土曜日, 9月 08, 2007

新入営業社員殺害未遂事件の真相


 先々週の富士山登山の直後に始めてハンドマッサージをしてもらいその時はとても気持ちが良かったのだが、何故か右親指の腱鞘炎が再発してしまった。もうすぐライブもあるし仕事でPCのキーボードを叩くのにも支障があるので心配である。まあそれは何とかなるとして。さて、この腱鞘炎の原因なのだがピアノの練習のし過ぎ、、、とかいうとかっこいいのだがそうではないのだ。

 この件は僕が会社関係の飲み会で起こした事件の中で最もやばいものの一つで実はあまり書きたくなかったのだが、この際書かざるを得まい。この腱鞘炎はM平という当時の営業新入社員のたたりと思われるからだ。それは2003年夏のこと。

 この件は「僕が酒に酔ってある新入社員であったM平がその時に言ったことに激怒しビール瓶で頭をかち割って殺そうとしたところ、酔っていた為にビール瓶が途中ですっぽ抜けて宙を飛んだために殺人にはいたらずM平は一命をとりとめた、これが原因でM平が退社した」、という極めて恐ろしい話が通説になっている。この事件の現場に居合わせた会社の後輩のKには、「あれを見てkohsさんにまともなこと言っても通じないということがよくわかりましたよ」等と言われる。まあ面白い話なのだが(面白くないか)、さすがにその話が出るたびに「いやいや、そんなことはないんだよ。本当に殺そうと思った訳じゃないんだよ。(当然なのだが)」と返したりしている。だが真相は本当にそんな積もりはまったくなく通説のようなことはなかったということを皆さんに(大概の方は関係ないが)知ってもらうために書いておきたい。

 その頃はSEマネージャになっており千葉の仕事が中心であった(センターとまことやの日々http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/03/blog-post_16.html参照)。何かにつけよく飲んでいたことは前のトピックスで書いたが(参照)、その日は何かまとまった宴会で一緒に仕事をしているSEやカウンターパートの営業含めて20人以上で飲んでいた。何かの打ち上げか暑気払いかそのような宴会だったと思う。店は千葉市富士見町というところにある五味鳥という店の2会で、この店の2階は一部屋しかない障子のある部屋で貸切状態であった。貸切で我々が飲み会をすると何かと事件が起こる可能性が高く過去にもこの店では一波乱があったようだ。

 M平について触れておこう。その年の営業の新入社員なので若い社員でもあり、あまり悪く書きたくないのだが自惚れやで礼儀に欠け接する人の第一印象はあまり好きになれないという印象を与える新人であった。一応断っておくがこういう人に対しても僕は長い目でみる方であり、良いか悪いかわからないがすぐに口うるさく注意することなく少しずつ変えていこうとするタイプの積もりなのである。M平の言動は何かと話題になり営業部でも要教育新人として先輩・上司から指導を受けていた。さてそのM平と居酒屋「五味鳥」で起こした事件が「新入営業社員殺害未遂事件」なのだが、どういうことかというと...



 ・・・・・・・・・


 実はあまり憶えていないのである。理由はかなり酔っていたからだ(あまり珍しいことではないが)。その日も一気あり(いまだに我々はこの文化、ちなみに流行語大賞「いっき」は入社した1985年)、スピーチありで散々飲んでいた。店は座敷であり、大勢で飲んでいる喧騒の中でM平は何人か離れた席にいた。その時どういう話をしていてこの事件になったかはさすがに気になったのでその時その場にいた人に聞いてみたのだが皆泥酔しているためあまり覚えていない。ただ、何となくはこんな話らしい。

 M平と他の何人かと何か仕事の青臭い話で議論をしていた。ところで僕は酒の席で真面目に仕事の議論をするのが実はあまり好きではない。感情・感覚の話は酒の席でも意味があるのだが、理論的な話は何の進展もないからである。そこで「そういう考え方もあるね」とか「まあ細かいことはいいんじゃないか」などと流すことにしている(仕事の時はもちろんちょっと違うが)。その時は何かM平が青臭い議論をふっかけていて先輩にそれは違うんじゃないの、的な話をしていたらしい。僕はあまり愉快ではなかったのだがM平を責める訳でもなく「まあそういう考え方もあるかもしれないけど」などと流していたらしい(何度も言うが憶えておらずその時近くにいたKの後日談。Kも細かくは憶えていないのだが)。

 憶えているのは次のシーンからである。

 M平が「kohsさん、YesかNoかはっきりしてください」と言う。
 僕はその一言でキレてしまう。 「M平、ちょっとこっち来い!」
 M平はやむなく移動して僕の横へ。
 僕は座ったまま右手でM平の胸ぐらを掴んで畳の上に押し倒す。座敷のテーブルの角がM平の頭の斜め上にある。
 そのまま右手で近くにあったビール瓶の口の部分を持って振り上げる。

 (ここが大事なのだが当然ビール瓶でM平を殴ろうと思った訳ではなくテーブルの角のところまで振り下ろして寸止めをしようというパフォーマンスだったのだ。いやいずれ普通の社会人の常軌は逸しているのだが。)

 ところが酔っているためにビール瓶は空中で手を離れる。
 ビール瓶はそのまま1列テーブルの先を越して座敷の窓にある障子まで飛んでいく。
 多少ビールが残っていたらしく障子にビールの跡を残し瓶はテーブルの向こうに落下。
 僕の手はM平の顔の真上で止まる。
 その後、何秒かM平はおびえた顔をして僕とテーブルの間で横たわっている。
 僕は「まあ、いいよ」(何がまあいいんだか)と言ってM平は席に戻る。

 これが新入営業社員殺害未遂事件の真相なのである。つまり当然殴る積もりはなく、ビール瓶が途中ですっぽ抜けなくてもM平が殺されることは無かったのである。

 その後、M平は先輩に諭されて「お前は今日は帰った方がいい」ということになり、「失礼します」と言って帰っていった。その後はその話題にはあまり触れることなく、その「五味鳥」での宴会を終わり2次会、3次会といつものヘビーな飲み会が続く。

 さて翌日だが、朝起きてこの事件を思い出し、M平もさぞ怖い思いをしただろう、と彼のオフィスに顔を出す。
 「おお、昨日は悪かったなあ。殺す気はなかったから悪う思わないでくれ。」などと会話していると、営業部ではちょっとした話題になっていて近くにいた営業部長が心配そうに近づいてきて「激しい飲み会だったらしいね。大丈夫なのか。」などと声をかける。

 それから何ヶ月かしてM平が会社を辞めるという話を聞いた。理由は彼は大学院出で父親も教授か何かなのだが、やはり学問の道に進みたいので卒業した大阪の大学に戻るというものだった。これが「会社の先輩(僕)に飲み会で殺されかけたので退社」という話になったものである。

 いや、元々企業で社会生活を営むには少し厳しかったのを本人も気付いたのだろう。「殺害未遂事件」が何らかの要因になったとは思っていないのだが、もしそうだとしても本人にとっては良かったに違いない。

 冒頭の腱鞘炎に関してだがビール瓶をにぎってテーブルの角に持っていく間に筋を違えたらしく、しばらく痛かった。この何週間はキーボードも叩けず、ピアノも弾けず。

 さて、これが「新入営業社員殺害未遂事件」の真相なのであるが読んでいただいた皆様はどのように感じられただろうか?

未遂事件の顛末に関して
 A.事の顛末は納得性があり自分でもそうするだろう。
 B.殺すつもりはなかったとしてもあり得ない行動でありM平が殺傷された可能性はあったのではないか?
 C.絶対に殺すつもりだったのを美化して書いているに違いない。

M平退社に関して
 A.M平が会社を辞めたのは彼自身の問題として当然の帰結である。
 B.M平退社とこの事件は何らかの因果関係があると思われる。
 C.M平は明らかにこんな恐ろしい会社にはいられないと思い退社している。

金曜日, 8月 03, 2007

「いやらしりとり」とネ倉○さんの話



 大学時代の数年間をある寮で過ごした(ネオンと黒壁の寮部屋での出来事http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/07/blog-post_15.html参照)。その寮でやっていた実にくだらなくも面白い遊びが「いやらしりとり」である。

「いやらしりとり」はある時期に主にバンド仲間により寮の僕の部屋で夜な夜な行われていた。この遊びはあまりにくだらないのと、しりとりの実例のほぼすべてが放送禁止用語のために公共のblogに晒すことがはばかられるために、雰囲気しか説明できない。

 ルールの原則は普通のしりとりで「ん」がついたらダメ。言葉は単語でもよいのが、文章でも良い。ただし、思いっきりやらしい、か、そこそこやらしいけれどかなり笑えるか、でなければならない。その発言が妥当かどうかはその場にいる過半数の賛同を得られなければならない。5人から10人ぐらいでやるのが適していると思われる。

 最初は単語から始まるが、だんだんと難易度を増し、次第にかなり凝った文章となる。普通のしりとりと同じで「る」で終わった時のバリエーションなんかはかなりの工夫が必要となる。その人の普段考えている煩悩・妄想または性癖が察せられて趣の深いものとなってくる。特に普段おとなしい、あまり女性付き合いもなかろう、と思われる堅物のベースのE等がとんでもないことを言うと「お前それ、めっちゃくちゃ、やらしいわ~!」などと盛り上がる。

