもあわててこの場に追いついた。そしてこの虫も殺さぬSさんが、何と、
「こら、お前ら、いい加減にしろ!文句あるのか!」  
 と大声で顔を真っ赤にして怒鳴ったのだ! SさんはIが蹴りを入れている瞬間は見ていないのだ。ほんとに僕らが他のサラリーマンの集団に因縁をつけられていると勘違いしたのだ。
 僕らはそれに仰天してしまった。Sさん、いや、悪いのはこっちなんだけど。。。。

 この時に蹴られたのは一人、このサラリーマン集団の他は蹴られたところを見ていない、僕とKは知ってるが逆切れ、Sさんは知らなくて本切れ、という状況。これが幸いした。
 向こうの集団の蹴られた人以外の人が、
「そうだよなあ、いきなり蹴ってくるわけないよなあ。」
「お前の勘違いじゃないの?」
 と蹴られたことを疑い始めたのだ。蹴られた人は、もう真っ赤になってしまって、
「ホントだよ!ホントに蹴ってきやがったんだよ!」と訴える。
「もういいじゃないか、きっと勘違いだよ。」と諭されて、
「いや、ホントだ!ホントだってば!あわっ、あわあわっ。」と言葉にもならない。

 こちらはここぞとばかり「まだ、言ってんのか、このやろう!」などと追い討ちをかけるものなので、剣幕に押されて、とうとう先方が謝りはじめた。「いや、こちらの勘違いだと思うのでもうよしにしてください。」 ・・・僕らは、それではしょうがないとばかりに睨みながら頷いて立ち止まったまま、集団が歩いて行くのを見守る(たのむ!早く去ってくれ!)。

 という訳で蹴りは一方的に入れる、つまらぬ大ゲンカにはならなくて済む、口ゲンカでは勝つ。これは戦勝祝いだね、ということでその後は4人で飲み直したのだ。Sさんに真相を言うとショックだと思ったのでSさんには言わない。たぶんすごく酔っていたので記憶は無くなっていると思われる。僕らもその後なぜかこの時の話はお互いすることがなかった。

 このIと3年前に一緒に仕事をすることになって最近もよく飲んでいる。ある時、ずっと聞いてみたかったのでこう聞いてみた。
 
「I、何であの時、急に知らない奴に蹴り入れ始めたの?」

 こんな答えが返ってきた。
「その時は蹴りたい気分だったんですよ。」

百万遍ハンドル固定事件の真相

 20年も前の古い話だが、僕が当時学生のMが買った中古のジェミニを壊しその人は金に困って人生を僕に狂わされたという話が通説になっている。まあ面白い話なのでその話が出るたびに僕も否定はしていない。「そうやの~。そんなこともあったのう。」(注:学生時代を京都で過ごしていたため、この頃の仲間とは関西弁で話す)と返したりしている。だが真相はそうではないということを皆さんに(大概の方は関係ないが)知ってもらうために書いておきたい。

 確かに僕は運転にそんなに節操のある方ではない。また車の事故も起こしたことが無い訳でもない。自分で初めて買った中古の車は酒酔運転で山道の石垣にぶつけて廃車にしている。その時助手席に乗っていた後輩はフロントガラスに頭をぶつけて2秒程気を失っていた。気付いたとたんにあせったらしくこう言った。「あっ、ぶつかったんですね。どれぐらい気を失ってたんやろ?」と言うので車を壊してしまったことよりもその状況が面白かったので、「そうやの~。かれこれ2,3時間は経ったかもしれんなあ。」と言うとその後輩は真剣にあせって頭をおさえ、「ええっ、そんなに! 大丈夫やろか!」と心配していた。

 さてMの話。MはギタリストでFoul Playersというバンドで知り合った(学生時代の音楽生活を想う参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)。ある日、彼は中古のジェミニを買ってかなり嬉しかったらしく僕の寮に来て「車買うたんですよ。飲みまっしょうや。」 と言うので、その買ったばかりの緑のジェミニに乗って百万遍(京都の今出川通りと東山通りがぶつかる交差点)の居酒屋に飲みに行った。 この頃は(実はつい最近までそうだったのだが)車だろうが何だろうが際限なく飲んでいた。この日も二人でもうご機嫌になるまで飲んでいてもう時間は3時か4時ごろになっていた。

 そんな状態だったので店を出てまずその辺にあるどこかの店の看板をおもむろにかつぎ、ジェミニのトランクに入れる(当時酔っ払うと看板を取ってくる癖があり、寮の僕の部屋はネオンの看板でいっぱいだった。これもまた別途書くことにする)。そして二人でジェミニに乗り込む。どこかに行こうかという話にでもなったのか車のエンジンをかけて走り出させたのである。ドライバーはM、僕は助手席に。  3時か4時かの真夜中なので他に車はほとんどない。Mは走り出すとまもなくまっすぐの道でハンドルを右に切り始めた。Mは「ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ」というような奇声をあげている。

僕「あほ、危ないっちゅうねん、ヒッ、ヒッ、ヒッ」、
M「だいじょぶですやん、ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ」、
僕「せやから、ぶつかるっちゅうねん、ヒッ、ヒッ」、
M「かまいませんわ~、ヒャッ、ヒャッ」
僕「あかんっちゅうに、ヒッ、ヒッ」、、、、
 僕はMのにぎるハンドルを左に戻そうとする。Mはそれを右に回そうとする。僕は対向車線に行かないように左に戻す。Mは負けじとハンドルを右へ、僕は左へ。

ガッシャ~ン!

