金曜日, 1月 26, 2007

仕事、冬の時代に学んだこと

 どんな状況でも楽しみながら仕事をしているのですごく脳天気な人間と思われているが、そんな僕にとって仕事、冬の時代というべき時期があった。会社の仕事のことで泣いたことなどほとんどないのだがこの時は悔しくて涙が止まらなかった。やせ我慢する方なのでもちろん人前で泣くわけではないのだが、人知れず何時間も号泣した経験の一つ。

 僕がぎりぎり20代の頃、まとまった仕事を任される機会があった。ある地方銀行のお客様で情報システムを構築する仕事。そのお客様は某メーカーのシステムを使い続けていて、うちの会社のシステムを初めて採用した新規顧客だ。こういうお客様はITに関する文化が違い理解いただくのに苦労するものだ。僕は構築提案から入った。うちの会社の価値を享受いただきコスト的にも見合うのはパッケージ開発しかない。いくつかの同業態のパッケージ化を検討した。この経験は初めてではなかったのでいくつかの評価観点を設けて比較を行った。結果、西南方面の銀行のパッケージが最適と思い提案した。提案は受け入れられ、僕はそのままプロジェクト・マネージャ(PM)をやることになった。やりがいのある仕事だと思った。

 しばらく横浜の自宅から出張形式で仕事をしていたが、現場監督であるPMが現場にいなければ仕事にならない、と家族を連れて地方都市に転勤した。

 プロジェクト計画を作った。期間は2年と3ヶ月。要員は平均約20名。完璧な計画ができたと思った。ただしそれをお客様が理解していただければ。僕は若くて未熟であった。パッケージの修正率を抑えることとプロジェクト工程の精緻さに気が入って、お客様のシステムに対する想いと業務を理解していなかったのだ。
 
 お客様のカウンター・パートの人はOさんといって僕より一回り上の年齢の凄まじい人だった。その感情的なことと思い込みが激しく非条理なところはお客様の組織の中でも特異な存在のようだった。僕の業務理解不足と経験不足はすぐにOさんにはわかったに違いない。日々の攻防が始まった。何しろ人格を否定するような責め方をするのだ。しかも政治的にいやらしい感じではなくすごく純心な人で思ったことをそのまま口に出すタイプの人なのだ。僕にもくだらないプライドがあり、言い続けられることは精神的に耐えられなかった。

 肉体的にも極限状態となった。Oさんの要望を満たすことが信頼を得る必要条件であったため、優先順位の低いことでも彼のためにやらなければならなかったのだ。この考えが間違いと気付くのは随分後のことだったが、その時はいたしかたなかった。普通の日の睡眠を3~4時間にして土日の両方を出ても彼の要望には追いつかない。その状況が数ヶ月続いた。

 僕は少しずつ精神的に肉体的に参っていった。

 計画は少しずつ遅れていった。表面上は遅れずに品質上遅れていったのだ。Oさんにそれを理解してもらおうと努力した。しかし彼はまったく僕を相手にしなかった。そして予定通りにプロジェクトが進んでいるという自信を持ち続けた。彼もまた経験が無かったということは後からは理解できた。

 プロジェクト・メンバー全員にアンケートを出した。何が問題か?何をすれば解決できるか?いい意見をたくさんもらった(手書きでもらったその紙は今でも机の中にある)。しかし実行に移せることは少なかった。そして僕とOさんとの関係を見てメンバーの心も僕から離れていった。僕はお客様からも自分のメンバーからも孤立していった。

 次に僕は会社に訴えた。僕は任されていたために管理されることがなく、状況の報告を要求されなかったことも禍したのだ。自分の上司に訴えた。このままでは絶対に期日どおりの開発ができないこと。Oさんを替えるように会社として働きかけるべきであること。そうすれば成功すると思えること。本当はそれが本質ではなかったことにも気付かなかったのだ。その頃に上司だった人はとても優秀なシステム・アーキテクトでどちらかというと政治的な切った張ったは苦手な人だった。Oさんはこの人のこともなめきっていたし、この人もお客様に働きかけることはできなかった。また会社からははもっと切羽詰まったプロジェクトがありこれはまだましな方だと言われて有効な対応を取ることはできなかった。