 そんなある日、バンド関連でピアノをやっていた他の大学の研究室かなんかにいた先輩が不幸なことに僕の家に遊びに来てこの「いやらしりとり」をやることになった。この人はビル・エバンス風の繊細な演奏をする人で超純粋培養されたお勉強一筋の人らしくて、このようなたわけた遊びに加わるのは可哀想なのであるが、そこは401号室の規則にのっとり容赦は無い。

 この人は倉○さんと言う方だったが、極めておとなしい先輩だったために失礼な話なのだが「ネ倉○さん」と呼ばれていた。

 しばらくして酒がまわってくると、

「ネ倉○さん、これからいやらしりとりという遊びをやりますから。順番一番最後でええですから、一周したらだいたい要領わかると思いますし、入ってください。」

とおもむろに「いやらしりとり」が始まる。

 ×××、○○○○○、△△△、□□□で○○○をする、×××を日に何回どうたらこうたら、、、、などと続く。最後が「く」で終わり、ネ倉○さんの番となる。

「く、だね、じゃあ行くよ、、、、、じゃあ、、、黒いカラス。。。。」

一同、「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」

「いや、違うんですよ。いやらしいことを少しでも言うてもらわんとあかんのですよ。」、「1回パスしますから、次の番の時はよろしく頼みますわ。僕らの言うのを聞いて参考にしてください。」と2周目を続ける。

 そしてネ倉○さんの次の番が回ってきた。前の人が何で終わったかは覚えていないのだが「じ」で終わったために、ネ倉○さんは、

「じ、だね。じゃあ行くよ、、、、、『女子高生の初体験』。。。。。」

「・・・・」「・・・・」「・・・・」「・・・・」一同しばらく間を置いてから、、、

「んで終わってますよ。んはあかんのですよ。」

「これは可哀想ですけど罰則をやっていただかんといかんですねえ。」

ということになり、罰則をしていただくことになったのだが、その罰則が何かということはこれはそれこそblogに書くのは憚られるのである。我々はその場でやるのであるが、さすがにネ倉○さんにその場でやらせるのは忍びがたきものもあり(僕らはその場でやるのだが)、じゃあトイレでもええですよ、という話になり、ネ倉○さんは寮のトイレに向かったのであった。その後、彼は部屋に戻らず、それどころか我々の中で彼の姿をこれ以降見たものは誰もいないのであった。

 この罰則が何かは、絶対にこういう場所では書けないのでご想像いただきたい。さわやかさと破廉恥さを伴った罰則であった。この罰則と今一緒にバンドをやっているボーカルのE嬢の関連が深いのだがこれも彼女の人格に誤解を与えるものであるため残念ながらここでは明らかにすることができない。

 という訳で肝心なところの記述ができなくて申し訳ないのだが、いずれにせよかなりくだらないことを連夜行っていたことは間違いがなく、消息不明となったネ倉○さんを思い出すと我々の中ではいまだにおかしくてしょうがないのであった。

 写真は「いやらしりとり」をやっていたころによく行った近くのカレー屋さんの「ビーヤント」。実は先週高校の同窓会で京都に行ってビーヤントのおばさんの健在を確認。これについてはまた書きます。

日曜日, 7月 15, 2007

ネオンと黒壁の寮部屋での出来事

熊野寮外観(HPより)


 京大熊野寮で大学時代の4年間を過ごした(注:4年で卒業したわけではない、1年目は下宿)。そのうち2年間をA-401号室というネオンと黒壁のある部屋で過ごしたのだが、ネオンも黒壁も僕が創造した産物でこの部屋は再起不能かと思われる。

 僕がこの401号室で空き放題に暮らすようになった経緯は次のようなものである。

 入学して今出川通りのお茶屋さんの3階に下宿(本当の昔ながらの部屋を借りる下宿)。当然のことながら素行上の理由(夜が騒がしい)で1年で出て行ってくれと言われる。

 かなり貧乏だったために寮生活をすることに。何しろ寮費は月700円で寮食は学食より安い!(しばらくして3倍の2,100円に値上げしたのだがそれでも下宿に比べると格安) 最初の1年は二人部屋、先輩のKさんといっしょだったが、この人が一度社会に出てからまた大学に入りなおした苦労人で、いろいろと親切にしてもらった。これが2年目。

 ところで寮は2つあって吉田寮(木造)とこの熊野寮。この2つの寮は昔から学生運動の拠点のように考えられていた。当時はまだ学生運動が下火ながらも続いていた頃で、やはり○○派の生き残りみたいな人がいるにはいたのである。僕はまったくのノンポリなのだがそれでも付き合いでシュプレヒコールやデモ行進に参加したことがある。当局(警視庁などの国家権力を指す)の捜査が入ることもあり、ある朝起きたら寮は機動隊に囲まれていた。何が困るってバイトにいけないのが何より困った。

 この寮には在寮期間中に一年だけ一人部屋に住むことができる。3年目は一人部屋に移り、E先輩からもらった土管で作った大スピーカーでJAZZをがんがんかけまくっていたので寮の広い敷地を隔てた表の丸田町通りまで聞こえていたという。

 そして4年目に規則上、二人部屋に移ることになった。この時に同じ寮で軽音楽部でベースをやっていたHと策略を練った。二人でA-401号室に入ることとし、当時彼女のマンションに同棲していたHを幽霊寮員として一人部屋化を図ったのだ。

 まず、部屋の壁を塗り替えてリフォームを図ろうとすべての壁を真っ黒に、桟の部分を青に塗ってしまった。この部屋は二人部屋使用なので18畳ぐらいあって結構だいへんだった。なぜ黒だったかというと、当時は黒ファッションが好きでライブの時なんかもよく黒装束服を着ておりこの色が僕のシンボルだったような気がしていたからだ。

 黒壁化は僕的にはかなり気に入っていた。訪れる友人は半分は僕だからしょうがないと諦め、四分の一があきれ、残りが「この部屋は再起不能やなあ。」顔をしかめた。つまり賛同する人はいなかった。

 その部屋には音楽関連その他の大勢の人が遊びに来て、打ち合わせ兼飲み会、音楽鑑賞兼飲み会、座談会兼飲み会など、純粋な飲み会など(つまりすべて飲み会)が繰り広げられた。土管スピーカーで音楽を聴きながら。

 ・バンドの打ち合わせ。曲を聞きながらみんなで次のライブの構想を練る。
 ・手に入れたトカゲ酒(瓶の中に本物のトカゲ入り)を後輩に飲ませる。「オレの酒が飲めんのか」的なパワハラのノリで。
 ・炊事場で友人のドラマーで中華料理店の息子が焼きそばとから揚げを作ってくれる。「肉に味を付けるんや」とさすがに旨い!
 ・H先輩と二人で飲みすぎでウォッカを二人で3本空けた結果、翌日病院送りとなり点滴を、、、情けない!
 ・銭湯に行くのが面倒な時は炊事場で石鹸で洗髪をする。
 ・「いやらしりとり」という遊びをする(これは寮生活の中で最もくだらなくも面白い記憶なのだが、書き方が難しいので後日)。
 ・純真な後輩が遊びにくるともっともらしい嘘を言って騙して遊ぶ(そんなに悪質ではないのでご心配なく)

 さてもう一つのネオンの方は何かというと、これは「看板及び標識の収集」をしていたことに関連する。その頃の僕は収集盗癖があり、何の罪悪感も感じていなかったのであるが、寮の部屋を独り占めしたことを良いことにネオン付きの看板及び交通標識を部屋のインテリアとして収集していた。

 酒を飲むと、「この看板ええなあ~」と言っていきなりコンセントを引き抜いて担いで持って帰るのである。喫茶店とかゲームセンターなんかのネオンがチカチカ光る結構大きいシロモノである。自分でやる場合もあるし人にやらせる場合もある。一緒に飲んでいた後輩に「お前ら、今日はこれを持って帰る。そこの二人で持って帰るんや。」「ええ! 勘弁してくださいよ。こんなん、めちゃ重いですよ~。」という後輩に「小さいことは言うな、行動開始や。」と無理やり担がせて寮の部屋まで持って帰るのであった。そうしているうちに寮の部屋はネオンの看板でいっぱいになった。

 交通標識も欲しいなあ、と思い「徐行」の看板を一つ、失敬する。後輩と飲んだ帰りに「このバス亭欲しいなあ。」、「ほな、持って帰りましょうか。」と動かしてみるのだが、これはさすがに重い! 10mで挫折した。(翌日市営バスの熊野神社前は10m西に移動していたはずなのだが何日かで誰かが元に戻したようだ。)

 さて、その401号室の生活も1年が過ぎ学生生活も5年目となった。幽霊寮員のHの件もさすがにこれ以上は寮管理者をごまかせず同居人を受け入れることになった。K君というのだが、これが都合のいいことにボクシング部員であった。何故都合が良いかというと僕は2回生の夏までボクシング部員で彼の一応先輩ということになるので体育会系の慣わしとして何でも言うことを聞くのである。
 ある日、こちらはバンド練習の後の飲み会で酔っ払って帰る。時間は深夜3時ごろ。401号室にバタンとドアを開けて入るとK君が慌ててムクっと起きて、「あっ、今日1:00ぐらいにEさんという方がいらしゃって、自分の部屋で飲んでるそうです。これで通じますか。」という。「ああ、わかった、わかった。」といいEのところに一升瓶を持って飲みに行くのだ。