 というようなことを続けているうちに僕の力の方が勝ってしまって車は左側に止まっていたトラックにぶつかったのである。

 ありゃ、やっちゃった。僕らは朝までジェミニの中でトラックの持ち主が現れるのを待ち、持ち主にお詫びして然るべき弁償をすることを約束した。その後で僕は「ほんまに俺がハンドル戻してなかったらもっとえらい目に会っとったやないの。」と言ってそれきりにしてしまった。

 その後、Mは車を廃車にしたらしく、また弁償のためのお金をしばらくバイトで稼いだらしくえらく苦労したという話を後から聞いた。
 その後流れた噂は「○○さん(僕)がMに酒を飲まして運転させたあげく助手席に乗ってハンドルを固定したらしい。それで自爆事故を起こしたようや。まったく相変わらず○○さんはめちゃくちゃしよるなあ。」。(まあ僕がこのように思われがちな学生だったことは否定しないが)
 まあこれが今でも通説になっているので冒頭いったように僕も面白おかしく肯定しているわけだ。

 さて僕が人の車を壊して人の人生を狂わしたなんてことはなかったのである、と思って書き出したのであるが書いてるうちにさてどうだったのだろう、という気になってきた。僕がハンドルを左に戻してなければもっとひどい事になっていた、とは思うのだがやっぱり共犯だったのかな?どっちかというと加害者? すまん、M!来年会う機会があるから話してみよう。

金曜日, 11月 17, 2006

学生時代のバンド活動を想う


 JAZZを始めたのが18歳の時だが、それからどんなバンド活動をしてきたかなあ。色々な人がいたと思うが忘れないうちに回想してみることにする。ちなみに楽器はピアノ、キーボードです(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。

 僕は大学時代を京都で過ごした。大学に入って軽音楽部に入りJAZZスクールにも通い始めた。スクールで知り合ったピアノの人に紹介されてH大学というところのT.SaxのTさんといっしょにやったのが最初のバンドかなあ。特に名前は無くてこの大学でJAZZをやるバンドがこのバンドだけだったので、しいていえばバンド名はJAZZ!この人はとてもソウルに溢れる人で当時京都では有名なバンドのホーンセクションで人間的にも大好きだった。こちらはテクニックはあるけれどJAZZなんか全然わかってなかったのに付き合ってもらってたんだなあと思う。やった曲はLa Fiesta (C. Corea )とか Maiden Voyage (H.Hancock)とか Wise One (J.Coltrane) とか難しくて全然できていなかったはずだが当時はわからずやっていた。このバンドを通じて知り合ったDsのIとはこの後長くいっしょにやることになった。

 K大のTbのA先輩にやってみるか、と言われて「自信ありますよ」と命知らずに答えてOne Way Ticketというバンドを始めた。A先輩はとてつもなくうまくてフルバンの大きな大会で賞も取っていた。僕はあまりにできなかったためにしばらくして先輩のピアニストに替えられた。勉強になったはずなので、もっと謙虚にやれば良かったと後悔。このピアノの先輩も今では関西でプロで弾いている。当時やった曲は向井滋春の曲とかSeven Steps to Heaven(M.Davis)とか。

 先のH大のTさんの関連でG大のA.SaxのSさんのフュージョン・バンドをやった。曲は当時の定番のCaptain Caribとか。まあこの頃はキーボードの弾き方もわからないので合わせて音ならしていたって感じかな?入学してすぐに買ったYAMAHA CP-30を使っていた。G大のイベントに出演。

 それからこのSさん(A.Sax)とH大のI(Drums)とD大のS(Bass)とカルテットをやるようになった。バンド名はダーティー・ラッツと呼んでいた。変な名前。練習はH大の学館ホールというところで当時はピアノの練習のためにそこに住んでたような生活。曲はスタンダードばっかり。印象に残ってるのはBilly's Bounce とか Softly as a morning sunrise とかMr.PC とか枯葉とか。トリオでもやった。閉じた世界だけど必死に練習していた。T.SaxのTと出会ったのもこの頃でTとは最近もTがオーナーをやっている店( http://members.jcom.home.ne.jp/knuttelhouse/)で演奏させてもらっている。

