熊野寮外観(HPより)
京大熊野寮で大学時代の4年間を過ごした(注:4年で卒業したわけではない、1年目は下宿)。そのうち2年間をA-401号室というネオンと黒壁のある部屋で過ごしたのだが、ネオンも黒壁も僕が創造した産物でこの部屋は再起不能かと思われる。
僕がこの401号室で空き放題に暮らすようになった経緯は次のようなものである。
入学して今出川通りのお茶屋さんの3階に下宿(本当の昔ながらの部屋を借りる下宿)。当然のことながら素行上の理由(夜が騒がしい)で1年で出て行ってくれと言われる。
かなり貧乏だったために寮生活をすることに。何しろ寮費は月700円で寮食は学食より安い!(しばらくして3倍の2,100円に値上げしたのだがそれでも下宿に比べると格安) 最初の1年は二人部屋、先輩のKさんといっしょだったが、この人が一度社会に出てからまた大学に入りなおした苦労人で、いろいろと親切にしてもらった。これが2年目。
ところで寮は2つあって吉田寮(木造)とこの熊野寮。この2つの寮は昔から学生運動の拠点のように考えられていた。当時はまだ学生運動が下火ながらも続いていた頃で、やはり○○派の生き残りみたいな人がいるにはいたのである。僕はまったくのノンポリなのだがそれでも付き合いでシュプレヒコールやデモ行進に参加したことがある。当局(警視庁などの国家権力を指す)の捜査が入ることもあり、ある朝起きたら寮は機動隊に囲まれていた。何が困るってバイトにいけないのが何より困った。
この寮には在寮期間中に一年だけ一人部屋に住むことができる。3年目は一人部屋に移り、E先輩からもらった土管で作った大スピーカーでJAZZをがんがんかけまくっていたので寮の広い敷地を隔てた表の丸田町通りまで聞こえていたという。
そして4年目に規則上、二人部屋に移ることになった。この時に同じ寮で軽音楽部でベースをやっていたHと策略を練った。二人でA-401号室に入ることとし、当時彼女のマンションに同棲していたHを幽霊寮員として一人部屋化を図ったのだ。
まず、部屋の壁を塗り替えてリフォームを図ろうとすべての壁を真っ黒に、桟の部分を青に塗ってしまった。この部屋は二人部屋使用なので18畳ぐらいあって結構だいへんだった。なぜ黒だったかというと、当時は黒ファッションが好きでライブの時なんかもよく黒装束服を着ておりこの色が僕のシンボルだったような気がしていたからだ。
黒壁化は僕的にはかなり気に入っていた。訪れる友人は半分は僕だからしょうがないと諦め、四分の一があきれ、残りが「この部屋は再起不能やなあ。」顔をしかめた。つまり賛同する人はいなかった。
その部屋には音楽関連その他の大勢の人が遊びに来て、打ち合わせ兼飲み会、音楽鑑賞兼飲み会、座談会兼飲み会など、純粋な飲み会など(つまりすべて飲み会)が繰り広げられた。土管スピーカーで音楽を聴きながら。
・バンドの打ち合わせ。曲を聞きながらみんなで次のライブの構想を練る。
・手に入れたトカゲ酒(瓶の中に本物のトカゲ入り)を後輩に飲ませる。「オレの酒が飲めんのか」的なパワハラのノリで。
・炊事場で友人のドラマーで中華料理店の息子が焼きそばとから揚げを作ってくれる。「肉に味を付けるんや」とさすがに旨い!
・H先輩と二人で飲みすぎでウォッカを二人で3本空けた結果、翌日病院送りとなり点滴を、、、情けない!