 さてこんな寮生活も終わり、社会に出ることになった。看板類は横の談話室と言われる誰も使っていなかった共有部屋へ移動。さぞかし迷惑だったろう。寮の誰かが捨てたに違いない。部屋の黒壁はどうなっただろうか。何しろ色が真っ黒なのでその上から塗りなおしてもかなり無理がある。そのままかもしれないなあ。
 (付記:7月に恐る恐る見に行ってみた。部屋の中は見れなかったがドアは同じで僕が塗った青色のまま。当時貼ったライブアンダーザスカイ’84のステッカーまでそのまま。ドアは開き戸から何故か引き戸に改造されていた。談話室は人が住んでいたようだ。もちろん看板はない。)

 ところで最近同じマンションの違う部屋に住み替えることにした。その部屋の番号がA-401。偶然の符号ながらネオンでいっぱいになったり壁が真っ黒にならないことを祈るばかりである。

月曜日, 7月 02, 2007

日本橋酒気帯びひき逃げ未遂事件を振り返る


 上の事件が何年前のことだったかというと下の子供が幼稚園だったような気がするし、当時乗っていた車から考えても8-9年前と思う。

 その日は下の子供を車の後ろに乗せて何かの用事で都内を走っていた。自分の会社の近くを通りがかったのでせっかくだから子供に会社を見せようと思い自分のフロアの近辺まで連れて行く。その後、昼食時になったので新日本橋の近くにあるうなぎ屋さん(昔から好きで今でも時々行く店)に行くことにした。

 近頃は酒気帯び・酒酔い運転の取り締まりが厳しくなったが、昔のことでもあり、特に僕は多少の酒は気にせず飲んでいたので昼食についついビールを一杯。良い気分で店を出て駐車場から車を出した。その店は昭和通に面しており歩道を越えて昭和通に出そうとした時のことだった。

 歩道を低速度で走っている自転車がうかつなことに目に入らず接触。自転車の人は向こう側に倒れてしまった。怪我はなさそうだが自転車は傷がついたか?(まあそれぐらいの当たりだったのだが) 自転車の男は20代後半ぐらいで、やはり怒っていて無言ながら自転車を起こしながらこちらを睨んでいる。まずいなあ、大事にならないうちに早く自転車代払って示談で済まそう。と思って車をとび降りる。

「すみません! だいじょうぶですか。。。」

と声をかける。するとすごくすごくアンラッキーなことが起こった。何故かその直後にチャリのお巡りが2人、たまたま巡回していたのか、やって来てしっかり現場を取られてしまった!

「とりあえず近くの署まで来てもらいましょう。」

 署の近くに車を停めて小さな派出所程度の警察署に子供と一緒に連行される。子供は飴でも食べていなさい、と言われて待合室に。僕は事情聴取に。

 調査の質問が始まって5分くらい。

「あなた飲んでるでしょう?」

 やっぱ、ばれるよなあ。覚悟する。

「実は。。ビールを1本だけ。。」

「酒気帯びで事故起こしたら普通の会社とかだと懲戒免職なんだよ。」

「...」

 困ったなあ。

「とにかく被害者の人の聴取が終わるまでしばらく待ってなさい。」

 1人で小部屋に待たされる。横の部屋では被害者の自転車青年の事情聴取が行われているようだ。 まったくこんなことで本当に免職とかになったらかなり気まずいなあ。「すまん!」だけでは家族にもすまんだろうなあ。

 何分か待っていると、すごくラッキーなことが起こった。署の人が来て、

「どうも相手の自転車の人、あんたと同じ会社の人みたいだよ。話してみる?」

 何と! いくらうちの会社の社員が多いからと言って、休みの日の会社から近いところでもないところに、たまたま自転車で走っている人とたまたま駐車上から出てきた車の運転手が同じ会社だなんて! 

 自転車青年のところに行く。

「同じ会社なんだって? 部署はどこですか? SEなの? へえ、じゃあミッドレンジ・サーバーだね? いや悪かった、申し訳なかった。最上級の自転車買って弁償するから、云々かんぬん。」

という訳で自転車を弁償することで事なきを得る。いや、ほんとに危ないところだった。銀行口座を聞いてそれなりの額を振り込んで示談となる。さて事なきを得たその後の話としては下の幼稚園の子供の事である。この子はどちらかというと現金で母親派でありよく裏切られることが多いのだが。。。気まずい思いをさせたと思い声をかける。

「すまんなあ、S(下の子の名前)、怖くなかったか?」

「いや、別に。。。」

「まったくビールなんて飲まなきゃよかったなあ。」

「え、うん。。。」

などと帰りの車の中でぎこちのない会話をする。それが家に帰ったとたん、母親のところに駆け寄って、

「お母さん、今日はたいへんだったんだよ! お父さんがお酒飲んで運転して警察につかまっちゃって。僕はもう怖くて、怖くて、、云々かんぬん・・・・・」

う~む、これは殺すしかないな、この下の子供は。。。とこの時、心に決めたのであった。(似たようなことがこの後、この子と二人で旅行した時にももう一度。それはまた。写真はこの頃だったと思われる下の子供がミニ四駆に夢中の時代)

 とにかく、九死に一生を得て酒気帯びひき逃げ→懲戒免職は免れた事件であった。自転車青年はまだ弊社にいるであろうか? 

金曜日, 5月 18, 2007

宇治のブラバン時代


 つい先日、母校である高校(といっても途中で転校したので卒業してないが)のコミュニティーが無いか探していたらみつかって(http://mixi.jp/view_community.pl?id=444127)、先生の名前を知っているトピックスがみつかったので加入してコメントしてみた。当時いっしょだった人の何人かと思わずネットで知り合うことができた。(写真はコミュニティの管理人殿より借用) この頃の話を思い出して書いてみよう。

 宇治市の宇治中学校というところに3年生の時に転校したのは西暦で言うと1976年の春。その前は三重県の中学校にいて部活は剣道をやっていたのだが、転校することがわかってから転校先の剣道部でなめられたらいかん、と思い練習に励んでいた。ところが、転校してみると何と剣道部が無かった。。。。

 というわけで吹奏楽部に入ってトロンボーンをやることにした。入部した理由をよく人に聞かれる時期があったが、何が、「という訳なの?」と言われると竹刀に一番近いのはどう考えてもトロンボーンやろ? と答えることにしていた。中学3年生から高校2年生まで宇治市に住んでいたのだが、やはりこの3年間を象徴するのはブラバン!という気がするのだ。

 宇治中の吹奏楽部はとても練習熱心で今から考えてもレベルが高かったのではないか、と思う。同じクラスのtbのKちゃん(男子、と当時風に言っておこうか)が部長をやっていた。彼はホントに絵に書いたような優等生でみんなから慕われていた。トランペットのN(男子)は高校も同じだったので最近でも時々会う。副部長は隣のクラスのTだが彼にはよくいじめられた。同級生ではやはり高校まで一緒だったフルートのSさん(女子)、ホルンのUさん(女子)、ユーフォニウム後にパーカッションのI(男子、当時おもちゃ屋)。高校は違うがフルートのFさん(女子)、ホルンのKさん(女子)なんかを思い出す。後輩はtbのN君、F君やトランペットのF君とかがいた。担当の先生は個性的なK先生と面倒見のいいM先生。やった曲で思い出すのは何だろう? コンクールで死ぬほど練習した曲名、思い出せないなあ。曲は思い出せるのだが。あとは旧友とか空軍大戦略(映画音楽)とかのマーチかな。

 高校受験をした。木幡という京阪電車の駅から坂を上って行く東宇治高校に入学することになった。この頃は吹奏楽というか音楽が自分の人生の大きな比重を占めるようになっていた(「音楽との出会い」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。ピアノは淀に住んでいる先生のところに習いに行っていた。高校の吹奏楽部に入った。同期ではアルトサックスのYさん、テナーサック数のFさん、トロンボーンのN、チューバのO、ユーフォニウムのI、パーカッションのKさんとIW、クラリネットのSさんとKさん、フルートのSAさん、トランペットのNとKちゃん,ホルンのUさんとSさんがいた。何故だいたい思い出せるかというと、Iがとてもマメで同窓会をよくセットして連絡してくれるのでわりと最近でもよく会うからだ。Kちゃんとは大学に入ってからKIXというオリジナル・バンドをしばらくやっていた(「学生時代の音楽活動を想う」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)。

 何しろ宇治にいた3年間の一番の思い出はブラバンなのだが、東宇治高校の1年上の先輩は結構強烈で影響を受けたので紹介しておく。
 男子編。トランペットのKセン(K先輩という意味)が何しろ印象深い。ブラバンの部長をやっていてよく一緒に遊んでもらった。タバコを教わったり、部活が終わるとTシャツに着替えてビール飲みに行ったり。簡単に不良と一言で言えない不思議な人だった。高校は中退でイギリスに留学してその後は色々あって今は生きているやらわからない。ドラムのU先輩はちょっと病的ではあったがクールな感じの人でKセンとよくつるんでいた。この人も確かイギリスに留学したと思う。ユーフォニウムO先輩(男子)はかなりむちゃくちゃな人で暴力事件をちょくちょく起こしていた、と思うのだがこの人も色々あって今は生きているやらわからないのだ。僕はトロンボーンのI先輩とかチューバのT先輩とかが結構好きで二人とものんびりしたいい味を出していた。
 女子編。クラリネットのT先輩はすごくきれいな女性だったなあ。ホルンのA先輩はすごく真面目で理屈っぽく思えたのだけど今から思うととてもいい人だったかも。好きだったのはフルートのY先輩だった(これは初めての告白かな、まあ時効ということで)。

