金曜日, 10月 08, 2010

下の子供のこと


 最近、下の子供のことを「小僧〜」と呼んでいる。家で「よ〜、小僧〜」と声をかけると、
「よ〜」とか「おっす」とか答える。下の子供は高3の受験生だ。

 実はこんな感じに普通になったのは今年の春になってからだ。

 6年前から下の子供と僕の間は気持ちが遠く離れて、必要最低限の会話しかしなくなっていた。僕ははっきり言うと憎まれていた。

 6年前に下の子供が中学に入る前の正月に次のようなことがあった。妻の両親家族と皆で旅行に行ったのだが、旅行先の何かの拍子に皆のいる場で下の子供は僕を馬鹿にした言葉を言った。冗談で言った言葉だった。しかし僕のことを尊敬していれば言わないであろう言葉と僕には思えてひどく腹を立てた。
 旅行から帰って僕はそのことでひどく怒り、下の子供をひどく叱ってぶった。「父親に言うような言葉じゃないだろう!」と言って何度もぶったのだ。下の子供は怖くて泣いてあやまった。

 このことはずっと気になっていた。ずっと後悔していた。きっと僕のことを嫌いになったね。でもどうしようもなかった。過去のことは取り消すことができない。

 その後も普通に話をすることはあった。でもどことなく、ぎくしゃくして話しかけても会話はすぐに途切れた。
 2年前、高校に進学する時に(中高一貫なので受験とかは無かった)、進学のことでまとまった話をした時にはこのような意味のことを言っていた。「僕は父ちゃんのことは尊敬できなくなっていて、何か言われてもそのまま納得できないんだ」というようなことを。僕は悲しかったが、しょうがないと思いその時は何も咎めなかった。

 家族4人(妻と上の子供と)で旅行に行くことも、もちろんあったが、あまり楽しそうではなかった。僕はそういう年頃なのだろうと諦めていた。

 さて去年の夏のことだが、一人で京都に行った時に新幹線の中で僕はこの下の子供との関係を考えていた。いつからこんなにぎくしゃくした関係になっただろう。いつから笑顔をあまり見せないようになっただろう。と。
 僕は家族旅行の写真のことを思い出そうとしていた。まだ笑っている写真が残っているのはいつまでだったろう?と。

 それは考えれば考えるほど明確だった。6年間のその事件以来、下の子供は旅行も会話も敬遠し僕に笑顔を見せなくなっていた。それまでは2人で話したり、歩いたり、外でご飯を食べたりしたし、2人で旅行に行ったこともあったのだ。
 僕はそれを明確に意識した京都行きの新幹線の中で泣いた。改めて後悔をした。

 それから、いつか話そう、と思ったのだ。下の子供に、6年前のことを話して謝ろう。そうしないと解決しない。下の子供もそのうち家を離れるだろう。そうすれば、わかり合える日は来ないかもしれない。来ても何十年も後だ。
 話して謝っても、わかりあえないかもしれない。でも話さないよりはずっとましだ。

 その機会を作ったのは今年の春になってからだった。半年程どうやって話そうかと考えていた。
 「ちょっと話したいことがあるから、たまには外でご飯でも食べない?」
ともちかけて、嫌そうな下の子供にある休日の夜に予定を入れさせた。
 2人で近くの蕎麦屋に行って座敷の落ち着いたところで話をすることにした。家族でよく行くお店だった。
 「久しぶりだな、二人で飯を食うなんて」と言うと
 「初めてじゃね?」と言う。
 「いや、××以来だ」と二人だけで言った旅行のことに触れた。もちろん6年前よりも、もっとずっと前のことだ。
 それから僕は下の子供に話した。

 ・6年前に感情的に怒ったことをとても後悔している
 ・最近になってそのことに改めて気がついて涙が出たことがある
 ・今日はそのことで謝ろうと思っている、悪かったと思う
 ・お前さんのことは本当にかわいい子供だと思っている