 割とフュージョンっぽいところから聞き始めているので自分でフュージョン・バンドを立ち上げる。フロントは2人でA.SaxのFとT.SaxのN。Aとはこの後も結構親しくバンドをやる。Nとも長い付き合いでこの後知り合うVocalのEと結婚して家族ぐるみの付き合いを続けている。DrumsはK大のビッグバンドで叩いていたM、Bassは先程のD大のS、GuitarはSの友達のO氏。David Sanborn とかTom Scottのコピーをやっていた。僕にリーダーシップが足らなかったのか、特に発表の場もなく解散。  

 同じ寮に住んでいた先輩のT.SaxのHさんに誘われて「熊野ワークショップ」というカルテットをやる。GrossmanやDave Liebmanのいかつい曲ばかり。このころはmodeといかついFusion一辺倒だったのでこう曲が楽しかったなあ。「熊野」はK大の学園祭や定演でやった。Drumsは先程のM、Bassは当時寮に住んでいたH。話はそれるがHが乗っていたバイクを買ってしばらく乗っていた(バイク・リベンジ参照)。

 この頃はバンドと言うよりセッション中心で夜の部室(ブシツ)にアマ・プロ集まって夜な夜な激しいセッションをやっていた。BassのHさんと言う個性的な先輩がいて中心的にやっていた。結構レベルが高くて回ってくると緊張が走る。この頃は昨年亡くなったPianoの市川 修さんに習っていたりRhodes MarkⅡ(73鍵)を買ったりしてJazzに打ち込んでいた。部室のセッションには市川さんやT.Saxの山中 良之さん(http://www.jazzpage.net/yamanaka/)も顔出していた。Hさんは今でも横浜近辺で活躍中。

 自分のコンボもやった。BassはHさんに付き合ってもらいDrumsはセミプロのKさんやOさんにお願いしたりした。宝ヶ池に当時あった無限というライブハウスに出してもらった。バンドとは別にバイショウも時々。当時三条にあったベラミとかピアノ・ラウンジやホテルの仕事とか。大阪や神戸に行くこともあった。

 大阪のGuitarで名前がどうしても思い出せないのだがすごいテクニックだった人。その人としばらくやっていたフュージョン・バンド。梅田まで行って練習。Pat Metheny やWeather Reportをやっていた。YAMAHAのポップコンに出場。

 どちらかというとロック系のGuitarの先輩であるSさんからブラコン系のバンドを誘われる。経験がなかったがメンツが良いので迷わず参加させてもらう。バンド名は北白川Funky Rhythm Section。Bは当時からものすごくうまかったが、今や本当に日本を代表するBassistになってしまったO(http://www.eqeq.jp/osamu/)。僕以外にもう一人Keyboardがいて歌心と言いセンスという抜群のNちゃん。とてもかなわなかったな。Vocalは当初Nさんだったが事情により抜けてしまいKS大のYさん。話題にことかかない人だったがどうしているだろう。Drumsは最初Oさんというノリのすごい人で人間的にも最高だったが何度かライブをやった後、プロのバンドで活動するために抜けてしまった。その後「いたち」という最高のバンドを一時期やっていたNさんやD大のNが入ったが合わずにD大のKで落ち着いた。最高にファンキーな男だった。Horn SectionはA.SaxのFやTpのIが当初やっていたが卒業などで変わりT.SaxのK、TbのC、TpのKとこれも強力なSectionとなった。
 最初はD.Hathaway、King Curtis、Whispers、Larry Graham なんかをやってE.W&F やKool & Gangをやるようになり後半はメンバーのオリジナル中心になった。曲とアレンジはBassと二人のKeyboardが中心に歌はVocal中心に。バンド名もKIXに変えた。シンセをやらなければいけないのでYAMAHA DX7を買った。メカに弱いので音なんて作れなかったけどね。主に磔磔(たくたくhttp://www.geisya.or.jp/~takutaku/)というところでライブをやっていた。YAMAHAのポップコンや大阪でやってたコンテストにも出た。まずまずのところまで勝ち進んだ。そしてOがプロになるためにBostonの音楽学校へ。他のメンバーも就職やらなんやらで解散となった。

 Jazzの方はA.SaxのFと「あさってデュオ」を結成。僕らのキャラが何となく「あさって」っぽいのでこの名前を。スタジオ・バリエという演劇とかをやる店があってそこで定期的にライブをやっていた。その後BassのF(http://www.max.hi-ho.ne.jp/ulmado/funato.htm)も参加して「あさってトリオ」に。Fが卒業したのでBassのFとふたたびデュオでやっていた。 BassのFはど太い音のべーシストとして活躍中だ。