 ブラバンは実は2年生の時に一度やめてしまったのだ。進学のことで色々考えて父とも口論のあげく(参照)やめたのだが、どうしてもやりたくなって夏あたりからまた復活した。本当は2年生になってから僕が部長をやるような流れだったので、何人かの人から色々と責められた。この頃のことは多少の後悔とともに何とも言えない思い出になっている。
 この時代にやった曲で印象にあるいくつか。夏にコンクールがあって体育会的に練習するのだが、OBのH先輩やT先輩(先の女性のT先輩の兄)が指導をしてくれた。クラシックでは「ダッタン人の踊り」とか「交響曲第3番オルガン(サンサーンス)」とかをやった。ブラスバンド用の曲というのはやはりその編成用にできているのでクラシックとはまた違ったドラマティックな曲が多くて好きだった。「メイン・ストリーム」とか「第一組曲」とかこの頃やった好きな曲の記憶がある。Kセンの趣向でフルバンド(JAZZのビッグバンド)の曲をいくつかやったのがとても楽しかった。「ムーンライト・セレナーデ」とか「追憶」とか「サムシング」とかが記憶にある。後はPOPS系で「スカイハイ」とか「ルパン三世のテーマ」とかかな。言われればたぶん、ああ!って思い出す曲がいっぱいだろうなあ。

 宇治川の中瀬に塔の島というところがあってそこで毎年オープン・エアー・コンサートというのがあった。とても恥ずかしい思い出が一つ。屋外に作られた舞台で演奏中にバランスを崩して椅子ごとそのまま後ろにコケた! 不注意もあり今でも思い出すと恥ずかしい! 恥ずかしいと言えばもう一つなのだが、自転車通学をしていたのだが、学校の帰りに同期のYさん(前述)を後ろに乗せて、すごいドジなことに彼女を落としてしまったのだ。彼女は擦り傷を受けてしまい僕は面目もない。。。この2つが当時、まだとても子供だった時代の印象的な思い出だ。

 ブラバン以外の諸々の思い出。

 2年生の時に仲がよかったHと当時はやり始めていたスペースインベーダーをしに六地蔵のボーリング場へ(授業中)、ブロック崩しもよくやったなあ。同じく2年生のクラスで面白くて人気のあったYやTなんかは顔が目に浮かぶ。1年生の時に文化祭で「ぞうさん」をコーラス・アレンジして優勝。2年生の時は「ウルトラマン・シリーズ」をやったけどこれは2番煎じでだめ。 クラスの催しでフィーリング・カップル的なことをやってピッタンコだった人がほんとに好きだったのだがフラれる。校長室で校長先生から訓示を受ける、今から思えばこの方は人格者だったなあ。

 残念ながら高校3年生より関東の学校に転校することになった(「ルーズな進学校での一年」http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_18.html)。でも宇治の3年間は成功も失敗もあり。僕にとって特別な時期だったような気がするのである。

金曜日, 3月 09, 2007

「項羽と劉邦」の登場人物に学ぶ

(「項羽と劉邦」に見る人物観(上)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_11.html参照)
(「項羽と劉邦」に見る人物観(中)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_16.html参照)
(「項羽と劉邦」に見る人物観(下)http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/02/blog-post_22.htmlより続く)

 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の話に従って感じ入ったところを書き出してみた。多くの登場人物が魅力に溢れ、僕にとっての学ぶべき人生観となっている。いずれも歴史上の大人物でありそのまま生き方を真似ることはできないので、それぞれの局面や状況によってこの人のように生きたい、と思うのだ。以下はどのような状況ではこの人の生き方を学びたいかということを考えてみた。
 ちなみに僕はIT企業に勤めているのだが、学びたい観点は自分の身の回りの仕事に関連することが書いてあるのであまり広くない特定の世界になっているかもしれない。

1.長期的な権力とリーダーシップを取る
 <例えば大企業の経営者になるということ>

 長期政権を維持した漢の国王として劉邦は美徳をもって語られている(日本での典型は徳川家康)。人のいうことに耳を傾け、つまらぬプライドは捨て、キャラクターとして人に愛されて人間的であるためにたくさんの人間に助けてあげようと気持ちを起こさせる。人間的に強い態度を常に出し続けるというタイプではなく時には弱音をはき、逃げ出すこともあるのだが自分が大きな袋であるということを自分に言い聞かせていたのではないだろうか? 結果、様々な才能がそのもとに集まり、張良のような最高のブレーンと韓信のような最強の部隊に支えられて天下を取った。寛容で人の欲というものをよく理解した褒賞を行うことによりその後も政権を確保し続けたのだと思う。大会社の経営者になるためには劉邦のスタイルは意識と態度の点で大きく参考にされるだろう。しかし劉邦のように生きる努力をするということに意味があるか? それはNOだと思うのだ。出会った人々に対して劉邦のような意識を持ち態度を取ることは意味があるだろうが、天下を取ったことは結果であり劉邦のような人間はきっとたくさんいてこのように生きれば天下が取れるということではないように思えるのである。

 僕は大企業でなくても良いが会社の経営をやることを目標に会社生活を営んでいる。成功したトップの例として劉邦の意識と態度を頭の片隅におきながら違うリーダーシップのスタイルを複数取る努力を続けて生きていきたいのである。

2.危機的状況を乗り切り成功に導く
 <例えば事業リーダーとして前面に立って奇跡的な成功を導くこと>

 危機を乗り切る場合や飛躍的な成功をする状況では卓越した能力と爆発的な情熱により周囲を従わせることが必要となる。このような状況では項羽のように自らが前面に立って率先垂範するスタイルが必要となる。この人についていれば必ず勝てるのだ、という感をいだかせる個としての強烈なパワーを持っている。人を愛し(親しい人だけではあるが)、愛される魅力的な人物だったに違いない。

 時として比較的短期的に危機を乗り切らなければならない状況がある。とんでもないトラブルを解決させて修復しなければいけない場合やとても間に合わないと思えるスケジュールで仕事をやり遂げなければならない場合。こういう時は僕は恐らく項羽のようなリーダーをイメージして行動しているかもしれない。自分が先頭に立つ。ゴールとやり方を示す。メンバーにそれを必ず遂行させる。必ずしも良いスタイルではないのだが必要な場合があるのだ。困るのはこういう場面での僕を見てそういう人間だと思われることが多いことだ。そうでもないんですよ、ほんとに。 

3.戦略により強大な組織を成長させる
 <例えば長期戦略を持ち経営企画として組織経営を助けるということ>

 登場人物の中でやはり人気が高いのが張良なのではないだろうか? 司馬遷の見た絵姿より察せられるといわれる美少女のような容貌と病弱な体と史上最高の軍師であったことのアンバランスも確かに魅力的である。始皇帝を暗殺しようとした若い頃の情熱と激しさを秘めながら常に劉邦に良策を与える。どちらかというと机上の戦略家であった張良に劉邦は全面的な指揮権を与えるために張良は本領を発揮する。張良の凄さは長期的に色んな状況におけるストラテジストであったことである。戦局だけではなく政治においても戦略を持ち漢帝国を長期的に支えた。
  范増 は楚においてどうであったか。范増もやはり深い智謀の持ち主であり楚のブレーンであった。しかし張良とは違い才能を自分の未来に活かすのではなく、蓄えた才能を若い項羽に与えた老練なアドバイザーだったのだと思う。
 
 20代や30代前半までは僕は間違いなくこういう生き方に憧れていた。三国志では諸葛孔明が一番好きだったし、企画とか戦略という言葉は今でも好きだ。天才的なブレーンよりも大きな勢力を持つリーダー志向にどこかで生き方が変わったみたいだ。范増の年になったらまた戻るのかもしれないなあ。

4.思いを達成するために自己実現にこだわる
 <例えば思想と知恵を持ってソリューションやアーキテクチャーを提供するということ>

 自分の才能を買ってくれる人であればその才能を活かしたいというタイプで智謀に富んだ人物の一人は陳平だ。 張良とともに劉邦軍の計略を支えた。蒯通は韓信という最強の将軍を材料にして自分の描く覇者のイメージを具現化しようとした。候公もまた自分の能力を買ってくれる主を求めて劉邦に仕え項羽との戦いにおける重要な解決策を示した。彼らの共通点は自分の主を題材とした自己実現であった。そして彼らの主は彼らの策をよく取り入れたのである。

 会社に勤める僕にとって会社が自己実現の題材であるという点はまったく同じだ。また会社の持つ能力や資産を利用してお客様に解決策や思いを提案するという点も近いかもしれない。一点違うとすれば彼らは人を題材としてそれを行い、その人が王になることを望んだが僕が題材としているのはあくまでも企業組織であるという点である。