 とうとう破局がやってきた。稼動予定日の3ヶ月前のことだ。当時お客様のIT部長であり役員である人は人格者で僕はいろいろな相談をしていたのだが、Oさんを飛び越えて話すのを避けたのに加えて精神的に参り始めてからはあまりこの人にも真実を伝えられないでいた。諸々の報告結果からこの人がプロジェクトの状況を「危機的な状況にある」と判断したのだ。もちろん正しかった。開発の遅れと機器手配の遅れにより予定通りの稼動は不可能、というものだが本質はそんなものではなくプロジェクト管理が破綻していていたからなのだ。それもこの人は理解していた。僕の会社に対する大きな激しいクレームが届けられた。
 
 すべての見直しがなされた。体制的には簡単に言うとOさんはお客様の組織内でリーダーから外され、僕は自分の会社の中で外された。お客様のPMは副部長クラスのYさんとなり、自分の会社のPMは大ベテランのHさんとなった。(Hさんは昨年会社を辞められたがその直前に話をする機会があり、本人はそのつもりだったのでプロジェクト・マネージメントはどうあるべきだということを紙にまとめて手渡してくれた。)
 僕もOさんも逃げるわけにはいかない。そのままプロジェクト内にアドバイザーという名目で残されたが失敗したリーダーとして辛い立場となった。その他にも採算を度外視して要員を投入し新体制によるプロジェクト計画の見直しの後にスケジュールは約半年の遅延となった。

 僕は一時すごい虚無感にとらわれた。今まで一生懸命やってきたことは何だったのだろう。自分が立てた計画は何の意味があったのだろう。もはや僕はリーダーでも何でもなくこの何年かやってきたことは何の価値もなかったというのか。
 でも逃げてはいけないと思った。どんなことにも耐えて最後までやろう。プロジェクトが終わってシステム開発が完了するまで。

 幸いなことにHさんも同時に参加したサブリーダー格の同期のMも、またお客様もプロジェクトとして協調路線となりその後のプロジェクトを何とか進めることができた。最後は会社側の1リーダーとして稼動の儀式に参加させてもらった。この6ヶ月は何も考えずに、「逃げない」ということだけを自分に言い聞かせた。

 すべてが終わり、僕は転勤先から東京の本社に戻ることになった。この頃は戻る時期も既にわかっていたので家族は子供の幼稚園の都合で先に横浜に戻っていた。荷物をすべてダンボールに詰めて部屋に山積みにして明日は引越しという最後の晩だった。仕事を終えて家に帰り布団だけ残して最後の箱詰めを行った。

 そしてダンボールの山に囲まれながら、部屋に座り込むと僕はここに来て初めて泣いたのだ。
 「僕は負けたのだ。負けてこの地を去るのだ。仕事に失敗し僕を信頼した会社の期待に応えられなかったのだ。僕について来た人々を不幸にしたのだ。」
と思うと悔しくて涙が止まらなかった。大声をあげて泣いた。眠れもしなかった。目の前に積まれたダンボールの山を見ながら何時間も泣いた。

 ここでの仕事は僕にとって大きな意味を持つことになった。プロジェクトの失敗経験はもちろん大きな教訓となった。それに加えて大きく学んだことは2つあった。

 人との仕事上のやり取りに関してどんなに厳しくても激怒されても、あの時のOさんに比べるとまだましだと思うと精神的に耐えられるようになったのが一つ。そういう意味でOさんには妙に感謝している。

 どんな状況でも絶対に逃げない、ということに関してが二つ目だ。仕事に対して精神的に信じる拠り所があれば、立場がどうであれ逃げない自信がついた。次に同じような状況になっても決して逃げないだろう。