・銭湯に行くのが面倒な時は炊事場で石鹸で洗髪をする。
・「いやらしりとり」という遊びをする(これは寮生活の中で最もくだらなくも面白い記憶なのだが、書き方が難しいので後日)。
・純真な後輩が遊びにくるともっともらしい嘘を言って騙して遊ぶ(そんなに悪質ではないのでご心配なく)
さてもう一つのネオンの方は何かというと、これは「看板及び標識の収集」をしていたことに関連する。その頃の僕は収集盗癖があり、何の罪悪感も感じていなかったのであるが、寮の部屋を独り占めしたことを良いことにネオン付きの看板及び交通標識を部屋のインテリアとして収集していた。
酒を飲むと、「この看板ええなあ~」と言っていきなりコンセントを引き抜いて担いで持って帰るのである。喫茶店とかゲームセンターなんかのネオンがチカチカ光る結構大きいシロモノである。自分でやる場合もあるし人にやらせる場合もある。一緒に飲んでいた後輩に「お前ら、今日はこれを持って帰る。そこの二人で持って帰るんや。」「ええ! 勘弁してくださいよ。こんなん、めちゃ重いですよ~。」という後輩に「小さいことは言うな、行動開始や。」と無理やり担がせて寮の部屋まで持って帰るのであった。そうしているうちに寮の部屋はネオンの看板でいっぱいになった。
交通標識も欲しいなあ、と思い「徐行」の看板を一つ、失敬する。後輩と飲んだ帰りに「このバス亭欲しいなあ。」、「ほな、持って帰りましょうか。」と動かしてみるのだが、これはさすがに重い! 10mで挫折した。(翌日市営バスの熊野神社前は10m西に移動していたはずなのだが何日かで誰かが元に戻したようだ。)
さて、その401号室の生活も1年が過ぎ学生生活も5年目となった。幽霊寮員のHの件もさすがにこれ以上は寮管理者をごまかせず同居人を受け入れることになった。K君というのだが、これが都合のいいことにボクシング部員であった。何故都合が良いかというと僕は2回生の夏までボクシング部員で彼の一応先輩ということになるので体育会系の慣わしとして何でも言うことを聞くのである。
ある日、こちらはバンド練習の後の飲み会で酔っ払って帰る。時間は深夜3時ごろ。401号室にバタンとドアを開けて入るとK君が慌ててムクっと起きて、「あっ、今日1:00ぐらいにEさんという方がいらしゃって、自分の部屋で飲んでるそうです。これで通じますか。」という。「ああ、わかった、わかった。」といいEのところに一升瓶を持って飲みに行くのだ。
さてこんな寮生活も終わり、社会に出ることになった。看板類は横の談話室と言われる誰も使っていなかった共有部屋へ移動。さぞかし迷惑だったろう。寮の誰かが捨てたに違いない。部屋の黒壁はどうなっただろうか。何しろ色が真っ黒なのでその上から塗りなおしてもかなり無理がある。そのままかもしれないなあ。
(付記:7月に恐る恐る見に行ってみた。部屋の中は見れなかったがドアは同じで僕が塗った青色のまま。当時貼ったライブアンダーザスカイ’84のステッカーまでそのまま。ドアは開き戸から何故か引き戸に改造されていた。談話室は人が住んでいたようだ。もちろん看板はない。)
ところで最近同じマンションの違う部屋に住み替えることにした。その部屋の番号がA-401。偶然の符号ながらネオンでいっぱいになったり壁が真っ黒にならないことを祈るばかりである。
あらゆる状況を楽しんで生きて行きたいと思います。昔の話も多いのですがぼちぼち更新中。Facebookからの友達申請もお待ちしています。 http://facebook.com/Kohsuke.OZAKI
日曜日, 7月 15, 2007
月曜日, 7月 02, 2007
日本橋酒気帯びひき逃げ未遂事件を振り返る
上の事件が何年前のことだったかというと下の子供が幼稚園だったような気がするし、当時乗っていた車から考えても8-9年前と思う。
その日は下の子供を車の後ろに乗せて何かの用事で都内を走っていた。自分の会社の近くを通りがかったのでせっかくだから子供に会社を見せようと思い自分のフロアの近辺まで連れて行く。その後、昼食時になったので新日本橋の近くにあるうなぎ屋さん(昔から好きで今でも時々行く店)に行くことにした。
近頃は酒気帯び・酒酔い運転の取り締まりが厳しくなったが、昔のことでもあり、特に僕は多少の酒は気にせず飲んでいたので昼食についついビールを一杯。良い気分で店を出て駐車場から車を出した。その店は昭和通に面しており歩道を越えて昭和通に出そうとした時のことだった。
歩道を低速度で走っている自転車がうかつなことに目に入らず接触。自転車の人は向こう側に倒れてしまった。怪我はなさそうだが自転車は傷がついたか?(まあそれぐらいの当たりだったのだが) 自転車の男は20代後半ぐらいで、やはり怒っていて無言ながら自転車を起こしながらこちらを睨んでいる。まずいなあ、大事にならないうちに早く自転車代払って示談で済まそう。と思って車をとび降りる。
「すみません! だいじょうぶですか。。。」
と声をかける。するとすごくすごくアンラッキーなことが起こった。何故かその直後にチャリのお巡りが2人、たまたま巡回していたのか、やって来てしっかり現場を取られてしまった!