5.完璧なスタッフ・ワークによって組織機能を支える
 <例えば企業運営に必要な機能を淡々とやり遂げるということ>

 企業に必ず必要な人間で有能でなければならない。蕭何はもの静かで分析的で淡々と事務をこなし難局にも表情を動かさない人物を想像させる。漢軍の勝利の影には必ず蕭何の法令とロジスティックスと人事があった。韓信を採用し一時逃亡したのを引き止めたのも蕭何であった。

 残念ながら僕にはこの資質が0のように思える。 蕭何のような人物を探すばかりである。

6.ストーリーを持って相手を説得し組織を救う
 <例えばTopに対して短時間で解決策を説得できる営業やコンサルタントであるということ>
 
 春秋戦国の時代の流れをくむ縦横家は皆そうだったのだろう。理論と情熱をもって人を説き伏せる。売ることにより利益を求めるのではなく説得すること自体に生きがいを求めるという点を除けばセールスに近い。れき食其は劉邦軍において外交上何度か難しい説得を引き受け、最後は斉王に対する説得に成功するが戦略上の手違いにより煮られる。そのことに何の後悔も無かっただろう。隋何は虫も殺さぬ婦人的な性格を持ちながら項羽軍の大勢力であった英布の寝返りを説得して成功する。これをやるにあたって隋何が死を覚悟していたことを張良は気づき劉邦に教えるのである。二人とも儒者であったことは形式主義がこの頃の縦横家のスタイルを支えていたのではないか。

 エレベーター・ピッチという言葉があるが極めて短期間に大きなディールが成立する場合がある。時宜を得て完璧なシナリオを語ることに命をかけることは一つの生き方かもしれない。必ずしも真実でなくてもその場における完全なるシナリオの説得。騙されたとしてもそれが気持ちのいい種類の説得なのである。スピードを要する仕事には必要と思う。


7.目的を達成するために大きな権力を持つ
 <例えばプロジェクト・マネージャとして大きな組織権力を持つということ>

  一番好きな登場人物である韓信のことを書く。純粋に軍事と言うものを仕事と捉えて仕事における情熱において成功した人物である。その目的を達するために必然的に大きな勢力を持つことになり主である劉邦もの疑惑を生じさせ殺されかけることになる。権力を持ちたいと思って仕事をしたのではなく、仕事を成功させるために権力を必要としたところが大好きなのである。項羽に評価されずに劉邦軍の蕭何の面接を受けたときの話は紹介した。純粋な自信を元に押し出しの強いところがスタートとして大切だと思っている。その後歴戦において勝ち続けて漢軍の中央機構に関して顧ることなく諸国を自分の領域とするのである。その勢力は劉邦はもちろんのこと項羽や秦帝国をも凌ぐことになる。その後どうするというのは大きな疑問を投げかけるのだがここまでの影響力を持って敵からは恐れられ、味方から畏怖の念を起こさせるリーダーというのは僕はやはり憧れている。成功した後の立ち回りがもう少しだけうまければ漢成立後にも生き残ることができたであろう。
 誰につくべきかを考えずに同じように純粋に仕事に専念した天才が章邯であり、韓信と同じタイプのリーダーと思っている。人望も高い。趙高 の中央政治に関してはわかっていながら仕事に集中するためにわかろうとしない努力をした。秦帝国が存続するという確信があって戦っていたかというとおそらく違うだろう。
 さて李斯はどうだっただろうか? 彼は政治を意識して身を立てて秦の重職についたが趙高の政治計略にはまり失敗をした。仕事そのものに対する執着はなかったであろう。

 僕はプロジェクト・マネージャとして仕事をしている時に韓信のように生きたいと思う。自分の仕事を成功させるためにより大きな勢力を得て、より大きな権力を持ち続ける努力をするのだ。 自分の属する会社や組織が長期的に成功をするかどうかを計算して選択をしたい。章邯は自分を犠牲にしたのだが現代社会人の生き方として僕はそれはしたくない。それでは最大の勢力を得た後にどうすべきなのか? 韓信は自分を排除しようとする漢政府の動きが読めなかった。政治的センスのある部下を持ち耳を傾けるべきであったろう。自分のキャパシティぎりぎりの勢力をもったところで生き方を変えて別のタイプのリーダーシップを取ることができればベストなのではないだろうか。

8.バランス良く第3勢力として生き延びる
 <例えば関連会社の社長として影響力を与え続けるステークホルダーであるということ>

 彭越は半漁半盗の親分であり地方において勢力を持ち続けた。劉邦についたが常に微妙なバランスを取り続けて正規軍と一線を画してのらりくらりとした戦闘を展開する。劉邦は一大勢力を敵にするわけにいかず疎な協業関係を結んで楚に対するのだ。広大な領土と地位を与えられた彭越は楚を滅ぼすにあたっての重要な役割を担う。
 韓信にも第3勢力の要素があった。しかしこちらは純粋な軍事家が大きな勢力を持ちすぎたためにそうせざるを得なかったのではないか。
 彭越も韓信も後に劉邦の妻呂后の政略により殺されることになる。

 最近、この生き方をとてもおもしろく感じることがある。会社の内外を問わず多かれ少なかれ派閥が存在して時に反目する場合がある。その時にどちらも正しくないと思えるのであればある勢力を確保してバランス良く泳ぐ行き方をしばらくはせざるを得ない。勢力を維持することが必須である。またいつまでもこの状態を保つのは極めて困難であることは歴史も示している。

(完)

金曜日, 1月 26, 2007

仕事、冬の時代に学んだこと

 どんな状況でも楽しみながら仕事をしているのですごく脳天気な人間と思われているが、そんな僕にとって仕事、冬の時代というべき時期があった。会社の仕事のことで泣いたことなどほとんどないのだがこの時は悔しくて涙が止まらなかった。やせ我慢する方なのでもちろん人前で泣くわけではないのだが、人知れず何時間も号泣した経験の一つ。

 僕がぎりぎり20代の頃、まとまった仕事を任される機会があった。ある地方銀行のお客様で情報システムを構築する仕事。そのお客様は某メーカーのシステムを使い続けていて、うちの会社のシステムを初めて採用した新規顧客だ。こういうお客様はITに関する文化が違い理解いただくのに苦労するものだ。僕は構築提案から入った。うちの会社の価値を享受いただきコスト的にも見合うのはパッケージ開発しかない。いくつかの同業態のパッケージ化を検討した。この経験は初めてではなかったのでいくつかの評価観点を設けて比較を行った。結果、西南方面の銀行のパッケージが最適と思い提案した。提案は受け入れられ、僕はそのままプロジェクト・マネージャ(PM)をやることになった。やりがいのある仕事だと思った。

 しばらく横浜の自宅から出張形式で仕事をしていたが、現場監督であるPMが現場にいなければ仕事にならない、と家族を連れて地方都市に転勤した。

 プロジェクト計画を作った。期間は2年と3ヶ月。要員は平均約20名。完璧な計画ができたと思った。ただしそれをお客様が理解していただければ。僕は若くて未熟であった。パッケージの修正率を抑えることとプロジェクト工程の精緻さに気が入って、お客様のシステムに対する想いと業務を理解していなかったのだ。
 
 お客様のカウンター・パートの人はOさんといって僕より一回り上の年齢の凄まじい人だった。その感情的なことと思い込みが激しく非条理なところはお客様の組織の中でも特異な存在のようだった。僕の業務理解不足と経験不足はすぐにOさんにはわかったに違いない。日々の攻防が始まった。何しろ人格を否定するような責め方をするのだ。しかも政治的にいやらしい感じではなくすごく純心な人で思ったことをそのまま口に出すタイプの人なのだ。僕にもくだらないプライドがあり、言い続けられることは精神的に耐えられなかった。

 肉体的にも極限状態となった。Oさんの要望を満たすことが信頼を得る必要条件であったため、優先順位の低いことでも彼のためにやらなければならなかったのだ。この考えが間違いと気付くのは随分後のことだったが、その時はいたしかたなかった。普通の日の睡眠を3~4時間にして土日の両方を出ても彼の要望には追いつかない。その状況が数ヶ月続いた。

 僕は少しずつ精神的に肉体的に参っていった。

 計画は少しずつ遅れていった。表面上は遅れずに品質上遅れていったのだ。Oさんにそれを理解してもらおうと努力した。しかし彼はまったく僕を相手にしなかった。そして予定通りにプロジェクトが進んでいるという自信を持ち続けた。彼もまた経験が無かったということは後からは理解できた。

 プロジェクト・メンバー全員にアンケートを出した。何が問題か?何をすれば解決できるか?いい意見をたくさんもらった(手書きでもらったその紙は今でも机の中にある)。しかし実行に移せることは少なかった。そして僕とOさんとの関係を見てメンバーの心も僕から離れていった。僕はお客様からも自分のメンバーからも孤立していった。

 次に僕は会社に訴えた。僕は任されていたために管理されることがなく、状況の報告を要求されなかったことも禍したのだ。自分の上司に訴えた。このままでは絶対に期日どおりの開発ができないこと。Oさんを替えるように会社として働きかけるべきであること。そうすれば成功すると思えること。本当はそれが本質ではなかったことにも気付かなかったのだ。その頃に上司だった人はとても優秀なシステム・アーキテクトでどちらかというと政治的な切った張ったは苦手な人だった。Oさんはこの人のこともなめきっていたし、この人もお客様に働きかけることはできなかった。また会社からははもっと切羽詰まったプロジェクトがありこれはまだましな方だと言われて有効な対応を取ることはできなかった。