 比較的長く辛い時期を過ごしたこの頃は、僕にとって仕事冬の時代であった。身につけたことをバネにして新しい仕事に臨んでいるつもりである。
 それからの仕事も成功ばかりではないが自分の精神面を強くした経験としてこの冬の時代に身に付けたことが役に立っている気がするのである。  

土曜日, 1月 20, 2007

茶道体験

 ほぼ毎年、年初に自分のプランを立てる。仕事のこと、音楽のこと、生活のこと、健康のこと、成長のこと。お茶をやってみたいと思ったのは今から3年前の2004年の年初だった。

 なぜそう思ったのかをはっきり説明できないのだが、上の子供とやっていた剣道(前の年に2段を取得、これについてはまた別途)をやめてしばらくたったころで次のように考えていた。
 日本人のアイデンティティを持つために日本の文化を理解できることをやってみたい。他国の人に日本人が何であるかを説明できるものを僕は持っていないのではないか?

 高校1年生の時に僕は京都の宇治市にいて東宇治高校(宇治のブラバン時代参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/05/blog-post_18.html)というところに通っていた。担任の先生が体育の先生でサッカー部顧問のK先生といったが、彼はスポーツをやりながらお茶をやっていた。何でこんな男の先生がお茶なんて、と思いながらも「ちょっとかっこええなあ」と思っていた。

 母がずっとお茶をやっていた。茶室での母など見たこともないし興味もなかったが、本棚にはお茶の本、大事にしているお茶の道具を時々持ち出して稽古に行くのを覚えている。母は膝を悪くしてから本格的にお茶をやるのはやめてしまったが不審庵(表千家)の教授で今でもカルチャー・センターで聾唖者の方に教えているとのこと。

 そんなようなこともあってお茶をやってみたいと思ったのだとおもうが、その年は仕事上の大きなトラブルとその後の大きな契約とプロジェクト・スタートがあり何もできずその後お茶をやる機会を失っていた。そんな時に仕事仲間でお茶を習っているかつきちが気楽に教えてくれる先生なので来てみないかと誘ってくれたため、それなら是非と行くことにしたのだ。

 本当に何も知らないのも失礼かと思い、入門書を買って読む。言葉だけでも覚えようかと。昨年の11月に初めてお稽古に参加。一から教えていただき身の引きしまる思いだ。剣道でもそうだが作法や型を一生懸命に覚えるというのはそれだけでも心が磨かれるような気がするものだ。本日2回目の会に行く。今日は新年会だったのでいつもとは違う趣でありくだけた感じで楽しかった。

 立ち振る舞いを覚えるのと精神的な落ち着きを身につけるためにもやってみて価値のあるものと思った。続けてみよう。

 母のところに行きお茶を始めてみることにしたことを言うと驚いていた。基本的なことを教えてくれ、というといくつか教えてくれた。茶碗、楊枝、服紗、茶巾、お懐紙などを僕に譲ってくれた。

 しばらく続けてみたいと思う。以下は先生や母から教わったことの備忘録である。本当は体で覚えないといけないのだと思うが何しろ覚えが悪いため書かないと忘れてしまうので書くことにする。書くこと自体がお茶をやっている方にとっては邪道と思うのだがご容赦いただきたい。覚えたことを順次追加・修正していくが 流派によっても違うし、まったくの初心者なので理解も浅いためあくまでも僕にとってのメモとなっている。間違いも多いので教わりしだいわかった部分は直していくが参照するのは危険と思うのでこの点もご了承いただきたい。

(以下割愛)

日曜日, 1月 14, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その2)


 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。前回はまた音楽をやり直してみようと思ってからバンド活動を再開し、ピアノを弾くことを諦められずにまた弾き始めたことを書いた(社会人になってからのバンド活動を想う(その1)参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/01/blog-post.html)。それからのこと、つまりこの10年ぐらいを書いてみたい。 (一部mixi仲間に関してはハンドル・ネームを使わせてもらっているのでご容赦ください)