 フルバンはいっさいやらなかったが4回生ということでK大フルバンに1曲だけ参加することになった。曲は秋吉敏子のMr. After Ten。録音が残っていて割りと最近聞いたけど、悔しいがやっぱり今よりいいかな?どうだろう。

 後輩のブラコン・バンドのKeyboardが抜けるというので誘われる。DewというバンドでBassのIとDrumsのKさんがノリが合わないのが楽しみのひとつ。GのTが大人で調整役。VoのEはJazz系のセッションで良く知っていたがここで初めてバンドをやる。その後EとTとは長く音楽の付き合いをすることになった。Iともしばらくやっていたがちょっと疎遠。ChorusがRとN。Rは後に脱退してKが入った。曲はChic中心。これも僕は初めてやったのだが大好きになった。捨得(じっとくhttp://www.baumkuchen.net/~ue/jittoku/)というライブハウス中心にライブ活動をやる。

 R大のK(Bass)から誘われてFoul Players(http://sound.jp/foulplayers/)というバンドを手伝うことになった。2回だけライブに参加。VocalはM、DrumsはAO、GuitarはM。曲はChaka Kahn, Dee Dee Bridgewater他。良いライブとなった。後輩のHを紹介してバンドを去る。AOとは卒業してからJazzの付き合いを長く続けている。このバンドは今でも積極的に活躍していてすごいらしい。サイトには僕がやったライブの音源もUPしてくれている。

 他に大学時代で心に残っているのはO(Bass)がアメリカに行くさよならライブ。D大のVoのOさんとかLay Downというバンドの皆さんとやれて楽しかったなあ。Lay Downとはこれとは別に大津でやったり新潟にツアーして演奏したりした。R大のAsのHとバイショウで白馬のスキー場に行ったのも想い出した(Hはナンパに失敗、僕は当時はそんなことしなかった)。

 他にも一緒にやってくれた人はたくさんいる。普段は忘れてしまっているがみんなが少しずつ心の中に残っているようで、とても感謝している。

 大学を卒業してもうバンド活動はやめるつもりだったのでこの話はここまででおしまい。長くなったし。就職してからまた始めて続けるようになってからはまた別に書きます。それでは!

土曜日, 11月 11, 2006

総武線グリーン車ケンカ未遂事件

 2年も前の話だけれど登場人物やストーリーが何となく昨今の世の中の示唆を含むような気がするので忘れないうちにお話しておきたい。

 夏のある日の昼のこと、千葉での仕事のミーティングを終えて別のミーティングのために蒲田に移動する途中の話である。僕は蘇我という駅から総武線の快速に乗り、疲れていたので品川までグリーン車でゆったりと小旅行を楽しむことにした。

 千葉でのミーティングが長引いたために蒲田のお客様先オフィスに着くのは予定よりも若干遅れそうだった。お客様にも社内にも出席予定を伝えていたため遅れることをお詫びするために携帯電話で連絡を取ることにした。僕はグリーン車の2階の前から5列目ぐらいに自分の鞄を置き、グリーン車のデッキに行って会社の人に電話をかけることにした。僕以外にもう一人デッキで電話をしている人がいた。まだ蘇我駅を出発するには1~2分の時間があった。携帯電話で会話をしていると、突然大きな声で怒られた。「何を車内で電話してるんだ、まったく何を考えている!」と一人の老紳士がデッキまで来て叫んだのだ。僕は(電話をしていたもう一人も恐らく)びっくりして会話を早急に終え席に戻った。

 老紳士は同じ車両の2階の最前列右側に座っており、僕が自分の席に戻った時も睨み付けて「まったく最近のものは」というようなことをはき捨てていた。確かに総武線のグリーン車はデッキと客席の間にドアがある訳ではないので、まあマナー違反ではあろう。それにしても席で話をした訳でもないので厳しいジーサンだなと思いつつ席についた。

 その後、電車は駅を出てすぐ直後のこと。件のオジサンのすぐ後ろに座っていたギャル風の女性の携帯がなった。ギャルは席に座ったまま携帯を取りギャル風の声で「もしもし~、わたし~、なあに~?」と始めたのだ!当然のごとくジーサンは怒り狂った。いきなり立ち上がった。「こらあ!これが見えないのか!(これとは車両の前の壁に貼ってある携帯電話禁止のポスター) そういうことだ~!」と。ギャルは「す、すみません。。」とあわてて携帯を切る。ジーサンは座ってもまだぶつぶつと小言をいっていた。まったく!このギャルはさっき僕のことをわざわざデッキまで来て怒っていたのを見ていなかったのだろうか?その時にいたはずなのに。当然の結果じゃないか。おバカなギャルめ。

 その後、千葉駅で何人か人がグリーン席に乗り込んできた。その中にひとり色黒のがっしりしたサーファー風のニーチャンがいた。ジーサンと同じ最前列の左側(オジサンの逆側)に座った。僕は何かいやな予感がした。ただし疲れていたのですぐに眠りに入ってしまった。