 とうとう破局がやってきた。稼動予定日の3ヶ月前のことだ。当時お客様のIT部長であり役員である人は人格者で僕はいろいろな相談をしていたのだが、Oさんを飛び越えて話すのを避けたのに加えて精神的に参り始めてからはあまりこの人にも真実を伝えられないでいた。諸々の報告結果からこの人がプロジェクトの状況を「危機的な状況にある」と判断したのだ。もちろん正しかった。開発の遅れと機器手配の遅れにより予定通りの稼動は不可能、というものだが本質はそんなものではなくプロジェクト管理が破綻していていたからなのだ。それもこの人は理解していた。僕の会社に対する大きな激しいクレームが届けられた。
 
 すべての見直しがなされた。体制的には簡単に言うとOさんはお客様の組織内でリーダーから外され、僕は自分の会社の中で外された。お客様のPMは副部長クラスのYさんとなり、自分の会社のPMは大ベテランのHさんとなった。(Hさんは昨年会社を辞められたがその直前に話をする機会があり、本人はそのつもりだったのでプロジェクト・マネージメントはどうあるべきだということを紙にまとめて手渡してくれた。)
 僕もOさんも逃げるわけにはいかない。そのままプロジェクト内にアドバイザーという名目で残されたが失敗したリーダーとして辛い立場となった。その他にも採算を度外視して要員を投入し新体制によるプロジェクト計画の見直しの後にスケジュールは約半年の遅延となった。

 僕は一時すごい虚無感にとらわれた。今まで一生懸命やってきたことは何だったのだろう。自分が立てた計画は何の意味があったのだろう。もはや僕はリーダーでも何でもなくこの何年かやってきたことは何の価値もなかったというのか。
 でも逃げてはいけないと思った。どんなことにも耐えて最後までやろう。プロジェクトが終わってシステム開発が完了するまで。

 幸いなことにHさんも同時に参加したサブリーダー格の同期のMも、またお客様もプロジェクトとして協調路線となりその後のプロジェクトを何とか進めることができた。最後は会社側の1リーダーとして稼動の儀式に参加させてもらった。この6ヶ月は何も考えずに、「逃げない」ということだけを自分に言い聞かせた。

 すべてが終わり、僕は転勤先から東京の本社に戻ることになった。この頃は戻る時期も既にわかっていたので家族は子供の幼稚園の都合で先に横浜に戻っていた。荷物をすべてダンボールに詰めて部屋に山積みにして明日は引越しという最後の晩だった。仕事を終えて家に帰り布団だけ残して最後の箱詰めを行った。

 そしてダンボールの山に囲まれながら、部屋に座り込むと僕はここに来て初めて泣いたのだ。
 「僕は負けたのだ。負けてこの地を去るのだ。仕事に失敗し僕を信頼した会社の期待に応えられなかったのだ。僕について来た人々を不幸にしたのだ。」
と思うと悔しくて涙が止まらなかった。大声をあげて泣いた。眠れもしなかった。目の前に積まれたダンボールの山を見ながら何時間も泣いた。

 ここでの仕事は僕にとって大きな意味を持つことになった。プロジェクトの失敗経験はもちろん大きな教訓となった。それに加えて大きく学んだことは2つあった。

 人との仕事上のやり取りに関してどんなに厳しくても激怒されても、あの時のOさんに比べるとまだましだと思うと精神的に耐えられるようになったのが一つ。そういう意味でOさんには妙に感謝している。

 どんな状況でも絶対に逃げない、ということに関してが二つ目だ。仕事に対して精神的に信じる拠り所があれば、立場がどうであれ逃げない自信がついた。次に同じような状況になっても決して逃げないだろう。

 比較的長く辛い時期を過ごしたこの頃は、僕にとって仕事冬の時代であった。身につけたことをバネにして新しい仕事に臨んでいるつもりである。
 それからの仕事も成功ばかりではないが自分の精神面を強くした経験としてこの冬の時代に身に付けたことが役に立っている気がするのである。  

土曜日, 1月 20, 2007

茶道体験

 ほぼ毎年、年初に自分のプランを立てる。仕事のこと、音楽のこと、生活のこと、健康のこと、成長のこと。お茶をやってみたいと思ったのは今から3年前の2004年の年初だった。

 なぜそう思ったのかをはっきり説明できないのだが、上の子供とやっていた剣道(前の年に2段を取得、これについてはまた別途)をやめてしばらくたったころで次のように考えていた。
 日本人のアイデンティティを持つために日本の文化を理解できることをやってみたい。他国の人に日本人が何であるかを説明できるものを僕は持っていないのではないか?

 高校1年生の時に僕は京都の宇治市にいて東宇治高校(宇治のブラバン時代参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/05/blog-post_18.html)というところに通っていた。担任の先生が体育の先生でサッカー部顧問のK先生といったが、彼はスポーツをやりながらお茶をやっていた。何でこんな男の先生がお茶なんて、と思いながらも「ちょっとかっこええなあ」と思っていた。

 母がずっとお茶をやっていた。茶室での母など見たこともないし興味もなかったが、本棚にはお茶の本、大事にしているお茶の道具を時々持ち出して稽古に行くのを覚えている。母は膝を悪くしてから本格的にお茶をやるのはやめてしまったが不審庵(表千家)の教授で今でもカルチャー・センターで聾唖者の方に教えているとのこと。

 そんなようなこともあってお茶をやってみたいと思ったのだとおもうが、その年は仕事上の大きなトラブルとその後の大きな契約とプロジェクト・スタートがあり何もできずその後お茶をやる機会を失っていた。そんな時に仕事仲間でお茶を習っているかつきちが気楽に教えてくれる先生なので来てみないかと誘ってくれたため、それなら是非と行くことにしたのだ。

 本当に何も知らないのも失礼かと思い、入門書を買って読む。言葉だけでも覚えようかと。昨年の11月に初めてお稽古に参加。一から教えていただき身の引きしまる思いだ。剣道でもそうだが作法や型を一生懸命に覚えるというのはそれだけでも心が磨かれるような気がするものだ。本日2回目の会に行く。今日は新年会だったのでいつもとは違う趣でありくだけた感じで楽しかった。

 立ち振る舞いを覚えるのと精神的な落ち着きを身につけるためにもやってみて価値のあるものと思った。続けてみよう。

 母のところに行きお茶を始めてみることにしたことを言うと驚いていた。基本的なことを教えてくれ、というといくつか教えてくれた。茶碗、楊枝、服紗、茶巾、お懐紙などを僕に譲ってくれた。

 しばらく続けてみたいと思う。以下は先生や母から教わったことの備忘録である。本当は体で覚えないといけないのだと思うが何しろ覚えが悪いため書かないと忘れてしまうので書くことにする。書くこと自体がお茶をやっている方にとっては邪道と思うのだがご容赦いただきたい。覚えたことを順次追加・修正していくが 流派によっても違うし、まったくの初心者なので理解も浅いためあくまでも僕にとってのメモとなっている。間違いも多いので教わりしだいわかった部分は直していくが参照するのは危険と思うのでこの点もご了承いただきたい。

(以下割愛)

日曜日, 1月 14, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その2)


 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。前回はまた音楽をやり直してみようと思ってからバンド活動を再開し、ピアノを弾くことを諦められずにまた弾き始めたことを書いた(社会人になってからのバンド活動を想う(その1)参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2007/01/blog-post.html)。それからのこと、つまりこの10年ぐらいを書いてみたい。 (一部mixi仲間に関してはハンドル・ネームを使わせてもらっているのでご容赦ください)

 社会人になって最初に再開したバンドは学生時代の気の知れた仲間を集めた「ほくそ笑みブラザーズ」というバンドだったがボーカルのE嬢が旦那のN(テナーサックス)の仕事でアメリカに行ってしまった。E嬢なき後の「ほくそ笑みブラザーズ」の話。
 その時(1997年)に仕事で担当していたお客様の接待中にお客様の業務部長(当時次長だったか?)のカラオケ、大都会を聞いてこれは!と思いバンドやりませんか、とモーションをかける。とてもいい人でこの後しばらくやることになったのがS田さんだ。歌もうまいし落ち着いていてステージ映えもするボーカリスト。まずはポップス曲、ロック曲を16ビートにアレンジしてやった。Time after time とか Honky Tonk Womanとか。 メンバーはベースが当時「ゆめゆめJail」というバンドでやっていたS、ドラムスが「まつ」関連で紹介してもらったTK大のE沢くん、オリジナル・メンバーのギター・コジロウ、キーボードH。それからコーラスにTの奥さんの友達のYちゃん。一時期はやはりその頃の僕のお客様関連で知り合ったAさんというボーカルが入っていた時もあった。ホーンセクションは死神ホーンセクションと呼んでいてオリジナル・メンバーのアルト・サックスK、テナー・サックスY(通称死神博士),バリトン・サックス・えんたく(特技「女」)。