 社会人になって最初に再開したバンドは学生時代の気の知れた仲間を集めた「ほくそ笑みブラザーズ」というバンドだったがボーカルのE嬢が旦那のN(テナーサックス)の仕事でアメリカに行ってしまった。E嬢なき後の「ほくそ笑みブラザーズ」の話。
 その時(1997年)に仕事で担当していたお客様の接待中にお客様の業務部長(当時次長だったか?)のカラオケ、大都会を聞いてこれは!と思いバンドやりませんか、とモーションをかける。とてもいい人でこの後しばらくやることになったのがS田さんだ。歌もうまいし落ち着いていてステージ映えもするボーカリスト。まずはポップス曲、ロック曲を16ビートにアレンジしてやった。Time after time とか Honky Tonk Womanとか。 メンバーはベースが当時「ゆめゆめJail」というバンドでやっていたS、ドラムスが「まつ」関連で紹介してもらったTK大のE沢くん、オリジナル・メンバーのギター・コジロウ、キーボードH。それからコーラスにTの奥さんの友達のYちゃん。一時期はやはりその頃の僕のお客様関連で知り合ったAさんというボーカルが入っていた時もあった。ホーンセクションは死神ホーンセクションと呼んでいてオリジナル・メンバーのアルト・サックスK、テナー・サックスY(通称死神博士),バリトン・サックス・えんたく(特技「女」)。

 しばらくするとビートルズの曲を集めて16ビート・アレンジでやるようになった。メンバーはほぼ同じ。Elinor Rigby、Drive my car、Sgt. Pepper's lonely hearts club band、Lovely Rita など。 ビートルズは僕がPOPSを聴くきっかけになった音楽だ(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。対バンでライブをやった。この頃から自分のやりたい音楽をテーマを決めて一つずつやっていこうと思い始めた。

  ビートルズの次が「We need Miles」バンド。Miles Davisは僕がJazzをやり始めた理由でありやり続けている理由でもあるミュージシャンだ。Electric Milesに挑戦! 「ほくそ笑みブラザーズ」の対バンで知り合った「まごごろの家」というバンドがあった。宗教団体でも介護施設でもなくTR大のOBと現役のバンド。リーダーでドラムスのMは最高にファンキーな男だった。このバンドのメンバーに声をかける。「まごころの家」からドラムスがM、ギターがN、キーボードがA、ベースがM、トロンボーンがF。「ほくそ笑みブラザーズ」系からアルト・サックスK、テナー・サックスY,バリトン・サックスえんたく、キーボードH。
 ライブでやった曲は今から思うととてもチャレンジでTutu, U and I、One phone call などはいいとしてライブでやっていたStar Peopleからの曲を中心としたメドレーや何と Jack Johnson のダイジェスト再現までやった。ご法度のような気もするが演奏はかなり面白いものになった。ブレークのパターンをいくつか作ってテンション溢れたライブとなった。 六本木First Stage(http://www2.odn.ne.jp/firststage/)にて。1998年ごろ。

 次は「e-Hancockバンド」Herbie HancockのElectricアルバムから。と言ってもだいぶ後期だが。メンバーはMilesバンドとほぼ同じだがベースがTR大現役のSくん、キーボードに対バンで知り合ったKさん、ボーカルに「ほくそ笑みブラザーズ」のS田さんとやはり仕事で知り合ってすでに一緒に流しのバンド活動をやっていたM嬢、ドラムスは後述のParadise Go Go!関連で知り合ったUさん、「まごころの家」のMくんはパーカッションで。曲はFeetsよりYou bet your love、SunlightよりI thought it was、Dis is da drumから一曲、Tell me a bed time story など。1999年だと思ったがやはりFirst StageでのライブとTR大の学園祭で演奏させてもらった。この頃は「まごころの家」の関係で毎年のようにTR大の学園祭で演奏していた。知らない現役の人は僕のことをOBだと思っていたかもしれない。