 なにやら騒がしい声がして目が醒めた。予感が当たったらしい。ニーチャンはジーサンのいる右側に席を移動してジーサンににじりよっている。「何を生意気抜かしてるんだよ、このジジイ。」、「私は当然のことを言っているだけだ。君のような人にジジイと呼ばれる筋合いは、」、「何だと、てめえ、殴られたいか」というようなやり取り。ジーサンはだんだん声がか細くなりたじたじと。やはりな、と思った。恐らくニーチャンが携帯で電話をし始めてジーサンが注意したのだろう。

 車内の人はというと誰も反応もせず、見てみぬふりを決め込んでいるようだ。僕はカチンと来た。ジーサンを助けるしかないな。さっきうるさく注意された小面憎いジーサンだが、まったくこの国の人々の無関心、ことなかれ主義といったら、許しがたいね。僕は立ち上がって最前列まで言ってニーチャンの左肩に後ろから手をかけてこう言った。「あんたが悪いんじゃないのか。車内で携帯使ったんだろうが。」(実は僕は寝ていたので見た訳ではない、でも否定しなかったからたぶんそう) するとニーチャンは立ち上がって「何だとう、何口出してんだ、オメーは!」と。ありゃ、このニーチャン思ってよりデカイのね、こりゃケンカすると負けちゃうなあ、と思ったがもうこうなっては引くわけにはいかない。弱みを見せたら負けだ、とことんやるかとスイッチが入った。以下、会話とカッコ内は本心。

「生意気に口出すんじゃねえよ、引っ込んでろ、コラ」
「お前が悪いから悪いと言ってるだけだろうが。(いきなり殴られたら痛いだろうなあ)」
「それよりテメエ、今俺のこと殴ったろう、腫れてきたじゃねえか、どうしてくれるんだ!」注:さっき肩に手をかけたことを指す。
「触っただけで腫れるなんてお前体でも弱いんじゃねえのか。(あっ、たち悪~っ、因縁つけてきたし)」
「ふざけんな、どうなるかわかってんだろうな!」
「いいから周りに迷惑だから座ってろ、お前。(誰か加勢してくれないもんかな、まったく)」
 至近距離にいると一触即発のため僕は自分の席に戻る。ニーチャンも追ってはこずに席に座る。この後自席に座ったままで。ニーチャンはこちらを睨んでいる。
「ただで済むと思うなよ、コラ。」
「四の五の言わずおとなしくしてろ。(早く車掌かなんか来てくれないかな)」
・・・

 この時、別キャラ登場。気が付かなかったがこの車両に外人が一人乗っていた。人の良さそうな中年の白人、やや肥満。
「ケンカ、イケナイデスネ。ワタシ、シャショシャンヨンデキマス。」
 助かった~。早く第三者に入ってもらわないとホントにケンカになっちまう。外人はヒョコヒョコと通路を歩き前の車両方面に車掌を探しに。その後もニーチャンとのやり取りは続く。早く来てくれないかな、車掌さん。
 外人が戻ってきた。やはりヒョコヒョコした足取りで。
「シャショシャン、イマセンデシタ。」
 こ、この能無し外人!誰でもいいから連れてこいよ!(失礼、ミスター!この時はそれ程せっぱつまってたのです。)

 このあたりまで寝起きから一発触発状態で興奮していたためいったいどこの駅を通過してるんだかわからなかったのだが、どうも次は東京駅らしかった。件のジーサンはニーチャンにやられて気落ちしていたのか、僕とニーチャンのやり取りには口を出さなかったのだがここでいきなり立ち上がってこう言った。
「皆さん、良かれと思って言ったことですが結果的に皆さんに不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありませんでした。それでは失礼します。」
 マジっすか。ジーサンのために体張ってるというのに降りちゃうの?僕はどうなる。するとその後、その車両に乗っている客全員が三々五々立ち上がり東京駅で降りようと席を立とうとするのだ。東京駅で降りる人も多いだろう。でもひとりぐらいその先のに行く人もいたのでは? みんなとばっちりを蒙るのが嫌なのだ。そしてニーチャンはというと、どうも行き先がその先であるらしく席に座ったままだ。僕の行き先は品川。まずい二人だけになったら間違いなくケンカになる。悔しいが僕もこの駅で降りた方が得策か。

 ニーチャンのいる側に進んで席の近くでこう言った。
「オレはここで降りるがまだ文句があるなら降りて話つけるか?(そろそろ面倒だと思ってくれないかな、まあ降りられてもホームでもめれば人が集まってくるだろうから、今よりずっとまし)」
 ニーチャンはそれ程悪人ではなかったらしい。
「わかったよ。俺が悪かったよ。もういいよ。」と不機嫌ながらも言ってきた。
「もういいってゆうならこっちもいいよ。(あ~!良かったあ、助かったあ、早く降りよ)」
 東京駅を降りて、本当の行き先は蒲田なので乗り換えなきゃ。急いで階段上がろう。あ~命拾いした。この年で会社員でケンカになったらエライことだった。