 下の子供はこう言った。
「あの時は正直、父ちゃんのことを殺そうと思った。」
「気をつかうのがバカバカしく思えた時期があってそれ以来あまり積極的に口をきかなかった」
「父ちゃんに対してはトラウマがあってもううまくやっていけるような気がしない」
「母ちゃんや兄貴の目線で思うと父ちゃんは悪者に見える」

 いいことはすべて忘れてしまったようで悲しかったが、今日は謝る場なのでだまった聞いていたし、そう思われてもしかたがないと思った。あまり子供の面倒をみなかったのも確かだ。他の話もしたし、随分長いこと話をしていた。
「別に嫌いというわけじゃないんだけど」
とも言っていた。蕎麦屋を出た。

 話をして良かったと思った。その後少しは会話が自然になったような気がした。

 ところで最近この子は半月板と靭帯を痛めて両杖をついている。何週間かはこの状態らしい。それで毎朝、早い時間に車に乗せて学校に送っていくことにした。家から新子安の学校まで20分ぐらいかかる。勉強や受験の話を少しだけする。
 
 こういう形で受験を支えてあげようと思う。来年受かれば上の子と同じように下宿させようと思っている。外で酒を飲む機会も作りたいし、何年もすればいつかわかりあえるだろうと思っている。

(写真は1回だけ行ったこの子のハンドボールの試合。1番のポイントゲッターでチームの勝利に貢献していた)

金曜日, 7月 09, 2010

日本航空剣道場最後の日





 少し前に日本航空バスケットボール部の練習場が経費削減のために移転となった、というニュースが日経新聞に載った。その練習場は東京モノレールの整備場駅にある機装ビルの4Fの体育館にある。
 その横にあるのが日本航空剣道場なのだが、この道場も今日を最後の稽古日として廃止となった。剣道部は同じ整備場駅にある全日空剣道場を間借りして稽古をすることになった。

 1年以上も剣道の稽古をさぼっていたが今日は久しぶりに道場を訪れた。お客様でもあり仕事仲間のAさん、Tさん、同じ会社のN君、女性剣士Kさん、いつも世話になっている整備士のSさん等と久しぶりに道場で会った。稽古の後に3Fの食堂でビールと日本酒で宴会をやった。空港警察署の先生も来ていた。剣道をやっている人というのは飲んでいても誠に気持ちがよい。

 剣道を再開して日本航空剣道部の門を叩いたのは約3年前。稽古をしてビル共同の風呂に入りビールを飲んで帰る。月に一度か二度であるが剣道場はそれなりに懐かしい場所になっていた。合宿も毎年長野の安曇野であり稽古自体はしんどいのだが楽しい想い出となった。

 今日久しぶりに剣道をやって、またもう少しやってみる気になった。来年は四段を受けてみよう。最近のさぼり具合からいって一度では無理だと思うが、何度かチャレンジしてみよう。今日はそういう気になった。

 今日は日本航空剣道場に感謝をしたい。

土曜日, 4月 24, 2010

久々のバイショウ


 関西ではバイショウと言ったのだが、東京ではゴトシというらしい。先週金曜日に久々にバイショウをやった。場所はヒルトンホテルで某団体でのディナー・パーティでのバイショウであった。メンバーはいつもバンド活動をやっているRose(vo)とこの関連で最近付き合いのあるOさん(b)。

 バイショウは商売、ゴトシは仕事のことでミュージシャン用語なのだが音楽演奏をやってお金をもらうことを言う。バンドのライブ活動等と違うのは報酬のためだけに演奏する、という点である。ライブ活動は自分や自分のバンドのやりたい演奏、表現したい音楽をやってお客様に聴いてもらってチャージをいただく(もちろんいただかない場合もある)のだが、バイショウはその場のニーズに合わせて演奏をして報酬をもらう。
 この日の年齢層は60歳代でジャズ・スタンダード中心に10曲程度をトリオで演奏した。RoseのMCもいつも通りGoodでウケはまあまあ良かったように思う。