 しばらくするとビートルズの曲を集めて16ビート・アレンジでやるようになった。メンバーはほぼ同じ。Elinor Rigby、Drive my car、Sgt. Pepper's lonely hearts club band、Lovely Rita など。 ビートルズは僕がPOPSを聴くきっかけになった音楽だ(音楽との出会い参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_04.html)。対バンでライブをやった。この頃から自分のやりたい音楽をテーマを決めて一つずつやっていこうと思い始めた。

  ビートルズの次が「We need Miles」バンド。Miles Davisは僕がJazzをやり始めた理由でありやり続けている理由でもあるミュージシャンだ。Electric Milesに挑戦! 「ほくそ笑みブラザーズ」の対バンで知り合った「まごごろの家」というバンドがあった。宗教団体でも介護施設でもなくTR大のOBと現役のバンド。リーダーでドラムスのMは最高にファンキーな男だった。このバンドのメンバーに声をかける。「まごころの家」からドラムスがM、ギターがN、キーボードがA、ベースがM、トロンボーンがF。「ほくそ笑みブラザーズ」系からアルト・サックスK、テナー・サックスY,バリトン・サックスえんたく、キーボードH。
 ライブでやった曲は今から思うととてもチャレンジでTutu, U and I、One phone call などはいいとしてライブでやっていたStar Peopleからの曲を中心としたメドレーや何と Jack Johnson のダイジェスト再現までやった。ご法度のような気もするが演奏はかなり面白いものになった。ブレークのパターンをいくつか作ってテンション溢れたライブとなった。 六本木First Stage(http://www2.odn.ne.jp/firststage/)にて。1998年ごろ。

 次は「e-Hancockバンド」Herbie HancockのElectricアルバムから。と言ってもだいぶ後期だが。メンバーはMilesバンドとほぼ同じだがベースがTR大現役のSくん、キーボードに対バンで知り合ったKさん、ボーカルに「ほくそ笑みブラザーズ」のS田さんとやはり仕事で知り合ってすでに一緒に流しのバンド活動をやっていたM嬢、ドラムスは後述のParadise Go Go!関連で知り合ったUさん、「まごころの家」のMくんはパーカッションで。曲はFeetsよりYou bet your love、SunlightよりI thought it was、Dis is da drumから一曲、Tell me a bed time story など。1999年だと思ったがやはりFirst StageでのライブとTR大の学園祭で演奏させてもらった。この頃は「まごころの家」の関係で毎年のようにTR大の学園祭で演奏していた。知らない現役の人は僕のことをOBだと思っていたかもしれない。

 そして「I wish!」。言うまでもなくStevie Wonderのカバー・バンドだ。Key of Life 全曲やるぞ~!と立ち上げた。全曲はできなかったがそれでもまるまる2ステージのレパートリーを持っていた。ボーカルはS田さん、コーラスにYちゃん率いるBagus,パーカッションに「ゆめゆめJail」つながりのO戸くん。後はほくそ笑み系でギター・コジロウ、アルトサックスK、トロンボーンF、バリトンサックスえんたく、ベースS、キーボードがHと僕。2回ライブをやった。まあまあ安定した演奏で良いライブができた。

 M嬢との流しのバンド活動に関して。M嬢はジャズ・ボーカルを勉強中であったがとても活動的で上野アリエスなどで定期的にライブをやっていた。1998年頃から「First Friday Orchestra」というバンドを結成した。メンバーはM嬢、ベースSと僕がコアでトランペット&パーカッションAO(学生時代Foul Playersで共演、「まつ」関連バンドでのつきあい)、テナーサックスえんたく(このところずっとやっている、特技は「女」)が入れれば入る。

 First Friday の由来について。当時新宿に「まあチキン」というスナックがあってココットさんというママがいた。何故この店に出入りするようになったかというと、「ほくそ笑みブラザーズ」のリハの後で居酒屋で打ち上げをやっていると隣のオジサン・オバサンのグループが盛り上がって歌を歌いだした。それもなかなか本格的。意気投合して一緒に歌っているうちにそのうちの一人であるココットさんの店で合同演奏会をやることになったのだ。ココットさんは若い頃ほとんどプロとして活動してきたボーカルの人でほんとにうまかった。後はクラシック・ピアニストのOさん(女性)。男性も何人かいて会社員だが昔はかなり鳴らした感じのシャンソン・ボーカリストだった。合同演奏会自体は僕が先走りすぎて一部のオジサン・オバサンに反感を買いはらはらしたが、最後は何とか気持ちを通じることができた。そして月1でこの店でライブをやらせていただくことになったのである。第1金曜日の夜と決めたのでFirst Friday Orchestra。
 仕事のある平日なので余程うまくスケジュールする必要があったが1年以上無欠勤でライブ活動を続けた。曲はすべてJazzスタンダードの歌もの。歌伴は今まであまりやっていなかったのと曲数も広げなければいけなかったため勉強になった。終わった後はそのままお店で飲んで夜中になるとセッション風に演奏をし続けた。とても楽しい思い出となった。

 M嬢とはJazz以外にもソウル系の曲をとりあげてやったことがある。「Soul Edition」というバンドでドラムスがAO、ギターがT、ベースがS。対バンのライブを2回ぐらいやったと思う。
 この頃、会社の同じ部門にI村とRという人がいた。I村は同じキーボードでParadise go go!(同名のアイドルバンドとは別) という息の長いバンドをやっている陽気な男。Rはヨーデルの世界では名が知れていると自分で言っておりバイオリンも弾ける生まれつきのエンタテーナーだった。この頃からI村の企画でライブ・イベントをやるようになった。またRも司会、バイオリン等でイベントに参加した。「Soul Edition」でもI村企画の対バンのイベントでRを入れてステージをやった。AOとRと僕でヨーデル風アカペラに挑戦したがこれは失笑を買った。

 2002年にE嬢が日本に戻ってきた。さっそくバンドを再開することにした。Jazzスタンダードのボーカル・バンドを始めた。 ドラムスはAO、ベースはKonceptのK、アルトサックスK、テナーサックスえんたく(後に脱退)、トロンボーンFでずいぶん長いことやっている。年に3~4回ライブをコンスタントにやるようにしているためだいぶバンドとしての余裕ができてきた。E嬢がMCで場を盛り上げてくれるから助かる。定例的にやっているのは学生時代からの付き合いでH大学出身テナーサックスのTの経営している「なってるハウス」。「まつ」のイベントにも不定期で出演している。

 2003年にボーカル,コーラスのYちゃんからTower of Powerのカバー・バンドをやらないかと誘われる。TOPのオルガン・パート弾けるなんて、それだけで嬉しかったのですぐに加入。Revive Brainというとてもレベルの高いバンドですごく勉強と刺激になった。リード・ボーカルは関西系でD大出身のKちゃん。共通の知人も何人かいた。コーラス&パーカッションは同じく関西系のKやん。金融マンとは思えぬファンキーさ。コーラスはYちゃんとAちゃんの二人(Yちゃんは後に脱退)。ドラムスは会社員もやりながらプレイヤーとプロデューサーを両立させているEさん。すごいバイタリティーと思う。ベースはIくんで付き合いやすいキャラですごい努力家だ。ギターがEarth Wind & Fighters(知る人ぞ知るEW&Fのカバー・バンド)のギタリストで最高の音楽性と寛容な人間性を持つすばらしい人だった。ホーン・セクションがすごい。楽器を職業でやっている人が中心でペットのコージさん、ボントロのチーズさん、テナーサックスのノムヲさん、トランペットのTDLさんに加えてアルトサックスのK(D大、ほくそ笑み関連)。TOPのホーン・パートを毎回ほとんど一発で合わせていた。高田馬場でのイベントを皮切りにFriday、Thums upなど横浜中心にライブを数回やった。惜しくも解散してしまったがすばらしいメンバーだった。

 解散に前後してコージさんに声をかけられてMaynerd Fergusonを追求されるバンドに参加する。演奏レベルが高くて音楽や楽器にかける情熱がすばらしい人ばかりで、ピアノは僕なんかでいいのだろうかと感じるぐらい。その名もMF Tributeバンド(http://www7.plala.or.jp/tp/mf/)。トランペットはリーダーのMFパートのコージさん以下、トップのカルロス、Magnum、マネージャのYoshiさんで全員が素晴らしいプレイヤーだ。ボントロは熱いプレーのスティーブとRevive Brainでも一緒だったチーズ。スティーブが出張中にKさんがトラの時期があった。アルトサックスにKさんとテナーサックスのノムヲさん。ノムヲさんと僕は寸暇を惜しんで酒を飲む習性が似ている。リズムセクションはプロでやっているベースのsato-hiroくんとRevive BrainのドラムスのEさん。このリズム・セクションでのスリリングな展開が最近とても楽しみになっている。  昨年の横浜のLaf & Stingでのファースト・ライブをスタートにBフラットでの対バン、DugホールでのMF追悼ライブ(会場マネージャは以前ほくそ笑みでやってもらってたトランペットのKさん)。Maynerd Ferguson氏は2006年8月23日に亡くなった。このバンドは実は9月に氏が来日する際にクリニックを受け前座をやる予定だった!氏の急な逝去にはバンド一同本当に悲しんだ。  トランペッターのエリック宮城さんにバンドとしてクリニックを受けた時は本当に勉強になった。やはりプロの音楽力の深さはもの凄い。かつ辛抱強く教えていただきエリックさん人間の深さを感じた。先の追悼ライブでは何曲か共演していただいた。
 Magnumの依頼で実力派で本格的な活動をしている藤沢SJS(喇叭ヲタクさんリーダー)のイベントに参加させてもらった。大きなホールでプロ・トランペッターの田中哲也氏と共演しとても気持ちよかった。K大時代の同期でK大フルバンのバンマスだったTと再会。
 このMF Tributeというバンドは本当に僕のピアノなどでは不足なのだがみんな暖かく受け入れてくれるので何とかやっている。これからもライブ活動を続けていくだろう。