 そして「I wish!」。言うまでもなくStevie Wonderのカバー・バンドだ。Key of Life 全曲やるぞ~!と立ち上げた。全曲はできなかったがそれでもまるまる2ステージのレパートリーを持っていた。ボーカルはS田さん、コーラスにYちゃん率いるBagus,パーカッションに「ゆめゆめJail」つながりのO戸くん。後はほくそ笑み系でギター・コジロウ、アルトサックスK、トロンボーンF、バリトンサックスえんたく、ベースS、キーボードがHと僕。2回ライブをやった。まあまあ安定した演奏で良いライブができた。

 M嬢との流しのバンド活動に関して。M嬢はジャズ・ボーカルを勉強中であったがとても活動的で上野アリエスなどで定期的にライブをやっていた。1998年頃から「First Friday Orchestra」というバンドを結成した。メンバーはM嬢、ベースSと僕がコアでトランペット&パーカッションAO(学生時代Foul Playersで共演、「まつ」関連バンドでのつきあい)、テナーサックスえんたく(このところずっとやっている、特技は「女」)が入れれば入る。

 First Friday の由来について。当時新宿に「まあチキン」というスナックがあってココットさんというママがいた。何故この店に出入りするようになったかというと、「ほくそ笑みブラザーズ」のリハの後で居酒屋で打ち上げをやっていると隣のオジサン・オバサンのグループが盛り上がって歌を歌いだした。それもなかなか本格的。意気投合して一緒に歌っているうちにそのうちの一人であるココットさんの店で合同演奏会をやることになったのだ。ココットさんは若い頃ほとんどプロとして活動してきたボーカルの人でほんとにうまかった。後はクラシック・ピアニストのOさん(女性)。男性も何人かいて会社員だが昔はかなり鳴らした感じのシャンソン・ボーカリストだった。合同演奏会自体は僕が先走りすぎて一部のオジサン・オバサンに反感を買いはらはらしたが、最後は何とか気持ちを通じることができた。そして月1でこの店でライブをやらせていただくことになったのである。第1金曜日の夜と決めたのでFirst Friday Orchestra。
 仕事のある平日なので余程うまくスケジュールする必要があったが1年以上無欠勤でライブ活動を続けた。曲はすべてJazzスタンダードの歌もの。歌伴は今まであまりやっていなかったのと曲数も広げなければいけなかったため勉強になった。終わった後はそのままお店で飲んで夜中になるとセッション風に演奏をし続けた。とても楽しい思い出となった。

 M嬢とはJazz以外にもソウル系の曲をとりあげてやったことがある。「Soul Edition」というバンドでドラムスがAO、ギターがT、ベースがS。対バンのライブを2回ぐらいやったと思う。
 この頃、会社の同じ部門にI村とRという人がいた。I村は同じキーボードでParadise go go!(同名のアイドルバンドとは別) という息の長いバンドをやっている陽気な男。Rはヨーデルの世界では名が知れていると自分で言っておりバイオリンも弾ける生まれつきのエンタテーナーだった。この頃からI村の企画でライブ・イベントをやるようになった。またRも司会、バイオリン等でイベントに参加した。「Soul Edition」でもI村企画の対バンのイベントでRを入れてステージをやった。AOとRと僕でヨーデル風アカペラに挑戦したがこれは失笑を買った。

 2002年にE嬢が日本に戻ってきた。さっそくバンドを再開することにした。Jazzスタンダードのボーカル・バンドを始めた。 ドラムスはAO、ベースはKonceptのK、アルトサックスK、テナーサックスえんたく(後に脱退)、トロンボーンFでずいぶん長いことやっている。年に3~4回ライブをコンスタントにやるようにしているためだいぶバンドとしての余裕ができてきた。E嬢がMCで場を盛り上げてくれるから助かる。定例的にやっているのは学生時代からの付き合いでH大学出身テナーサックスのTの経営している「なってるハウス」。「まつ」のイベントにも不定期で出演している。