 話はだいたいこれでお終い。めでたし、めでたし、なのだがもう少しだけ続きがある。

 階段を10段ぐらい上がったところで車両のあたりからさっきのニーチャンの怒鳴り声が聞こえる。ホームにいた駅員と揉めてるらしくて「しつこいな、こっちは謝ってるじゃねえか!」などと言っている。駅員の近くにさっきの外人が。どうも外人がホームに降りてそのへんの駅員に通報したらしい。ニーチャンは僕が駅員に言ったと思っているのか。駅員も正義感の強そうなオッチャンだ。
 ここでもう逃げ去っても良かったのだが、もうここまで来ればもののついでだと上りかけていた階段を引き返した。駅員さんに、
「いや、もう話はついてるんですよ。何でもありませんから。」
 ニーチャンは座席に戻り、これでやっと話は本当のお終い。ケンカ未遂で終わって本当に良かった!

土曜日, 11月 04, 2006

音楽との出会い


 ジャズやソウルが好きで社会人になって20年と少し経つがバンド活動を何とか続けている。今までどのように音楽と出会ってきたかを書いてみたい。

 音楽が好きだ、この歌が好きだという以前にピアノを習っていた。つまり音楽より先に楽器から入ってしまったわけだ。僕が4~5才の頃に母が習わせ始めたらしいのだが始めた頃の記憶は無い。いやがらずに、というか好きでピアノの練習を続けていた。小学校低学年の頃に教室のオルガンをみんなの前で得意になって弾いていた記憶が残っている。男の子なのに恥ずかしいとかいう感覚は無かったようだ。こういう曲が好きとかこういう表現をしたいとかいう想いは子供なのでまったく無い。楽器の技術に対して表現したいアイディアが追いつかないというのがこの後もずっと続いた。恐らくピアノの先生に「よくできました。この曲はあがり!」と言われて次の曲に進むのが嬉しくて続けていたのだと思う。

 小学校高学年の頃にショパンがとんでもなく好きになった。これもきっかけが思い出せないのだがピアノの発表会で素晴らしい演奏をした子供がいたか、父が持っていたショパンの曲集のレコードかどちらかだろう。また同級生にやはりピアノを習っていた体の大きな友達がいて仲が良かったのだが、彼がまたうまくて触発されて曲を弾いてみたりしていた。簡単なワルツやマズルカ等を弾いてみて自分にもショパンの曲が表現できることに感動していた。ショパン好きはそのまま中学でも続きノクターンなんかは教わったが、当時はとても弾けないポロネーズや即興曲やバラードの演奏があこがれだった。

 中学3年生の時にブラスバンド部に入った。転向した先の中学にそれまで部活でやっていた剣道部が無かったからだ。楽器はトロンボーンで特に大きな理由はない。ちょっと変わった楽器がやってみたかったというのと小学校の鼓笛隊みたいなものに属していたことがあってそこでトロンボーンを持ったことがある(その時は音の出し方もわからなかった)というぐらいのことだ。ブラスバンドはそのまま高校2年生まで続けた。アンサンブルや曲を練習して完成させる過程やコンクールで緊張する経験はとても楽しかった。京都交響楽団と学生との共演のオーディションを受けて大きな会場でやったこともある。この頃好きだったクラシックの趣向は少し偏っていたようだ。ブラスバンドを始めてからは特にピアノ曲もオーケストラも聴いたが、好きな作曲家はストラビンスキー、バルトークの打楽器的なオーケストラ曲。他にももちろん聞いたけどショスタコービッチとかチャイコフスキーとか不思議とロシアの作曲家が好きだった。

 という訳で少なくとも中学校ぐらいまではクラシックしか興味が無くて当時はやっていたフォークは付き合い程度に(話を合わせるため)しか聞いてなかったし、テレビでやっている歌謡曲なんかはまったく馬鹿にしていたというか嫌悪感をいだいていた。ちょっと視野が狭かったね。そして高校に入って何と初めてビートルズを聴いて打ちのめされたというか夢中になってしまったのだ。クラスメートから勧められたのだと思う。何から聞いただろう? A Hard Days Night とか HELP!あたりからかなあ。White AlbumやSgt.Pepper's ~等の少し後のアルバムもすぐに好きになった。これが恥ずかしながらPopsとの最初の出会いとなった。でもこの頃までは洋楽のPopsといえば聞くのはビートルズだけ。