  この何年か仕事で千葉氏の外房線鎌取という駅の近辺に住んでいるのだが地元でのささやかな音楽活動ということでAnchor Down(http://www.age.ac/~tomas/i/pagebar_anchor.shtml)というバーで月一回のライブを行っている。もう2年近くになる。当初はベースのKさんが入っていたが仕事が忙しくなり(東京から平日移動しなければならない),今はパーカションのO戸くんと二人でやっている。

 そして最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げた。始めたばかりなのでまだどうなるかわからないのだが、ソウルフルなボーカル・バンドをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 自分を表現すること、音楽を通じて人と会話できてお互いを高め合えること、そして素晴らしい仲間と知り合えること! バンド活動により音楽を続けていくことによりいくつになっても豊かな人生を歩んでいきたいと想うのだ。

火曜日, 1月 02, 2007

社会人になってからのバンド活動を想う(その1)


 最近、久しぶりに新しいバンドを立ち上げることにした。大人のゆったりしたそれでいてパワフルなソウルをしっかりしたフュージョン系リズムセクションをバックにやりたいと思っている。

 社会人になってもう22年近くなるのだが、一度やめようと思った音楽を再開してから今に至るまでを書いてみたい。ただし全部書くとすごく長くなると思うので最初の10年ぐらいを忘れないうちに書いてみる。

 学生時代にはかなり真面目に音楽をやっていたが(「学生時代の音楽活動を想う」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_17.html)、大学を卒業して会社に入った時は中途半端に音楽をやるのがいやでもうバンド活動はやめようと思っていた。学生時代に書き溜めていたコピー・ノート(ジャズの人はフレーズや曲を聞いてコピーして自分のものにする)を学生時代を過ごした京都で未練を断ち切るために燃やしてしまったぐらいだ。
 今までと180度違う会社の世界で何とか生き抜こうと必死だった頃大きな事故にあって(「バイク・リベンジ!」参照http://zacky-kohs.blogspot.com/2006/11/blog-post_116251630224272367.html)長い期間、入院をしたのが音楽を再開するきっかけとなった。2度目の入院の時だった。ベッドの上で僕は無性に曲が書きたくなったのだ。家の人に5線紙を買ってきてもらって楽器もないのにベッドの上で曲を書いた。メロディもコードもすぐに頭に浮かんだ。歌なんか歌えないのに歌詞も作った。それでまたバンドをやることにしたのだ。

 学生時代の仲間に声をかけた。ボーカルのE嬢、テナー・サックスのN(E嬢の夫)、キーボードの後輩のH、ギターのTだ。E嬢、N、Tとは学生時代に同じバンドで知った仲だ。Hは同業なので同じバンドでは無いが最もよく遊んだ後輩で信頼できるプレイヤー。ホーン・セクションでもう一人、Hと同期のD大の有名なビッグバンドのコンマスであったKがアルトサックスで参加してくれた。ドラムはD大出身で当時から活躍していたスタジオ・ミュージシャンのSが手伝ってくれることになった。
 キーボードのHに参加してもらったのは、もう僕はピアノはちゃんと弾けないだろうと思っていたからだ。作曲に徹してバンドではベース・ラインをキーボードで弾こうと思いベーシスト無しでスタートした。
 バンド名は「ほくそ笑みブラザーズ」。Hと僕の二人のキーボーディストのコラボレーション・イメージだ。だいたいピアニストとかキーボーディストとか言うのはアレンジをやったりバンド全体を見なければいけない場合が多く、またギタリストみたいにすかっとさわやかではないので、いつも演奏しながらほくそ笑んでいることが多いのだ。それで 「ほくそ笑みブラザーズ」。  曲は僕が先に書き溜めたものから始めてHも素晴らしい曲をこのバンドのために書いてくれた。リズムにはシークエンサーを使った。ドラムスはこれを補足する形で入ってもらったので難しかったと思う。その後、ベースのI(学生時代にChicのコピー等をやったバンドで一緒)を入れて僕も半分ピアノを弾いた。結成して1年ぐらいで恵比寿でライブを行った。ちょうど僕が結婚する少し前のことだ。
 スタジオでレコーディングを行った。僕のオリジナルとHのオリジナルとDee Dee BridgewaterのBad for meの3曲。最後にライブをやったのはE嬢とNがアメリカに行く前の1996年だった。この時はしばらくこのバンドで演奏ができないことがわかっていたので気合が入っており、ビデオが残っているが結構気に入ってる。この頃はホーン・セクションに何名か加わっていた。テナー・サックスにK大後輩のY(通称死神博士)、ペットに今Dag(楽器屋)でマネージャのような仕事をしているKさん、ボントロにD大出身のT。ドラムスがSから変わってK大の先輩のTさん。この人も素晴らしい。当時「いたち」という京都で有名なバンドのドラマーだった尊敬の先輩だ。
 このバンドはその後も不定期にずっと続き今でも休止状態だが解散していない。

 その次にやったバンドはフルバンドでギル・エバンス・オーケストラの曲をHがすべてコピー・アレンジしてやったGEバンド。本当にHはすごい。耳もセンスも抜群である。Hは主にコンマスに徹していて僕がピアノを弾いた。曲はLiberty City、Eleven、Gone gone goneなど。藤沢のClajaでライブをやったのとK大学のフルバン(現役、OB)が集まって横浜でフルバン大会をやった。この頃(1995年?)僕はもう一度トロンボーンをやる気になり(高校のブラバン以来、「音楽との出会い」参照)大学の後輩からCornの楽器を安く譲ってもらって練習を始めていた。GEバンドではボントロも吹いた。

 同じ頃、ボントロでコンボをやりたい、と思い始めドラムのAO(Foul Playersというバンドで学生時代いっしょにやった)から「まつ」というJazzサークル(?http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/index.html)を紹介してもらった。AOもドラマーだがここのところトランペットを本気でやっていて一緒にコンボ・バンドに入れてもらうことになった。リーダーはベースのKさんでバンド名はKoncept。Kさんは理論派ベーシストで(生活はあまり理論派ではないようだが)、この後も長くバンド活動をやることになる。フロントはAOがペット、テナーサックスがE(K大学の名物男、特技は「女」。これもまた後で紹介しないと...)、ボントロが僕。リズム・セクションがピアノがK原さん、ドラムスがO村さん。 スタンダードから始めてモードやKさんのオリジナル等をやった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1998/bonen.html)。

 調子に乗ってボントロで「まつ」メンバーで結成されている「まつビッグバンド」に参加させてもらう。ギターのセミプロでS崎さんという方が譜面提供、コンマス、指導をしてくれていた。この人は性格的にもとても素晴らしい人で丁寧な譜面を書いていただき僕みたいなボントロでも使ってくれて、とても楽しかった。

 さらにホーン・セクションをやりたくてベースのI(学生時代にDEWというバンドで一緒)がやっている「FB’s」に入れてもらう。池袋のYAMAHAでリハと飲み。とても新鮮だった。ギターはD大出身のA、ドラムスはスタジオ・ミュージシャンのS、アルト・サックスは「ほくそ笑み」でも一緒のK。ボーカルはYAMAHAの先生で女性の名前は忘れてしまったのだが、本格的にやっているいい感じの人だった。しばらく続けたが僕がボントロからピアノに戻りつつあったために脱退した。

 「まつ」関連が続く。「まつ」の催しでコンボで演奏することに。今度はピアノで。メンバーはKonceptからテナーのE、ドラムスのO村さん、ベースのKさん。ところが本番直前になってあろうことかO村さんが亡くなってしまったのだ。ショックだった。若いのに。ドラム無しの弔いライブとなった。荏原文化センターというところで力いっぱい弾いた(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/njf/index.html)。曲はKさんのオリジナル。

 さらに「まつ」イベントで例年新宿ピットインを借り切って忘年会ライブをやるのだが長年やりたいと思っていたKeith Jarrettのアメリカン・カルテットの曲を2曲やった。The Richという曲とShadeという曲。テナー・サックスは学生時代からのつきあいのT(なってるハウス店長)、E(特技「女」)、ベースはKonceptのKさん、ドラムスはDちゃん。みんな超強力で僕のやったコンボの中で最高の経験の一つとなった(http://www2s.biglobe.ne.jp/~ebiebi/bonen1999/bonen3.html)。

 ともかく大きな事故がきっかけでまた音楽をやり直してみようと思った。ピアノを弾くことなんて諦めていたのだけれど、バンド活動を始めているうちにやはりどうしても弾きたくなった。ここから先の後半の10年は自分がやりたかった音楽をひとつずつ、少しずつ進めていくことになった。音楽は僕のアイデンティティーの一つだということがやっとわかったのだ。

ありがとう、音楽! ありがとう、いっしょにやってくれた皆さん!