 2003年にボーカル,コーラスのYちゃんからTower of Powerのカバー・バンドをやらないかと誘われる。TOPのオルガン・パート弾けるなんて、それだけで嬉しかったのですぐに加入。Revive Brainというとてもレベルの高いバンドですごく勉強と刺激になった。リード・ボーカルは関西系でD大出身のKちゃん。共通の知人も何人かいた。コーラス&パーカッションは同じく関西系のKやん。金融マンとは思えぬファンキーさ。コーラスはYちゃんとAちゃんの二人(Yちゃんは後に脱退)。ドラムスは会社員もやりながらプレイヤーとプロデューサーを両立させているEさん。すごいバイタリティーと思う。ベースはIくんで付き合いやすいキャラですごい努力家だ。ギターがEarth Wind & Fighters(知る人ぞ知るEW&Fのカバー・バンド)のギタリストで最高の音楽性と寛容な人間性を持つすばらしい人だった。ホーン・セクションがすごい。楽器を職業でやっている人が中心でペットのコージさん、ボントロのチーズさん、テナーサックスのノムヲさん、トランペットのTDLさんに加えてアルトサックスのK(D大、ほくそ笑み関連)。TOPのホーン・パートを毎回ほとんど一発で合わせていた。高田馬場でのイベントを皮切りにFriday、Thums upなど横浜中心にライブを数回やった。惜しくも解散してしまったがすばらしいメンバーだった。

 解散に前後してコージさんに声をかけられてMaynerd Fergusonを追求されるバンドに参加する。演奏レベルが高くて音楽や楽器にかける情熱がすばらしい人ばかりで、ピアノは僕なんかでいいのだろうかと感じるぐらい。その名もMF Tributeバンド(http://www7.plala.or.jp/tp/mf/)。トランペットはリーダーのMFパートのコージさん以下、トップのカルロス、Magnum、マネージャのYoshiさんで全員が素晴らしいプレイヤーだ。ボントロは熱いプレーのスティーブとRevive Brainでも一緒だったチーズ。スティーブが出張中にKさんがトラの時期があった。アルトサックスにKさんとテナーサックスのノムヲさん。ノムヲさんと僕は寸暇を惜しんで酒を飲む習性が似ている。リズムセクションはプロでやっているベースのsato-hiroくんとRevive BrainのドラムスのEさん。このリズム・セクションでのスリリングな展開が最近とても楽しみになっている。  昨年の横浜のLaf & Stingでのファースト・ライブをスタートにBフラットでの対バン、DugホールでのMF追悼ライブ(会場マネージャは以前ほくそ笑みでやってもらってたトランペットのKさん)。Maynerd Ferguson氏は2006年8月23日に亡くなった。このバンドは実は9月に氏が来日する際にクリニックを受け前座をやる予定だった!氏の急な逝去にはバンド一同本当に悲しんだ。  トランペッターのエリック宮城さんにバンドとしてクリニックを受けた時は本当に勉強になった。やはりプロの音楽力の深さはもの凄い。かつ辛抱強く教えていただきエリックさん人間の深さを感じた。先の追悼ライブでは何曲か共演していただいた。
 Magnumの依頼で実力派で本格的な活動をしている藤沢SJS(喇叭ヲタクさんリーダー)のイベントに参加させてもらった。大きなホールでプロ・トランペッターの田中哲也氏と共演しとても気持ちよかった。K大時代の同期でK大フルバンのバンマスだったTと再会。
 このMF Tributeというバンドは本当に僕のピアノなどでは不足なのだがみんな暖かく受け入れてくれるので何とかやっている。これからもライブ活動を続けていくだろう。

  この何年か仕事で千葉氏の外房線鎌取という駅の近辺に住んでいるのだが地元でのささやかな音楽活動ということでAnchor Down(http://www.age.ac/~tomas/i/pagebar_anchor.shtml)というバーで月一回のライブを行っている。もう2年近くになる。当初はベースのKさんが入っていたが仕事が忙しくなり(東京から平日移動しなければならない),今はパーカションのO戸くんと二人でやっている。