 Jazzを初めて聞いた時はちょっと信じられなかった。アドリブとインタープレイでやっているだなんて。そんなのあり得ない!たぶん高校1年の時に渡辺貞夫のFM番組、マイディア・ライフがこれがもしかしてJazz?という最初の経験ではないだろうか。当時は福村博(tb)がレギュラーだったのだが、トロンボーンをやっていたのでなお更感動してしまった。続けて番組を聞き始めてライブやセッションの素晴らしい演奏を耳にした。何て刺激的な音楽!これしかないね、と。少ない小遣いでジャズのレコードを買い始めた。何もわからないから楽器編成とか、この人有名だよねとか、ジャケットとかで適当に買った。トロンボーン奏者の場所から選んだのでCurtis Fuller, J.J.Johson なんかから始めた。その頃適当に買ったアルバムの中で Miles Davis の Milestones ! こんな音楽聴いたことがない!スリリングなモード・ジャズが好きになった原体験となったアルバムと思う。ブラスバンドは転校のために高校2年でやめたが、その後引き続き乱聴(?)していったのだがやはり多感な時期でその後の好きな音楽を形作っていったようだ。この時期聞いた何枚かをあげると、、、
Miles Davis のAgharta・・・大阪でのelectric liveで名盤でも何でもないがこれはすごい!何回聞いたかわからない。どうやって曲を構成するのだろう。ブレークが完璧に合うだなんて。
Keith JarretのTresure Island・・・どの曲もきらきらしていてのまさに宝物のよう、しかもDown to earthでわかりやすい。
Chick CoreaのReturn to Forever・・・アルバム全体が水墨画のように美しい。しかもスピードに溢れて生き生きとしている。
Tommy FranaganのOver Seas・・・躍動感溢れるピアノ。しかもElvinのドラム・ソロは何て美しいのだろう。
 そしてJazzを始める前にJazz musicianとして生きていこうと思った。そのために大学に行こうと。結局夢は実現しなかったけれど、そう思って生きていた何年かはとても貴重な時期で僕のひとつの帰るべき原点となっている。

 大学に入ってJazzを始めた。ちょっと習った時期もあったが人に教わるのがあまり得意でないため、基本的に独学。フュージョンぽいのから始めたがMilesの60年代を聞いてHerbie Hancockが僕のアイドルとなった。何て知的でファンキーなピアニスト!この音の使い方と間の取り方といったら!!ずっとmodeぽい曲を選んでやっていた。Big Bandには興味が持てずにコンボばっかり。バップから始めなかったので結局Jazz的には遠回りになったかもしれない。でもそれは後からだから言えることで自分が感じた音楽に突っ走ることが重要だったのだろうね。どういう分数コードでテンション出そうとか、outの音を出してinに行くにはどうしたらいいとかばかり考えてた。市川 修という京都のピアニストに習った。この人はあり得ないぐらいパワフルで感性的なピアニストで大好きだった。残念なことに去年亡くなってしまったのだけれど。

 先輩のギタリストにSoul bandを誘われた。またしても刺激的な出会いはDanny HatherwayのLive!これはまさに音楽だった。これを知らずに音楽をやっていただなんて。演奏もすごければ客の反応もすごい。その場が一体になって奇跡を作り出しているという感じ。このSoul bandはその後、originalのblack contemporaryをやるようになり、僕も曲を書いたりアレンジをしたりした。今から思うとレベルが高くてバンドとしてサウンドを作り上げていくことの楽しさはこのバンドで覚えた。その場で構成やアレンジをどんどん変えていく。同じ曲をライブで何回もやるが、やるたびにどんどん変わっていく。バックもリズムも。このバンドのラスト・ライブをやって本当に自分をかけて音楽をやっていた時期はおしまい。本当の天才だけがプロフェッショナルとして音楽をやるべきだと思って普通の社会人となった。それからの音楽人生もとても楽しいということがわかった。今までの話が僕の音楽のバックグラウンドだ。それからのことや個別のクラッシックやジャズやフュージョンやソウルやビートルズの話はまた追々書いて行きたいと思う。

 

木曜日, 11月 02, 2006

子供のこと


 今日、久しぶりに子供のことに関して妻と真剣な話をした。ここ数年この話題から僕が逃げていたのだ。とても反省している。

 僕らには2人の男の子供がいて子供の育て方に関してはずっとわだかまりがあって妻に対して諦めてしまっていた。当然いい結果にはならずもう一度向き合って今からできることが何かを探してみたいと思ったのだ。

 上の子供のことだ。自分も男で兄弟は弟が一人。男の子はこう育てたいというのが自分が生きてきた経験の中であったのだが、まったく思うようにいかなかった。今高校1年生で私立の高校に入れているが何ができる、何がしたいというわけではなくとても心配。生活力や競争力は今の延長だとまったく無いと思われて何とかしてあげたいと思っている。なぜそうなったかと僕が考えているかを話しておきたい。というのは恐らく僕がそう考えていること自体が問題の核心に近いところにあると思うからだ。