「とりあえず近くの署まで来てもらいましょう。」
署の近くに車を停めて小さな派出所程度の警察署に子供と一緒に連行される。子供は飴でも食べていなさい、と言われて待合室に。僕は事情聴取に。
調査の質問が始まって5分くらい。
「あなた飲んでるでしょう?」
やっぱ、ばれるよなあ。覚悟する。
「実は。。ビールを1本だけ。。」
「酒気帯びで事故起こしたら普通の会社とかだと懲戒免職なんだよ。」
「...」
困ったなあ。
「とにかく被害者の人の聴取が終わるまでしばらく待ってなさい。」
1人で小部屋に待たされる。横の部屋では被害者の自転車青年の事情聴取が行われているようだ。 まったくこんなことで本当に免職とかになったらかなり気まずいなあ。「すまん!」だけでは家族にもすまんだろうなあ。
何分か待っていると、すごくラッキーなことが起こった。署の人が来て、
「どうも相手の自転車の人、あんたと同じ会社の人みたいだよ。話してみる?」
何と! いくらうちの会社の社員が多いからと言って、休みの日の会社から近いところでもないところに、たまたま自転車で走っている人とたまたま駐車上から出てきた車の運転手が同じ会社だなんて!
自転車青年のところに行く。
「同じ会社なんだって? 部署はどこですか? SEなの? へえ、じゃあミッドレンジ・サーバーだね? いや悪かった、申し訳なかった。最上級の自転車買って弁償するから、云々かんぬん。」
という訳で自転車を弁償することで事なきを得る。いや、ほんとに危ないところだった。銀行口座を聞いてそれなりの額を振り込んで示談となる。さて事なきを得たその後の話としては下の幼稚園の子供の事である。この子はどちらかというと現金で母親派でありよく裏切られることが多いのだが。。。気まずい思いをさせたと思い声をかける。「すまんなあ、S(下の子の名前)、怖くなかったか?」
「いや、別に。。。」
「まったくビールなんて飲まなきゃよかったなあ。」
「え、うん。。。」
などと帰りの車の中でぎこちのない会話をする。それが家に帰ったとたん、母親のところに駆け寄って、
「お母さん、今日はたいへんだったんだよ! お父さんがお酒飲んで運転して警察につかまっちゃって。僕はもう怖くて、怖くて、、云々かんぬん・・・・・」
う~む、これは殺すしかないな、この下の子供は。。。とこの時、心に決めたのであった。(似たようなことがこの後、この子と二人で旅行した時にももう一度。それはまた。写真はこの頃だったと思われる下の子供がミニ四駆に夢中の時代)
とにかく、九死に一生を得て酒気帯びひき逃げ→懲戒免職は免れた事件であった。自転車青年はまだ弊社にいるであろうか?
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