 そして最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げた。始めたばかりなのでまだどうなるかわからないのだが、ソウルフルなボーカル・バンドをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 自分を表現すること、音楽を通じて人と会話できてお互いを高め合えること、そして素晴らしい仲間と知り合えること! バンド活動により音楽を続けていくことによりいくつになっても豊かな人生を歩んでいきたいと想うのだ。

火曜日, 1月 02, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その1)


 最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げることにした。大人のゆったりしたそれでいてパワフルなソウルをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。ただし全部書くとすごく長くなると思うので最初の10年ぐらいを忘れないうちに書いてみる。

 学生時代にはかなり真面目に音楽をやっていたが(「学生時代の音楽活動を想う」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)、大学を卒業して会社に入った時は中途半端に音楽をやるのがいやでもうバンド活動はやめようと思っていた。学生時代に書き溜めていたコピー・ノート(ジャズの人はフレーズや曲を聞いてコピーして自分のものにする)を学生時代を過ごした京都で未練を断ち切るために燃やしてしまったぐらいだ。
 今までと180度違う会社の世界で何とか生き抜こうと必死だった頃大きな事故にあって(「バイク・リベンジ!」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_116251630224272367.html)長い期間、入院をしたのが音楽を再開するきっかけとなった。2度目の入院の時だった。ベッドの上で僕は無性に曲が書きたくなったのだ。家の人に5線紙を買ってきてもらって楽器もないのにベッドの上で曲を書いた。メロディもコードもすぐに頭に浮かんだ。歌なんか歌えないのに歌詞も作った。それでまたバンドをやることにしたのだ。

 学生時代の仲間に声をかけた。ボーカルのE嬢、テナー・サックスのN(E嬢の夫)、キーボードの後輩のH、ギターのTだ。E嬢、N、Tとは学生時代に同じバンドで知った仲だ。Hは同業なので同じバンドでは無いが最もよく遊んだ後輩で信頼できるプレイヤー。ホーン・セクションでもう一人、Hと同期のD大の有名なビッグバンドのコンマスであったKがアルトサックスで参加してくれた。ドラムはD大出身で当時から活躍していたスタジオ・ミュージシャンのSが手伝ってくれることになった。
 キーボードのHに参加してもらったのは、もう僕はピアノはちゃんと弾けないだろうと思っていたからだ。作曲に徹してバンドではベース・ラインをキーボードで弾こうと思いベーシスト無しでスタートした。
 バンド名は「ほくそ笑みブラザーズ」。Hと僕の二人のキーボーディストのコラボレーション・イメージだ。だいたいピアニストとかキーボーディストとか言うのはアレンジをやったりバンド全体を見なければいけない場合が多く、またギタリストみたいにすかっとさわやかではないので、いつも演奏しながらほくそ笑んでいることが多いのだ。それで 「ほくそ笑みブラザーズ」。  曲は僕が先に書き溜めたものから始めてHも素晴らしい曲をこのバンドのために書いてくれた。リズムにはシークエンサーを使った。ドラムスはこれを補足する形で入ってもらったので難しかったと思う。その後、ベースのI(学生時代にChicのコピー等をやったバンドで一緒)を入れて僕も半分ピアノを弾いた。結成して1年ぐらいで恵比寿でライブを行った。ちょうど僕が結婚する少し前のことだ。
 スタジオでレコーディングを行った。僕のオリジナルとHのオリジナルとDee Dee BridgewaterのBad for meの3曲。最後にライブをやったのはE嬢とNがアメリカに行く前の1996年だった。この時はしばらくこのバンドで演奏ができないことがわかっていたので気合が入っており、ビデオが残っているが結構気に入ってる。この頃はホーン・セクションに何名か加わっていた。テナー・サックスにK大後輩のY(通称死神博士)、ペットに今Dag(楽器屋)でマネージャのような仕事をしているKさん、ボントロにD大出身のT。ドラムスがSから変わってK大の先輩のTさん。この人も素晴らしい。当時「いたち」という京都で有名なバンドのドラマーだった尊敬の先輩だ。
 このバンドはその後も不定期にずっと続き今でも休止状態だが解散していない。