 子供が2~3才の時に子供のおかれている環境や育て方に大きな危機感を覚えて妻と喧嘩をしたがどうしても思うように変えられなかった。この頃の子供に必要なのはできるだけ他の子供と接して刺激を与え協調性を身に着けて人間の基本的な能力を発達させなければならないというふうに考えていた。それで近所の母親と仲良くして子供と遊ばせるということ(いわゆる公園デビュー)をやってくれと言っていたのだが妻の性格の問題と二人目が早くできてしまった(1年半違いの男の子でこちらは色んな意味でできがいい。少し上の兄がいたということだけが違いという気がしてならないのだ。)ことによる余裕のなさでそれができなかった。自分の会社や大学時代の友達のところに遊びにいってちょうど同じぐらいの友達と遊ばせようと思っても人付き合いのために気を遣って疲れてしまうらしくそれも実現できなかった。幼稚園に入れるまで特に友達がいなくて友達と遊んだ経験もないまま入園し、やはり能力や接し方に関してずいぶん他の子と差ができていた。差が縮められないまま小学校へ、さらに中学校へ、そして今は何の目的も持たずに高校にいっている。差を縮める方法もあったのかもしれない。それはレベルを落とした教育をすること(つまり小学校高学年だけど中学年・低学年の教育をして少しずつ引き上げること)。それも提案したが理解してもらえず、僕もそんなに積極的には強行しなかったためにこういう結果になってしまった。つまり子供がこうなってしまったのは妻のせいではないかと僕が思っているということなのだ。

 僕はこう思ってしまっている自分に問題がある、ということぐらいはわかる人間のつもりだ。こう思ってしまっているというのは事実なので正直に書いた方がいいと思って書いている。今日妻と話をした時に実は長い間そう思っていたんだよ、正直に告白すると、ということを言った。きれいごとで話しても根幹にある感情をさらけ出さない限り解決しないような気がしたからだ。妻は自分だけが責められているように感じたらしく反論をしてきたが、そうではないことを説明した。妻にとっては僕は子供のいい所をみずに否定的に見る父親ということらしい。子供もそれを感じていて自分が父親に(僕に)認められていないことを不安に思っていて本音で相談ができないのだ、と言う。それは僕にとってはドキっとすることだった。今までこういう相談や議論をしなかった、または妻が僕に対してしずらかったというのは本当に子供にとって悪いことをした。自分を反省してこれからどう接したらよいか育てたらよいか考えたい。

 話に出ている僕の長男は驚くほど幼稚で高校1年生というのにいまだにポケモンに夢中でレゴを買ってもらって喜んだりしている。勉強はまるでできないし、運動神経もなく、友達もいないかいても利用されているという感じ。これから人間として生活しなければいけないから何らかの道を探すことを本人に気付かせたいと思っている。親として何ができるのだろうか?それ以前に僕はどう考えを変えるべきなのか?この結果が人のせい(前に述べた妻の責任)と思っているところは明らかに問題なのだが明確な解決方法がうかばないのだ。

 親としてできること(行動)は重要だと思うので考えていたことを妻に話してみた。
・自分の好きなことを見つけてその分野での教育(専門学校とか弟子につくとか)を受けて仕事を持つこと
・社会で生きていくための練習としてアルバイトをさせて厳しい経験をしてみること。
・一人でちょっとした旅をしてみること。
・僕と2人で何日か向き合う機会を作ること(旅行とか)。
・祖父母(つまり僕の両親と妻の両親)はかわいがりすぎるので少し遠ざけた方が良い。

 少しずつやってみる積もりだ。子供のことに関してやっともう一度向き合って妻と話をしたばかりなので本当いこれから始めるということなのだ。時間はかかるだろう。また今までのツケも払わなければならないだろう。でももう一度やり直してみたい。やり直してみる責任があると思う。もし悩みが共感できる人がいらっしゃれば相談したいのだが。。。 

始めに


 どうもこういうことに疎くて今までやりたいという気にならなかったのだけれど、最近読んだ本に啓発されてblogを書いてみたいと思いました。IT関連の仕事をしているのに、まったくおかしいよね、と自分でも思います。啓発されたきっかけとなった本は梅田望夫氏のウェブ進化論。僕みたいなついていけてない人間にもわかる素晴らしい本でした。

 自分の経験した面白いことや人生に関わるいくつかのテーマに関して時間をかけて少しずつ書いていきたいのです。いわゆる日記ではなくエッセイ風なので多少読みづらいかもしれません。順不同に書けることから記していくので自分の考えや生き方やこれからのことがお伝えするのには少し時間がかかりますが、もし世の中の皆さんに少しでも役立てることとか、何かアイディアをもらえるようなことができれば嬉しいと思います。では早速!

http://enjoy-every-situation.blogspot.com/