 大学時代にバイショウは大きな小遣いの源泉だった。大学生活の最後の1−2年はちょくちょくバイショウの話が入るようになっていた。普通の肉体労働系のバイトに比べると時間効率は格段に良かった。25年前は生演奏をやるイベントやお店はもっと多かったのだろう。
 誰か仲間や音楽の先輩が話を持って来たり、どこかの事務局から電話がかかってきたりする。演奏するのは今回のようなホテルでのイベントやダンパ(ダンスパーティ・・・死語)、ピアノラウンジや生演奏付きのバー、キャバレー、スキー場のペンション等である。僕ら学生が音楽事務局から連絡されるのは主にトラ(代役)としてで、事務局の方もプロの人の穴があいて困ることも多いらしく学生の連絡先リストを持っていたようである。

 当時のバイショウを思い出すと、、、

 大阪の繁華街でのキャバレー。店の名前は忘れた。だいたいは京都での学生バンド活動が多かったが大阪でやっていたバンドが一つだけあって1−2回このバイショウに呼ばれた覚えが。。。当時の典型的なキャバレーでステージがあり客のBOX席があっておねえちゃんがいる、という感じの店。ポップスやジャズを譜面を渡されて演奏する。(バイショウの譜面は基本、当日お店に行ってから渡される)
 同じく京都三条にあるベラミという当時の京都では名の知れたキャバレー(山口組田岡組長狙撃事件のあったところ)。ここは仕事がきつい。30分のステージが5回あって報酬がたったのG(ゲー)千(5,000円)。客層もそれなりなので演奏も緊張してやっていた。メイン演奏がクールファイブだったことも。。。
 大阪の某企業のダンパ。当時やっていたソウル系バンドにて。ダンパが一番報酬が良かったし楽しかった。1時間ぐらいの演奏でバンドでC(ツェー)十万(10万円)ぐらい。もっとも十人近くのバンドだったから人数割りだが。
 嵐山の方に赤まんまという店があった。ピアノラウンジ風のお店。ピアノだけでやったり歌の人が入ったり。
 梅田のラウンジの話があって行った時はボーカルのおねえさんが演奏中にしか譜面を配ってくれないのでスリル満点。次の曲の紹介をしながら横から譜面を渡してくる。ピアノはウタバン(歌の伴奏)では前奏を出さなければいけないのでこういうのは非常に厳しいのだ。
 クリスマス・シーズンはホテルでのイベントが多くちょくちょくバイショウ話があった。ベースのHさん(大学先輩)とRoseで京都のホテルでやったことがあった。Hさんがホテルに工事かなんかの作業の人と間違われて大笑い。
 スキー場のペンションでの演奏。若い女の子がたくさんいながら仕事に徹する学生バンドマン。当時も今も真面目?
 
 という感じで1回5千円から1万円ぐらいなのだが、拘束時間は短かいし(通常は3時間ぐらい)何しろ貧乏学生だったもので報酬としてはありがたかった。好きな音楽の演奏でお金になる訳だし勉強にもなるのでできるだけ断らずにやるようにしていた。
 
 バイショウ、特にキャバレー系のやつは基本的にやるべき音楽の種類が決まっており、中にはマンボとか演歌曲も含まれる。当然ながら自分の好きな音楽をやれる訳では無いのでミュージシャンもバイショウの時は結構つらい場合も多いはずだ。なかなか音楽で食べて行くのは難しくて当時も名のあるミュージシャンでも結構バイショウをしていた。

 という訳で会社に入ってから純粋なバイショウらしいバイショウをしたのは今回が初めてだと思う。10年程前に新宿のスナックで月一で演奏していたことがあったが、これは基本的にバンドでやりたい歌をやらせてもらっていたので。また最近(3年前)では千葉の職場近くのバーでこれも月一でやっていてお金もいただいていたが、こちらも好きにやらせていただいていた。

 今回のイベントや客層の品格が高かったのでこちらも気持ちよく演奏ができた。最近は生バンドもハヤラないので、こういう仕事もだいぶ減ったようだ(この日にやったベースのOさん談)。でも機会があれば、たまにはこういうバイショウもいいな、と昔を思い出しながら書いてみた。

 (写真は直接関係ないのだがマイルス・デイビスの書いた絵)