 その次にやったバンドはフルバンドでギル・エバンス・オーケストラの曲をHがすべてコピー・アレンジしてやったGEバンド。本当にHはすごい。耳もセンスも抜群である。Hは主にコンマスに徹していて僕がピアノを弾いた。曲はLiberty City、Eleven、Gone gone goneなど。藤沢のClajaでライブをやったのとK大学のフルバン(現役、OB)が集まって横浜でフルバン大会をやった。この頃(1995年?)僕はもう一度トロンボーンをやる気になり(高校のブラバン以来、「音楽との出会い」参照)大学の後輩からCornの楽器を安く譲ってもらって練習を始めていた。GEバンドではボントロも吹いた。

 同じ頃、ボントロでコンボをやりたい、と思い始めドラムのAO(Foul Playersというバンドで学生時代いっしょにやった)から「まつ」というJazzサークル(?http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/index.html)を紹介してもらった。AOもドラマーだがここのところトランペットを本気でやっていて一緒にコンボ・バンドに入れてもらうことになった。リーダーはベースのKさんでバンド名はKoncept。Kさんは理論派ベーシストで(生活はあまり理論派ではないようだが)、この後も長くバンド活動をやることになる。フロントはAOがペット、テナーサックスがE(K大学の名物男、特技は「女」。これもまた後で紹介しないと...)、ボントロが僕。リズム・セクションがピアノがK原さん、ドラムスがO村さん。 スタンダードから始めてモードやKさんのオリジナル等をやった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1998/bonen.html)。

 調子に乗ってボントロで「まつ」メンバーで結成されている「まつビッグバンド」に参加させてもらう。ギターのセミプロでS崎さんという方が譜面提供、コンマス、指導をしてくれていた。この人は性格的にもとても素晴らしい人で丁寧な譜面を書いていただき僕みたいなボントロでも使ってくれて、とても楽しかった。

 さらにホーン・セクションをやりたくてベースのI(学生時代にDEWというバンドで一緒)がやっている「FB’s」に入れてもらう。池袋のYAMAHAでリハと飲み。とても新鮮だった。ギターはD大出身のA、ドラムスはスタジオ・ミュージシャンのS、アルト・サックスは「ほくそ笑み」でも一緒のK。ボーカルはYAMAHAの先生で女性の名前は忘れてしまったのだが、本格的にやっているいい感じの人だった。しばらく続けたが僕がボントロからピアノに戻りつつあったために脱退した。

 「まつ」関連が続く。「まつ」の催しでコンボで演奏することに。今度はピアノで。メンバーはKonceptからテナーのE、ドラムスのO村さん、ベースのKさん。ところが本番直前になってあろうことかO村さんが亡くなってしまったのだ。ショックだった。若いのに。ドラム無しの弔いライブとなった。荏原文化センターというところで力いっぱい弾いた(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/njf/index.html)。曲はKさんのオリジナル。

 さらに「まつ」イベントで例年新宿ピットインを借り切って忘年会ライブをやるのだが長年やりたいと思っていたKeith Jarrettのアメリカン・カルテットの曲を2曲やった。The Richという曲とShadeという曲。テナー・サックスは学生時代からのつきあいのT(なってるハウス店長)、E(特技「女」)、ベースはKonceptのKさん、ドラムスはDちゃん。みんな超強力で僕のやったコンボの中で最高の経験の一つとなった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1999/bonen3.html)。

 ともかく大きな事故がきっかけでまた音楽をやり直してみようと思った。ピアノを弾くことなんて諦めていたのだけれど、バンド活動を始めているうちにやはりどうしても弾きたくなった。ここから先の後半の10年は自分がやりたかった音楽をひとつずつ、少しずつ進めていくことになった。音楽は僕のアイデンティティーの一つだということがやっとわかったのだ。

ありがとう、音楽! ありがとう、いっしょにやってくれた皆さん!